第35話 よるでんわ、です
「あ、しえら。さっき電話鳴ってたわよ」
「え……」
夜。お風呂から出ると、お姉ちゃんがスマホを手渡してきました。
お姉ちゃんとツーショットの待ち受けに、ぽつんと浮かぶ一件の通知。
「……奈緒ちゃん」
電話の主は、奈緒ちゃんでした。
他にメッセージは、届いていません。
――私には、無理だよ。
あの後、スピカちゃんはただ一言「……そう」とだけ言って歩いて行ってしまって、ポーラちゃんが慌ててその後を追いかけて。
立ち止まって俯いたままの私に、奈緒ちゃんは何度か声をかけようとしてくれたけど……結局、何も言えなくなってしまったのでしょう。
「……ごめん。また、明日ね」
それだけ言って、帰っていきました。
「かけ直さないの?」
「……明日でいい」
「そ。……あんまり身体、冷やさないようにね。夜更かしはお肌の天敵よ。おやすみ」
「うん。おやすみ、お姉ちゃん」
毎晩、寝る前に屋上に出て、湯冷めしない程度に夜風を浴びながら星を見るのが、私の日課です。
今日もいつも通り、そうするつもりでした。
「……寒い」
外に出た瞬間、思い出したのはあの日の事。
天文台ライブの日、奈緒ちゃんの差し伸べてくれた手を跳ねのけて、逃げ出して……ぐしゃぐしゃに泣きながら見上げた、滲んだ夜空。
そっか。私、またやっちゃったんだ。
あの日と同じに、奈緒ちゃんの差し出した手を拒絶して。
突き放すような言葉まで声に出して。
「最悪だな、私」
思わず呟いて、空すら見ないうちに部屋に戻ろうとしたときでした。
「ひゃっ……!?」
手の中のスマホが、勢いよく震え出したのです。
奈緒ちゃんからの着信。
「…………」
迷って、悩んで。……通話ボタンをタップしました。
「……もしもし、奈緒ちゃん?」
『あ、しえら! ごめんね、寝てた?』
いつもと変わらない、明るくて優しい奈緒ちゃんの声が、スマホの向こうから少しくぐもって届きます。
「う、ううん。今、星を見に出てきて……」
って言っても、もう戻ろうとしたところなんですけど。
『マジ? 奇遇じゃん、アタシもなんだー』
「え……」
『しえらもベランダ?』
「あ、えっと、私は……マンションに、ルーフバルコニーがあって……」
『えっ何それ、スッゴクない!? ルーフバルコニーって、なんかオシャレな男女が集まって
「う……うん。すっごいの。びーびーきゅーはわかんないけど……」
『にゃはぁー、憧れる~! ね、けっこう広い? 空全部見える?』
「うん、広いよ。開けてるから、北も南も全部……それに、望遠鏡もあるから。もっとたくさん、たっくさんの、星が見える、よ……」
あれ……?
どうして私、こんなこと、自然に話せているんでしょう。
さっきまで、視界はまるで澱んで、空を見上げる気すら起きなかったはずなのに。
『いいなぁー。今度ゼッタイ遊び行くから! てか週一で行くし!』
「……うん。お姉ちゃん、私にお友達ができたの喜んでくれて……私も、大好きなお友達のこと、お姉ちゃんに紹介したいから……絶対、遊びに来て。それで、一緒にっ、星、見ようね。やく、そ……」
ああ……悔しいな。
最後まで言葉にすることが、できませんでした。
『ん。約束ね』
涙を拭って、冷たい夜の空気を吸い込んで、吐いて。
前髪をよけて、空を見上げる。
誰かの隣で見る星空が、そこには広がっていました。
「……奈緒ちゃん。今日は、ごめんなさい」
星に勇気をもらったみたいに、伝えられなかった言葉が溢れてくるのを感じます。
『な、何でしえらが先に謝っちゃうの……こっちが謝りたくて電話したのに』
「だって私、また奈緒ちゃんの手を払ったから」
『手……ああ。そんなこと、ないよ。またアタシが空気読めないこと言っただけ。こっちこそ、ホントごめん』
「ううん。奈緒ちゃんは私がレイ先輩といるのを見て、ベースに興味あるのかもって思ってくれただけでしょ? それを私が、必要以上に強い言葉で……」
『あーもうっ、なしなしなーしっ! どっちが悪いとかそういうのもう全部リセット! おあいこ! どっちもごめんでおしまいっ!』
奈緒ちゃんの声のもっと向こうから、別の人の声が聞こえました。
『わっ、ご、ごめんごめんお母さん……と、とにかく、今日のことはもうこれで引き分けだからねっ』
「……ふふっ。うん、わかった。ありがとう、奈緒ちゃん」
『こっちこそありがと。ほら、ごめんよりありがとのが気分いいじゃん?』
奈緒ちゃんの言う通りです。
ごめん、また明日……のままで明日を迎えるのが嫌だったから、奈緒ちゃんは私に電話してくれた。
おかげで私も、ありがとう、また明日……で今日におやすみできるのです。
『ね、まだまだ今日のこといっぱい話そうよ。帰り道はアタシとスピカが話してるばっかりになっちゃって、しえらの話聞けなかったから』
「う、うん……」
私は奈緒ちゃんに促されるまま、今日あったことの話をしました。
レイ先輩が椅子からずり落ちそうになっちゃってたこと。そこに隆子さんが来てくれたおかげでずり落ちずに済んだこと。レイ先輩にベースについて一緒に教えてもらったこと。隆子さんはたくさん楽器経験があって、ベースも飲み込みが早かったってレイ先輩が感心していたこと。
隆子さんが、天音部でも一番になろうとしていること。
『へー。お嬢が、そんなこと……』
お嬢らしいです、隆子さん。
「だから、さっきは言えなかったけど、奈緒ちゃんたちのバンドのベースは、隆子さんがいいんじゃないかなって思って……」
『……ホントに?』
「えっ」
予想していなかった答えに、ただただ面食らってしまいます。
『しえらは、ホントにそれでいいと思ってる?』
「う……うん。隆子さんが適任だと……」
『じゃ、何でスピカが聞いた時にはそう言わなかったの?』
「……っ」
わかりません。
自分でもわからないんです。
奈緒ちゃんたちとステージに立つ隆子さん。
その光景を想像した時の、あの胸の痛みの正体が。
『……アタシ、しえらのやりたいこともやりたくないことも、しえらの好きなように選んでほしいって思ってる。あの『無理』も『できない』も、ホントに心の底からの言葉なら、当然アタシだって無理強いしない。……でも』
曲げない、止まらない、嘘偽りのない、奈緒ちゃんの言葉。
まっすぐにまっすぐに、夜を貫いて地上に届く光のような、言葉。
『心の底の、しえら自身のホントの気持ちにだけは、正直でいてほしいって思うよ』
私の、ほんとの、きもち……。
音楽が好きで、本気のみんなを応援したいのが、私の気持ちだよ。
――しえらは、ベースやってみたい?
できないよ、私には。
だって向いてない。
ベースはすごい楽器なんだよ。
星々の光を繋いで、支える、とっても大切で、立派な楽器なんだから。
――もしお前が、ほんの少しだけでも楽器をやってみたいと思って……
――そしてその楽器が、ベースだったのなら……
――俺に、教えさせてほしい。
私なんかに、先輩の時間を使わせられない。
レイ先輩の本気には、本気で答えなきゃ失礼だ。
だから本気になれない私には、星になれない私には。
眩しいみんなを、輝かしいみんなを、暗がりから見上げる方が、ずっと似合ってる。
それが私の、ほんとのきもち?
……じゃあどうして私、今、笑っていないの?
『……あー、難しいこと言っちゃったかも。深読みして悩まないでね、しえら。アタシの方はぶっちゃけ何も考えてないんだから。にはは』
「う……うん」
『お嬢のことは、明日にでもアタシからスピカに伝えて相談してみる。スピカやポーラ、何よりお嬢本人がどう思うかだけど』
きっと、喜ぶと思います。
スピカちゃんが欲しがっていたのは、奈緒ちゃんみたいな『本気』の仲間だから。
『明日といえば、金曜は天文の日だね。今から予習しとく?』
「いいけど……あんまり遅くなったら、朝起きるのつらいよ? 明日のお楽しみにとっておこうよ」
夜更かしはお肌の天敵です。
『にははっ、確かに。アタシ朝弱いからねー。それに……』
「それに?」
『星は逃げないしね』
「……うん」
今日の星は、明日もそこにあります。
まるっきり同じことはないけれど、雲に隠れることもあるけれど。
当たり前の約束みたいに、明日の夜もそこにいてくれる。
「それじゃ……お電話、ありがとう奈緒ちゃん。また明日ね」
『うんっ。しえらも、あったかくして寝なよね。おやすみ、また明日!』
だから明日も隣で、一緒の星を見ようね、奈緒ちゃん。
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