第22話 おかえり、です

「あっ……先輩。今のは」

「ああ。ちゃんとした宣戦布告は、三人揃って聞こう。今のはノーカンだ」


 微かに口角を上げたレイ先輩の背後、その扉の向こう。

 第二音楽室の中から、微かに楽器の音が聞こえてきます。


「……ハマルが出ていった後、安海が声をあげてな」


 驚く私たちに、レイ先輩は眠たそうな目のまま少し嬉しそうにぽつぽつと語ります。


「きっとあの子はスピカを連れて帰ってくる。だからその時、戻ってきやすいように、楽器体験を続けていよう、って。大半の生徒は帰ってしまったが……それでも何人かは、お前たちのために残ってくれた」

「……っ」


 胸の奥から、熱が込み上げるのを感じました。

 きっとスピカちゃんもおんなじ気持ちだったのでしょう。

 キッ、と唇を噛み締めてから、早足で先輩の前まで歩み寄ります。


「……先輩。さっきは、すみませんでした」


 そして、頭を下げました。


「ん……なるほど。俺が怒ってるように見えたのか」

「え⁉ いえ、そういうことじゃ」

「怒ってない。むしろ謝るのは俺の方だ。俺が余計なことを言わなければ、お前がわざわざ秘密を打ち明ける必要もなく、あんなことにはならなかったはずだ」

「そ、れは……いえ。きっと、遅かれ早かれ、打ち明ける日は来たでしょうから……先輩のせいなんかじゃない」

「それでも、もっとお前にとってベストなタイミングがあったはずだろう。俺は結果的にその機会を奪った。だから謝らなければならないのはこっちの方だ」

「ですから結果論でしょう、それは。元はといえば、私がみんなに黙っていたのが悪いんだし、先輩たちに対して酷い暴言を吐いたり迷惑をかけたりも」

「それは俺じゃなく、レグ先輩や安海たちに言ってやった方がいい。俺は謝られるようなことはされていない」

「せ、先輩も同じ部員じゃないですか! 迷惑を被ったのは一緒でしょ!」


 お互いに譲らない二人。なんだかおかしな光景です。


「……そうだな。俺もお前も、ハマルも。もう同じ天音部の部員だ。そして、謝罪などより先に、迎える奴が戻ってきた奴に告げるべき言葉がひとつあった。……正直気恥ずかしくはあるが、今は感傷に身を任せることにする」


 咳ばらいを一つして、先輩は目を逸らしながら照れくさそうに言いました。


「おかえり。ハマル、スピカ」


 そうだ。

 ここが、私の。

 そしてスピカちゃんの……居場所なんだ。


「……な、何か言え」

「っあ、はいっ。た、ただいまですっ」

「スピカは」

「っていうかっ、な、何でいきなり名前呼びなんですか!」

「何でって、あの流れの後で寂沢とは呼びづらいだろ……」

「それはそうかもですけどっ……!」


 またしても、堂々巡りです。

 ところで、その。

 さっきから音が止んでいるのと、扉の隙間からいくつもの視線が私たちに向けられているホラーな状況は、気にしてはダメなのでしょうか……?


「お。バレたっぽいぞ、ラン」

「もうちょっと見ていたかったけど、潮時かな。どうする?」

「オレが行くのはなー。うし、アユム、行ってこい」

「僕っすか⁉ いや、何言ったらいいんですか!」

「わからんけど、とにかく頑張れ!」

「あーそれパワハラだー。パイセンいけないんだー」

「マジかよー、でも先輩よりクラスメイトが行った方がよくねえ?」

「あ……僕クラスメイトじゃないんすよ。なんかすみません」

「ていうか、レイ先輩は普通に……」

「たまたまさっきジャン負けでジュース買いに行かせたとこだったんだよ。そうそう、あいつジャンケンめっちゃ弱いぞ」

「カモじゃーん」

「……何の話だったかな?」


 ほんとに、何の話をしているのでしょう、このひとたちは。

 などと考えていると、ドアが勢いよくずばーんっと開けられました。


「あー! やっぱりシエラタンとスピカタンなノ!」


 元気いっぱいに飛び出してきたのは、もちろんポーラちゃん。


「どーん、なノ!」

「ぴっ」

「ちょ、ちょっと⁉」


 おっきなワンちゃんに飛び掛かられるような勢いで、二人まとめてハグされてしまいました。


「えへへーっ、二人とも、おかえりなさいなノ! みんな待ってたノ!」


 ぷは、と顔を出すと、目の前に嬉しそうな……本当に心の底から嬉しそうなポーラちゃんの顔。その向こうに、ぞろぞろと出てきて思い思いの笑みを浮かべている部員の皆さんや一年生たち、そして……、


「……奈緒」


 スピカちゃんがぽつりと呟くと、奈緒ちゃんは気まずそうに目を泳がせながら、ゆっくりとこちらへ歩いてきました。緊迫した雰囲気に気づいたのか、ポーラちゃんも私たちを放します。


「お……おかえりっ、二人とも。な、なんか青春って感じしちゃうねぇ、にはは……」

「…………」

「…………」


 カタい笑顔のまま、固まって数秒。


「ごめんっ! スピカっ!」


 ふわふわの金髪をぐるんっと翻して、奈緒ちゃんが頭を下げました。

 謝られたスピカちゃんは、困ったような悲しいような、陰のある表情で黙り込んだまま、奈緒ちゃんを見つめています。


「アタシ、あのとき頭ん中ぐるぐるになっちゃってて……スピカが言われたくないこと、言っちゃった。スピカのこと傷つけちゃった」

「……いいの。黙ってたのは私の方なんだから。私の方こそ、酷いことをたくさん言ったわ。みんなの気持ちも考えずに」


 顔を上げないまま、奈緒ちゃんがふるふると首を横に振ります。


「レイ先輩から聞いたわ。奈緒が、私を待とうって言ってくれたんでしょう? ヒステリー起こして勝手に出て行って、戻ってくるかもわからない私なんかのことを」

「それは……しえらのことも、信じてたから」


 ふぇっ。わ、私?


「……そうね。そうだったわ。ちゃんとこの子が、見つけてくれた」


 やわらかくて優しいスピカちゃんの笑顔が、私に向けられます。

 それから、スピカちゃんは音楽室から出てきた全員に向き直って、頭を下げました。


「ご迷惑をおかけしました。新入生勧誘の大切な時期に、私事で活動を妨げてしまったこと、お詫びします」

「だぁーからぁ、そんな風に重っ苦しく考えることねーんだってのに!」


 部長先輩がガオーっと反論します。


「部員もこんなに確保できたし、楽器体験もさっきまでやってた! つまり迷惑なんて思ってねえ! さっきの騒ぎで帰っちまった子たちは、もともと天音部にあんま興味なかったってことだし……とにかくお前が気に病むようなことはナッシングだ!」

「でも」

「デモもサンプルもねえ! オレらは気にしてないからお前も気にすんな!」


 雑過ぎるよ、とラン先輩が溜め息をつきます。

 けど、こうでも言わないときっとスピカちゃんは延々と自分を責めちゃうだけだから、部長先輩の対応はある意味正しいのかもしれません。


「ったく、そんな難しい顔してたら楽しめるもんも楽しめねーぜ? 楽しいから音楽って言うんだ。せっかく天音部の仲間になったんだから、一緒に音楽を楽しもう。な?」


 まだ何か言いたそうにしているスピカちゃんの頭に、部長先輩のごつごつした大きな手がポンと置かれました。


「あっ⁉」


 短い悲鳴のような声を上げたのは奈緒ちゃんでした。

 頭をぽんぽんされたスピカちゃんの顔色が、あっという間に変わって。


「……気安く触らないでくれる?」


 氷のように冷たい表情になりました。

 ぺしっ。虫でも叩くように、置かれた手が払われます。


「あっれれぇー……オレってば、やらかっち?」

「やらかっちだね」


 やらかっちらしいです。何でしょう、やらかっち。


「パイセン、ダサーい」

「うぐぉぁっ。やめてくれ猛烈に死にたくなる!」


 洞辺さんの追撃で、部長先輩はもはや手負いの獅子です。……彼女のこと、あんまり知りませんが、さっきから先輩たちに容赦ない気がします。


「……まあ、やらかっちなレグのことは放っておいて。羽丸さんと寂沢さんも戻ってきたことだし、改めて楽器体験を再開しようか」


 ぱん、と手を打ったラン先輩の采配で、またみんながぞろぞろと音楽室に戻っていきます。

 ぴょんぴょん大はしゃぎで駆けていくポーラちゃん、がっくりとうなだれる部長先輩とその肩を軽く叩いて慰めるレイ先輩、そんな二人の様子を見てぷすぷすと笑う洞辺さんに、男子、女子、男子、女子……最後に、私とスピカちゃん、そして奈緒ちゃんが残りました。


「……ん」


 立ち止まったままのスピカちゃんに、奈緒ちゃんが右手を差し出します。


「…………」


 スピカちゃんが不安げに見つめ返せば、笑顔で頷く奈緒ちゃん。

 おずおずと返された手が、きゅっと握られて。


「しえらもっ」

「……うん」


 奈緒ちゃんの反対の手を、私も握ります。

 三人、手をつないで。


「行こっ!」


 満面の笑顔な奈緒ちゃんに引っ張られるようにして、私たちは、私たちの居場所へ。


 ――私に、スピカの居場所を教えて。


 きっと私が教えるまでもありません。

 明日になるのを、待つ必要もありません。


 だって、スピカの居場所は――

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