チャーシューメン
たつおか
焼き豚記念日
3歳になる娘をあやしていると思いだすことがある。
奇しくも3年前の出来事だ。
その日の朝、出勤間際の私に妻が言った。
『今日は3周年よ。楽しみにしててね』
出際ということもあってそっけない返事を返しただけではあったが、その日一日は妻の言った『3周年』が頭から離れなかった。
多分にロマンチストな妻は、ことあるごとに『記念日』を設定する女であった。
結婚記念日やプロポーズの日はもちろん、細かいものになると『スターウォーズの日』なる記念日まで私達の間にはある。
なんてことはない二度目のデートで観た映画にちなんだ由来ではあるのだが、ともあれこの多すぎる記念日は私にとって面倒な問題でもあった。
妻は私がこの記念日を覚えていないと途端に不機嫌になる。
そうなってしまうと途端に日常会話も他人行儀の事務的なものになってしまうし、その影響は昼食の弁当にまで及ぶ。
一度『ハネムーンの翌朝にブロッコリーを食べた記念日』を忘れた時には、弁当箱の本来ご飯があるスペースにぎっしりとブロッコリーが詰め込まれた物を渡されたこともあった。
もっともこうした記念日の設定は事あるごとに私達の愛もまた思い出させてくれたから、結婚前の付き合いから数えてもう十年近くを共に過ごすというのに、私達の関係は未だ出会った頃のように新鮮でもあった。
ともあれ、そうしたことからもこの『3周年』なる記念日は疎かにできない。
どうにか思い出せやしないかとその日一日は仕事も手につかずに考えていた私ではあったが──結局は思い出すことは叶わなかった。
こうなれば適当に話を合わせる他ない。
その会話の中で何の記念日あったかを思い出す以外にこの窮地を脱する手段は無い。
とりあえず少々値の張るシャンパンと薔薇を一輪買って包装してもらうと、私は重い足取りで帰路に就いた。
帰宅した私を出迎える妻に別段、変わった様子が見られなかったのが拍子抜けだった。
たいてい記念日の時には趣向を凝らした料理が用意されていることがセオリーで、玄関先にしてもう日常とは違った料理の香りが漂っているものだが、今日は餃子と思しきそれだ。
出てきた妻の恰好もトレーナーにジーンズ、その上にエプロンといった至って平素日頃の姿である。
ますます訳が分からなくなってきた。
考えすぎるがあまり玄関で立ち尽くす私に、妻もその手のシャンパンと薔薇に気付いたようだった。
『まあ素敵♡ 今日は何かの記念日だったかしら?』
受け取るまでもなく私の手からそれを取り上げて抱きしめると、妻はさも嬉しそうにその場でくるりと一踊りした。
『何って……今日は3周年じゃないのか?』
ついには訳が分からなくなって尋ねてしまう私に妻も目を丸くした。
そして次の瞬間には大きく声を上げて笑い出すのであった。
依然としていぶかしげな視線で見守る私を前に一頻り笑いつくすと、
『朝のことを言ってるのね? あなた勘違いよそれ』
妻は子供のように無邪気な笑顔を私を見つめ返してくる。
『いや、だけど確かに「3周年」って……』
『だから聞き間違えたのよ。私が行ったのは「チャーシューメン」よ。あなた好きでしょ?』
言われてしばし呆然とする。
『3周年』と『チャーシューメン』を聞き違えていたわけだ……あまりのバカバカしさに全身から力がどっと抜けた。こんな聞き間違えの為に今日一日、私は煩悶として過ごしていたのだ。
そんな私へと、
『だったら今日も記念日にしましょうよ。今度は何にしましょうかしらね?』
妻はまたも屈託のない笑顔を見せてくれるのだった。
そしてこの日の数週間後──妻は妊娠した。
やがて私は一女を授かることとなり今に至る。
娘をあやす時、私は必ずこの記念日を思い出す。
そして今日は紛れもなく3周年だった。
「あなた、準備が出来たわよ。さぁ、この子の3歳のお誕生日を始めましょう」
リビングを覗き込んできた妻は、私と娘を確認するとそう言って笑った。
あの聞き間違えの日に見せてくれたあの優しい笑顔だ。
キッチンからは餃子と、そして麺を茹でる湯の柔らかい匂いが漂ってきている。
私のとっては娘と、そして妻と過ごす日々の全てが記念日であるのかもしれない……すなわちそれは幸福であるということだ。
娘を抱いてキッチンへと向かう。
この記念日の定番メニューであるチャーシューメン……妻の作るそれに舌鼓を打ちながら、ギョーザとシャンパンで私達は娘の誕生日を祝うのであった。
チャーシューメン たつおか @tatuoka
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