世界一周の気球

穂積 秋

第1話

「いつになく町の空気がそわそわとしていて事情を知らぬ者にも響く期待感、役人はいつも通りに過ごせとおふれを出しているにもかかわらず、町の手すきのものどもは町はずれの広場にわらわらと集まった。

 これほどまでにたくさんの人びとがこの広場にやってきたことはかつてなく、広場に入りきれぬものも出たがたいていは狭いながらも窮屈に身を寄せ合って広場かあるいは広場に至る通りに収まり、揃って上を見上げていた。

 なかでも広場に面して鎮座する教会の鐘楼は大人気で、あまりに多くの人が登ったものだから、建てられて数百年にもなる石材がみしみしぎしりと音を立て、これはいけないもうだめと司祭も助祭も総出で入場制限をかけているので、鐘楼の入口付近で不満の声が相次いで、とうとう司教さまが出てきて大声を張り上げて信徒たちを宥めていた。

 このような苦労をしてまで町の人たちが見上げているのは、この町のシンボルとでもいう丘の頂で、大昔にはなだらかなふつうの小高い丘の形をしていたが、むかし昔のあるときに何の因果か巨人族の豪快幹竹割チョップを食らって二つに引き裂かれたという伝説を持っていて、頂上付近でまっぷたつに割れた半分だけが残されているので、町から丘を見ると文字通り切り立った崖になっている。

 この町の子どもは、大人たちの目を盗んでこの崖を登って高さを競う遊びを代々受け継いでおり、それを危ないからと注意している大人たちも子供のころは登ったのだから強くは言えず、もはや伝統芸とも言える芸になっており、すばしこい子になると道具を一切使わずに崖の三分の一くらいのところまで登ったという。

 そんな町のシンボルの丘の上に大きな布を広げて組み立て、下から空気を送り込んで、だんだんと布が球形になっていくのを町の人たちはみんなで眺めているのであった。

 本物の気球を見るのはほとんどの人が初めてで、気球という名前自体も知らない人も多かったが、打ち上げの企画がこの町に持ち込まれたのは数か月前のこと、気球に乗って世界を一周して三年で帰ってくるという計画を立てた三人組のグループが町長のもとを訪れて、世界中の寄港地の候補を調べ上げたと称していたが、この国と隣国の周辺しか調べていなかったのだから、本当は世界一周などする気がなかったのか、あるいはずいぶん世界を狭く考えていたのであろう。

 寄港地の候補の中から厳選し、いくつかの町の役人とも協議を重ねて出港地をこの町に決めたとステイトメントが出されて、世界一周の気球の旅に向けた準備が始まった。

 出発する日取りもちゃくちゃくと決められる中、決まったからには楽しむべしと町の人たちはみなイベントを心待ちにするようになったのだった。

 気球がちゃんと球になってきたのでバーナーが点火され、風船の中の空気を熱した空気に入れ換える工程に変わっていた。バーナーの轟音は丘の上から町全体に降り注ぎ、広場にも例外なく響きわたっていて、それがだんだんと野次馬どものテンションを上げていったせいで、まだかまだかと騒ぎ出すものも広場のあちこちで見られた。

 乗組員が一人ゴンドラに乗り込み、町のみんなが見守る中で、風船の浮力が強まっていき、ついにゴンドラが空中に浮いて、繋留のロープを解けば空に飛び出せる状態になった。

 丘の下からの視線を一斉に浴びる中、一陣の風が丘の下から吹いて、煽られた気球が向こうに押し出されるそのタイミングでロープはほどかれて、気球は世界一周の旅に乗り出した。冒険の始まりである。」


 この手記を読んで、記事の日付を見て、三年前の明日であることを確認した。

 あの、切り立った丘のある町を訪れたのがちょうど気球の打ち上げをしている日の前々日だったのだ。私が仕事であの町に行き、その晩仕事相手のカレルとディナーを一緒しているときに聞いた。

「翌々日はイベントがあるのです」

 なんですか、と私は尋ねた。

「気球を打ち上げて、世界一周するんだとか」

 気球ですか。それは面白いですね。私は面白いとは思わなかったが適当に相槌を打った。

「この町の人たちは娯楽に飢えてますからね」

 カレルはシニカルに笑って、なんでもお祭りにしてしまうんですよ、と続けた。

「気球で旅をするというのは危険を伴います」

 私は少しだけ知識を披露した。

「なにしろ、荷物は極限まで軽くする必要があるので。食料や水も少なくしなければいけません。しかも気球は操縦が難しい。思い通りのところに行かないかもしれません」

「ああ、そうでしょうとも」

 カレルは私に同意した。

「それでも、いや、それだからこそ、面白い」

 私にはカレルが本当に面白がっているのかどうかわからなかった。さっきからシニカルな笑いを続けているのだ。

「三年で世界一周っていうのも、眉唾でしょう。絶対に、予定通りには帰ってこれないと思いますよ」

 とうとう、私は切り出した。確信めいたものがあった。気球に乗ったことはないが、旅には向いてない乗り物であることは知っていたのだ。

 カレルは表情を崩さずに私を見ていたが、

「私は、ちゃんとぴったり三年後に帰ってくると思いますよ。この町の人たちはそういうのが好きですから」

 きっぱりとそう言った。

 しかし好き嫌いで決まることでもないだろう。そう思って口ごもっているうちにカレルは私に提案した。

「よし、この町の風習にならって、私たちも楽しみましょうか。私は、ちゃんと帰ってくるほうに三十クローネ、賭けましょう。あなたはどうしますか?」

 売りことばに買いことば、レイズにはコール。

「乗りましょう。私も三十クローネ賭けます」

 私は賭けに乗った。

「では、三年後を楽しみに」

 そうして、私は滞在を一日だけ延ばし、気球イベントを見てからその町を去ったのだった。

 一週間後、カレルは雑誌記事を送ってきてくれたが、その後私はカレルの担当を外れてしまった。あの町に行くことはもうなかった。

 デスクの引き出しの奥からひょっこりと出てきた三年前の雑誌を読んで、急に思い出したのだった。しかもお誂えむきの明日がその期日である。出来過ぎなように思う。まるで、誰かの意志を感じるかのような。

「よし、いこう」

 私は独り言を言いながら、三年ぶりになるあの町を訪れることを決めた。


 町に着くと、人がごった返していた。町の入り口付近の広場には、三周年記念、と垂れ幕が降りていて、教会の鐘楼にも人だかりができていた。この中からカレルを探すことは骨が折れる。よほどの幸運がないと無理だろう。と思った矢先。

「お久しぶりです」

 背後から声をかけられ、振り向くと、奇跡的なことにカレルがいた。

「何しにここへ?」

 賭け事の結果を見にきたとは言えず、適当にごまかした。

「いよいよですよ。気球が帰ってくるのは」

「帰ってきませんよ」

「どうでしょうね。失礼ですがあなたはこの町の人を知らないんだと思います」

 カレルは穏やかに笑っていた。

 しばらくは屋台を眺めたり大道芸を見たりして適当に時間を潰した。まさにお祭りである。

「ほら!」

 カレルが指差した先には、小さく気球が見えていたが、だんだんと大きくなってきて、やがて丘の上に着陸した。私は賭けに負けたのだ。

 町の人たちの熱気は最高潮に達した。

 丘の上に集団で走って行く一団がいて、それに伴って英雄がやってきた。広場の近くまでくると、鐘楼に登って手を振った。

「あれ?」

 私は訝しんだ。

 三年前に気球に乗って行った人はこんなに背が高かっただろうか?

「あれは、本当に気球で世界一周した人でしょうか?」

 思わず、カレルに尋ねると。

「野暮なこと言わないでください。みんな知ってますから。別人だってことくらい。本物は初めっからこの町の寄付金が目当てで、旅をする気なんてなかったんでしょうよ。でもね」

 カレルは私に最高の笑顔を見せた。

「この三周年記念の企画料としては、安いもんですよ」

 さらに破顔した。

「あなたもそう思うでしょう?」

 ああ、私の三十クローネも安いもんだ、そう思うことにした。

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世界一周の気球 穂積 秋 @min2hod

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