【短編】1秒

@Mapusan

恋の章


 私には、時間を1秒だけ止められる能力がある。たった1秒。それも人生に1度きり。物心ついた瞬間から、既にそれは「できること」として、私の脳裏に刻まれていた。私は人生のうち、1度だけ、そして1秒だけ、時間を止めて動くことができる。


 この能力を、何か特別なタイミングで活かしたいと考えるのは当然のことだ。事故から自分を救うためでもいい、他人を救うためでもいい。その1秒がなければ、絶対にできないこと。そのために使うべきだろう。


 使い道は定まらないまま、私は高校生になった。私は凡庸で、普遍的で、およそ何一つ特別な個性のない女性として育った。両親にも愛されていたし、友人にも恵まれていた。病にわずらわされることもなく、不能につまづくこともない、とても静かな人生を送っていた。


 だから、普通に恋もしたし、それが愛に育つことを願いもした。

 だから、私を拒絶する言葉に対して絶望したし、泣いたりもした。


 私が恋した女性は、一つ年上の同校生で、進学科の優等生でありながら、髪を染め、ピアスを開け、複数人の男性との交遊関係が噂され、それでも自由奔放に振る舞う、獣のような人だった。私は、彼女が持つ激情をうらやんでいた。


 そう、羨望だ。その原型は恋心ではない。ならば、いつすり替えられたのか。何も分からないまま、しかし私は拒絶された。口酷く罵られ、気味悪がられた。まるで獣の言葉だ。それに惹かれた筈なのに、それが痛くて傷ついた。だが今に思えば、彼女の反応は当然のことだ。私はどうやら、慕情の熱に浮かされていたのだ。


 早まった、そう後悔しても遅い。私の初恋の芽は摘まれた。何不自由なく、ある種の全能感さえ伴って、順風満帆に進んでいた私の人生が、初めての挫折を迎えたように思えた。胸を掻きむしっても治まらない絶望に襲われた。無かったことにしたい、と。強く思った。そして、


 1秒を、使うならば、このためだ、と。

 私は、未だ熱に浮かされながら、そう思った。


 それから数日後。


「先輩。」


 と声をかけてから、私は時間を止めた。


 私の姿を見て、彼女は驚いていたようだった。それはそうだ。私と彼女の帰路は違う。電車の中で鉢合わせたことなど一度もない。だから私が、この駅のホームにいることは不自然なのだ。


 右脚を前に出す。右腕を前に伸ばす。

 止まった時間の中で、彼女の身体に触れる。

 凍てついた時の中では、あらゆるものが冷たかった。


 そして腕を引く。


 驚いた表情のまま、彼女は宙空に踊った。1秒前まであった筈の地面を失い、体勢を戻そうとする努力も空しく、彼女は線路上に落ちていく。


 この瞬間に、私は「すり替えトリック」の謎を解いた。なんのことはない、私は彼女の生き様以上に、彼女の姿形が好きだったのだ。切れ長の眼が。小高い鼻と、小振りな唇が。眉の形が。輪郭の曲線が。瞳の輝きが。恐れ知らずの表情が。長い手足が。輝く指先が。


 ああ、と息が漏れると同時に、彼女の姿が列車の中に掻き消える。


 私は1秒を使って、自らの失敗を清算した。

 1度きりの機会だ。

 同じく1度きりの、初恋のために消費するのが正しいのだろう。


 私は恍惚の最中に、感じるままの言葉を吐いた。

 

「先輩、あなたの顔が好きでした。」

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