I.P.S
伊藤しげる
第1話
2×15年、トウキョウ。この春から高校へ通うため、離島から引っ越してきて数日、狭間秀(はざましゅう)は肩身の狭い思いをしていた。
見渡す限りの女、女、女。どこを見ても女しかいないのである。
秀は買い物、周辺の地理を把握するためなどで外を出歩いていたのだが、男性は一人も見かけていない。
この状況をハーレムと捉える人もいるかもしれないが、実際そんな甘いものではない。大学で、看護学科などの男女比が極端に女性に傾いた集団に属したことのある男性は分かるだろうが、ものすごく気を使うのである。異性に対して同性のように違和感なく接することのできる人間はコミュニケーション能力が高いと言うより、むしろデリカシーの無い人間なのだ。そんな特異な状況に適応すべきスキルなど、2012年の現代を生きる者には身につける必要が無い。
しかし、秀のように男性と一切遭遇しない状況は2×15年現在のトウキョウにおいて、さほど珍しいこともでないのだ。
それもそのはず、2×15年現在のトウキョウの人口の99.9%を女性が占めるのだから――
2030年にips細胞を利用し、精子とは別物であるが、卵子と結びつき、遺伝子情報を与えて女性間での妊娠を可能にする『女精』が発見された。数年後、何の問題も無く女性間での世界で初めての子供が誕生し、その技術は宗教観念の低い先進国都市部を中心に急速に広まって行った。
『女精』を用いた場合、XX染色体を持つ女性同士の受精となるので、Y染色体が子供の遺伝子に含まれることはなく、XY染色体の男性が生まれることはなかった。それによって、人類の男女比は徐々に女性に傾いて行き、2×15年に至ったのであった。
秀にとってトウキョウは、新しい楽しい人生を歩み始める土地になる予定だったが、どうやらトウキョウの人たちは秀のことを快く迎え入れてはくれないようだった。
まず、トウキョウについた瞬間から、男性、それも若者という現在のトウキョウではあまり見られない珍しい物に対する好機の視線の的となり、人がいる街中なら、常に監視され続けているようなストレスを抱え続けなければならなかった。
家具をそろえるためにホームセンターに行った時、案内を頼もうと店員に話しかけると無視されたり、「ちょっと今は忙しいので……」などと、あからさまに嫌そうな態度をとられた。
また、越してくる際に、空き部屋がある前提で話が進んでいたのに、秀が男だと知るやいなや「残念ながら、ウチのアパートに空きはありません」と、ウソをつかれ、部屋を一つ借りるのにも無意味な苦労をして、やっとのことで1件古びたアパートの一室を借りることができたのだ。学校に歩いて通える距離だったことは幸いである。
それらの男性に対する対応は秀が住んでいた女性人口8割の島からもある程度想像できたモノだったので、嬉しくはなかったがそれほど精神的負担にはならなかった。だが、今日のソレとの対峙はもっと理不尽で精神的にクるものだった。
朝、中学まで学ランが制服だった秀は生まれて初めてのネクタイを締めた。アホ毛が少々目立つ黒髪、靴は学校指定の革靴、せっかくのキリっとした釣り目も泣きホクロで台無し、それでも口端は上向き、笑顔を忘れない。鏡で自分におかしなところがないか確認完了。アパートから出て、これから3年間通うことになる学校までの道を歩く。
5分ほど歩いた時だった。ある曲がり角を曲がろうとしたところで、40代ほどの眼鏡をかけたパーマの中年女性とぶつかりそうになった。
秀は中年女性の存在に気付いた瞬間に「おっと」という具合でストップし、中年女性との衝突を避けようとしたのだが、女性は一拍の沈黙の後、まるで殺人鬼にでも遭遇したかのような悲鳴をあげ、尻もちをついた。
「え? 大丈夫です、か?」
秀は中年女性の反応の異様さに驚きながらも、相手を起き上がらせようと手を差し伸べたのだが、中年女性は秀が差し出したその手にナイフが握られているかのような反応をする。
中年女性はやっとのことで、わなわな閉じたり開いたりしていた口から声を絞り出す。「あ、あ、あなた! 私を汚す気なのですか? 汚らわしい男のくせに、この美しく正しい私に触れて、私をヨゴレモノにしようという気なのですか!」
秀にとっては突然すぎる出来事に何が何だかわからない。
「自分で自分を正しいと言うのは良いとしても、美しいって……」
秀は倒れている中年女性の全体像を確認する。
「もうオバサンなんだから、美しいって表現は厳しいですよ?」
なんでも思ったまま口に出してしまうのは秀の悪い癖である。オバサンという表現が中年女性の気に障ったらしく、さらにヒートアップ。
「オ、オバ、オバサンですって? あなた、それは差別用語ですよ! 女性人権特区トウキョウの女性人権保護条例第三〇八条、女性を蔑称と取れる言葉で呼ぶことを禁ずる。そして、17年前に“真に女性の人権を守るための団体”によって『オバサン』は差別用語と認定されています! そんなことも知らずにあなたはよくもこの女性人権特区トウキョウを歩けたものですね! あなたのような人が居るから、今のニホンは――」
「あの、僕が住んでた島では、オバサンをオバサンと言うのは普通でしたよ?」
秀が中年女性の言葉を遮った上に、またオバサンと言うので、中年女性はさらにさらにヒートアップ。
「あなたが以前住んでいた所などに興味はありません! ここは世界でもトップ3に入るほど女性人口比率が高い地区、トウキョウなのですよ! そこで女性の人権が守られなくて、どこで守られると言うのですかっ!」
中年女性が声を荒げるので、「まぁ、まぁ」と、押さえるように促すジェスチャー、含み笑い。
「分かりました、言いなおしましょう……」
咳払いをし、少しかしこまったように茶化しながら言う。
「大丈夫ですか? フロイライン(お嬢様)、お顔が真っ赤ですよ?」
秀の持てるだけの精一杯の茶目っ気。だが、そのおふざけは激昂してる人間に対して、火に油を注ぐようなものだ。
「フロイライン(小娘)ですって? 私があなたと比べて一体どれだけ長い間生きてきたと思ってるの!」
「じゃあ、やっぱりオバサンじゃないか」
あっけなく言い放つ秀に、中年女性は顔をゆでダコのように赤くして、言いかかる。
「あなた! そんなことを言ってどうなるか分かっているのですかっ! 私がその気になればっ! 汚らわしい男の癖にっ! 私にぶつかりそうになるだけで失礼だと言うのに、自分の非礼を棚に上げて自分勝手な価値観ばかり押し付けてっ! ルールというものがあるんですよ! だいたい男という存在がが居るから――」
中年女性のとにかく怒りをぶつけてるだけの罵倒は止まることを知らないようだ。
その勢いに秀は半分飲まれてしまって、その場から動けずにいた。
「そもそも男というのは……ちょっと、聞いていますの?」
「え、あ、はい、聞いてませ……いや、聞いてます」
モチロン、秀は途中から馬鹿らしくなって聞いてなどいなかったのだが、素直に「聞いてません」などとこの場の空気で言えるはずもなかったので、なんとか自分の出かかった本心を抑え込んだ。
「これだから男は……」
その時、秀の腕が何者かに掴まれ、後ろに引っぱられた。
「走るぞ」
声は秀の腕を掴んでいた女性が発した。透き通った、良く響く声だ。
彼女の声で、さきほどまでの固まっていた秀の体が、足が、彼女に導かれるままに動いた。
彼女の短めの黒髪がふわりと浮きあがり、シャンプーのほのかに甘い香りが秀の鼻をくすぐる。
走り去っていく二人に中年女性が叫ぶ。
「ちょっと、まだ話は終わってないわよ!」
無視して彼女が走り続けるので、秀も中年女性の言葉を無視。腕は掴まれたままだ。
「さっきのオバサン、無視しても良かったの?」
「いいんだ。あんなどこの誰か知らないような人の、何がなんだからわからないような話しを聞いていて、登校初日から遅刻しました。なんて、馬鹿げた話だからな」
その言葉で秀は腕時計を確認する。この時刻だと走ってギリギリというところだろう。
「本当だ、ありがとう。でも、僕みたいに誰かに絡まれてたわけでもないのに時間ギリギリの君は、もしかして寝坊でもしたの? 後ろ髪が少しハネてるところあるし」
彼女は走りながら秀の腕を掴んでない方の手を後頭部に持って行き、髪の毛がハネてないか確認する。
何ともない。髪の毛はハネていない。
「ハネてるのか確認したということは、髪の毛を整える時間もなかったんだね。朝ごはんは?」
「初対面なのに探りを入れるとは。貴様、小賢しい真似を……」
「で、朝ご飯は?」
「……食べた」
彼女はボソリと小さな声で言った。
「そう、それならよかった」
秀の「素直に安心した」という笑顔は先ほどのようにウソをついて探りを入れるような、イヤラシイ人間の顔に彼女は見えなかった。
「っ……! 走るぞ!」
「ちょ、早いって! そこまで急がなくても間にあうでしょ!」
彼女は顔をこちらに見せぬままスピードを上げた。しかし、秀には少し頬が赤く染まっているのが見えた。モチロン、そんなことを言えばもっとスピードをあげられてキツくなっていただろうから、言うわけが無かった。
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