春の氷が解けた日

若槻 風亜

第1話


『5さいのたんじょうびおめでとう』

 カラフルなペンでそう書かれている手製の垂れ幕を外しながら、義人よしとは感慨に耽る。

 本日の主役は五歳となった元気盛りの息子・正樹まさきだ。何日も前から妻や祖父母たちと入念に準備をし打ち合わせを交わした甲斐もあり、本日は一日大はしゃぎの大満足ぶりを見せてくれた。

 そんな主役は、もうすでに布団の中で可愛い寝息を立てている。午後七時に回ったばかりだが、はしゃぎすぎたのか、ことんと電池が切れたように寝入ってしまった。今日は怒らないと決めていたので、歯磨きをさせるのに妻と共に大変苦労したのだが、それも終わってみれば楽しい騒動だったように思える。

「パパ何か手伝うことあるー?」

 キッチンに洗い物に行ったはずの妻・春美はるみが軽い足取りでやってきた。

「いや、父さんたちがほとんど片付けてってくれたみたいだからもうプレゼントの片付けするだけ。ママこそ洗い物は? いっぱいあっただろ?」

「こっちももうなーんにもないよ。正樹に歯磨きさせるのにわーわーしてる間にお母さんたちぜーんぶ片付けてくれてたみたい。もいると流石に早いね。優しいおじいちゃんおばあちゃんでよかったよー」

 ありがたいね、と嬉しそうに笑う春美に、義人は「そうだね」と笑みを返す。

 幼稚園のお友達には園で祝ってもらうから、と正樹は本日のゲストに祖父母たちのみを指定していた。そのことがよほど嬉しかったのか、どの家の祖父母たちも「何かあったら言って」「何でも買うよ」「必要なもの用意しておこうか」と色々と気にかけてくれていた。

 当日である今日は朝から訪れ、祖母たちは誕生会の準備を手伝い、祖父たちはその間正樹を遊びに連れて行ってくれていた。しかも、終わりには片付けまでしていってくれたのだ。これが「良い祖父母」以外の何ものであろうか。

「後でそれぞれにお礼を買って伺おうか。うちは両親は酒でいいとして、ママの所は前に気に入ってくれたゼリーの詰め合わせでも買っていく? 後美津子みつこさんは――」

「よし君」

 不意に二人だけの時の呼び名で呼ばれる。随分久々だ。プレゼントを持ち上げるためかがんでいた義人は少し驚いて振り返った。その視界を埋めたのは、差し出された紙袋。プレゼント用のリボンがつけられている。

「はい、プレゼント」

 紙袋の後ろから春美が少し照れたような笑みを浮かべた。

「え? 俺に? 正樹じゃなくて?」

 戸惑いながら立ち上がってそれを受け取ると、春美は両手を勢いよく上にあげる。

「パパ三周年おめでとー!」

 わーっ、と口で言いながらパチパチと軽い拍手を送られ、義人は口元を手で覆った。ああそうか、

「ま、さきのことで、頭いっぱいだった……」

 虚をつかれた義人がぽつりと言葉を零すと、腕を下ろした春美は「知ってる」と歯を見せて笑う。

「本当は一年目からやりたかったんだけどさー? 一昨年は正樹が熱出してそれどころじゃなかったし、去年は自治会の家族キャンプで二人の時間とれなかったから――言っとくけど忘れてたんじゃないよ? どうしても当日に渡したかったからやめただけだからね」

 慌てて言い繕う春美だが、当の義人はどんよりと沈んでいてそれどころじゃない。それに気付いた春美がどうしたのか尋ねると、義人は申し訳なさそうな視線を春美に向けた。

「……俺はるちゃんに何も用意してない……」

 気が回らなくてごめん、と謝れば、すぐさま「そんなことない」と強めに否定される。

「私が勝手にやってることだし、今日の主役は間違いなく正樹だもん。正樹のために色々頑張ってくれたんだからいいの! これは、私が個人的によし君にお祝いしたかったの! ……あと、お礼も」

 少し上がっていた眉が、今度は逆方向に下がった。お礼? と義人がオウム返しすると、春美は静かに頷き、真っ直ぐに夫を見つめる。

「三年前、私の旦那さんになってくれてありがとう。正樹のお父さんになってくれてありがとう。……あの頃は心から信じられなくて、どうせすぐ音を上げるでしょ、なんて思ってたの。一年目、私結構冷たかったよね。ごめん。でもね、私のことも、正樹のことも、プロポーズ通りしっかり愛してくれて、本当に嬉しくて、今じゃあなたがいない人生なんて考えられないってくらい大好き」

 言葉を紡ぐたびに、微笑む春美の双眸が徐々に徐々に潤んでいった。その内容に、眼差しに、笑顔に、義人は当時のことを思い出す。

 春美は元々義人の会社の先輩の妻で、正樹はその先輩の息子だった。しかし正樹がまだ一歳にもならないある時、元夫は会社の才媛と道ならぬ恋をし、離婚届を置いて春美たちの元を去ってしまったのだ。

 元夫は名のある大学を出て、仕事も出来たため会社でもエリート扱いだった。だが、会社を辞める時に言い放った「ここは俺には小さすぎました。彼女とアメリカに行って新たな人生を歩みます」の一言と、妻と幼い我が子を捨てた事実のせいで、会社の人間からは「史上稀にみる馬鹿」という扱いをされている。親しくしていた義人もその意見には諸手を挙げて賛同していた。今もしている。

 というのも、義人は実は彼らが離婚する前から春美たちのことを知っていたからだ。そして当時の義人は、いけないと分かっていながらも春美のことを恋愛としての意味で慕っていた。けれど元夫が別れを突き付けたと知った時に最初に浮かんだのは、好機への喜びではなく、春美たちの今後の心配だった。

 迷惑かもしれない。分かっていたが、足が向くのを止められなかった。最初はにべもなく追い払われた。その後しばらくは声だけのやり取りをした。時折彼女の父母が代わりに話をしてくれたこともあった。

 彼女とようやく顔を合わせたのは三ヶ月ほど経ったある日。そろそろこうして訪れるのもやめなければ、と考えていた頃のことだ。彼女たちの住まいを訪れた瞬間、中から顔を真っ赤にして涙目の春美が飛び出してきた。腕に抱えられていたのは同じくらい顔を真っ赤にした正樹。尋常ではない事態に義人は大慌てで何事かを問いかけた。すると、春美は正樹が高熱を出したこと、こんな日に限って父母のどちらも連絡が取れないことを泣きながら話してくれた。

 そこから先は早かった。義人はすぐさまタクシーを呼び二人を病院に連れて行き、春美の父母へ連絡を入れた。結果として正樹はただの風邪であったので、当時は本当に安心したものだ。

 義人と春美の関係が変わり始めたのはそれからだ。ようやく普通に話してくれるようになった春美と少しずつ親しくなっていき、義人の心は恋情から確かな愛情に変わっていった。

 彼女にプロポーズしたのは一年ほど後のことで、結婚したのは正樹が二歳の誕生日。これには「結婚しても子供が一番だから。結婚記念日より子供の誕生日だから」という春美の牽制けんせいが込められていたそうだが、当時の義人は「子供思いなんだな」ぐらいにしか思っていなかった。

 そうして無事に夫婦となった二人に、義人の両親、春美の両親からは祝福が送られた。そして実はこの時もう一人、二人の結婚を両家の両親に負けないくらい祝ってくれた人がいた。それが、元夫の母・美津子である。

 彼女は息子が春美たちを捨てて出て行った際、即座に春美たちに謝罪と支援の意を表して金銭的援助を行った。さらに、義人たちの結婚の際にも多大な援助をしてくれた。これは流石に義人も春美も断ったのだが、現役社長を務める女傑じょけつや凄まじく、あれやこれやと正論を並べ立てられ結局押し負けた形だ。とはいえ、義人たちが最終的に折れたのは、「こんなことを言える立場ではないが、可愛い孫の将来のためにも受け取ってほしい」という祖母の純粋な愛情を目の当たりにしたからなのだが。

 それ以降、お礼も兼ねて何かしらある度に声をかけている内に両家の両親とも仲良くなり、今では五人目の祖母として義人たち一家を支えてくれている。

 当時を振り返って同じように泣きそうになっていると、春美が「ねぇ」と声を明るくした。

「お祝い代わりにさ、一個だけわがまま言っていい?」

 顔の前で両手を合わせ、じっと見上げてくる春美。お祝いを用意出来ていなかった負い目のある義人は「何でも言って」と思わず声を張って頷く。

「あのね、プロポーズ、もう一回聞きたい。……いいかな?」

 申し訳ないと思っているのが表情に出ているが、義人からすれば「そんなことか」という程度だ。もちろん、一回目も心を込めて、本気で言った。けれど何度だって、この言葉なら言える。

 二回深呼吸して、義人は真っ直ぐに春美を見下ろし、静かに微笑んだ。

「――春美さん。俺を、あなたの夫に、あの子の父親にさせてください。これからの人生をかけて、全身全霊であなたたちを愛していきたい。あなたたちの人生に、俺の人生を寄り添わせてください」

 それは誓い。何年経とうと、何があろうと、決して破る気はない、愛おしさの現れ。その思いは、この三年で衰えるどころかもっとずっと強くなっている。

 溢れんばかりの愛情を真正面から受け止めて、春美は涙をひと雫零して頬を緩ませると、義人の腕の中に飛び込んだ。

「はい! 私も、一生あなたを愛していきます。ずっと一緒にいてください」

 返された愛の言葉に、義人は目を見開く。

 それは、あの日の彼女の凍り付いた心では言えなかった言葉。解けた春が、ようやく彼女の心に訪れた。そう、改めて実感することが出来た。

 こらえきれずに義人の両目からは次々に涙がこぼれていく。抱きしめ返した春美は、腕の中で泣きながら笑っていた。



 これから先も共に歩いて生きて行こう。四周年でも五周年でも、十周年でも二十周年でも、あなたを、あの子を、愛し続けてみせるから。


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