第36話

 「水の音だ……」


 車を降りて、サクラはぼそりと呟く。どこかで水が落ちていく音が微かに耳に届く。

 降り立ったこの場所は、市街地から少し道を逸れて林道を走った先にある、アルネヴ美術館だった。カフェモカみたいな色の外壁となだらかな曲線が特徴的な建物で、美術品の展示室意外にも音楽ホールと会議室、それから、小さなカフェも併設されているらしい。

 サクラが聞いた水の音の音源は、見当たらない。池も、滝も噴水もないのだ。あるものといえば街灯だ。100年以上前を舞台にした映画で見るようなガス灯をモチーフとした街灯が駐車場から美術館までの道を飾っている。近代的な曲線の建物と、温もりのある煉瓦造りの小道や外壁、街灯以外にもノスタルジックなモチーフの扉に看板。一つ一つ統一性のない施設だが、それらは見事に調和しており、サクラは単純に「お洒落だな」と思った。

 それにしても平日の午後の客足は疎らで、さほど広くもない駐車場でも空きスペースが目立つ。県内もしくは周辺の県からのナンバーばかり。

 少しぼうっとして、建物を眺めているとリツに「何してんの」と言われる。はっと我に帰ると、3人とも数メートル先、遠くにいる。リツとユキトはスタスタと歩き始めて、モモカだけが立ち止まっていたのだった。

 

 外階段を登って、2階が美術館の受付だった。見た目に反して予想以上に中は広く、温かみのある橙の照明が館内を照らしていた。入り口から向かって右側が受付と展示室、反対側に開放的なカフェとグッズ売り場があった。カウンターの前には『アルネヴ美術館、暦の森の拍動』と大々的に描かれた置き看板があり、カウンター奥の壁には『ブラント展』のタペストリーがかかっていた。描かれている絵は薄茶の──ちょうどほうじ茶ラテみたいな色の野うさぎがシロツメクサの花冠をかぶって、色とりどりの花篭から顔を覗かせているものだった。写実的なこの絵は、たしかに可愛い。


 「4名様ですか?」


 受付嬢が上品に微笑んでサクラに声をかけた。サクラはまとめて4枚のチケットを購入する。4人分のパンフレットと館内案内図を貰って、振り返ると誰もが消えていた。

 館内を見渡すと、小さなお土産コーナーに3人はいた。リツとユキトが並んでペンやノートを見ており、モモカは地元の自然を材料にしたらしいハンドメイド品を手に取って眺めていた。


 「あんたたちね……お土産は最後でしょ? それから、一人700円、払ってね」


 なんだか3人の子供を引率している気分になりつつ、サクラはそれぞれからお金を貰う。ユキトが小銭が無いと言い出したが、なんとかして帳尻を合わせた。


 地元の絵師たちの絵画を流すように見て、奥へと進み、今日のメインのブラントのコーナーを目指した。ブラント展は増築された別館で行われていた。別館へはアンティーク調の柱とガラス張りの廊下で繋がっていて、モモカは「すてきだね」なんて呑気に言っていた。

 両開きの重たい扉が開け放たれており、それを抜けて辿り着いた先はアイボリーの壁の細長い部屋だった。真ん中にサインスタンドが置かれており、ブ別館のスペースの見取り図と順路の矢印が描かれていた。この図によるとコの字型で実用性のなさそうな建物の回廊の端っこにいる。そして、どうやら回廊の先端同士を渡り廊下で結んで、中庭を完全に囲っているみたいだ。


 左側に行けば中庭への渡り廊下があるが、とりあえず順路通り右側に行くべきだろう。

 順路の先にもまた扉があって、開け放たれていた。扉の横には軽く見上げるくらいのパネルが飾られていた。タペストリーに描かれているのと同じ絵だ。

 サクラは立ち止まって、パネルをじっくりと見た。


 「わたし、ちょっとパネル読んでから行くから」


 「たぶん、パンフレットと内容は同じだよ」


 「頭に先に入れておきたいの。先に行ってて」


 「いいじゃん、リツさん。先に行こうぜ」


 急かそうとするリツにサクラは断って、3人ともを見送った。パネルの前でパンフレットを出して見比べる。確かに同じみたいだ。


 欧州のハイア地区で生まれ育ったブラント。彼の絵は近年、愛らしい絵柄で話題となり少しずつながらも脚光を浴びています。彼はファンの間で無類の動物好きとして知られ、数々の動物の絵を残しています。特に有名なのは愛くるしい兎の絵でしょう。

 ブラントの絵は年代ごとにタッチや題材が変わっていきますが、その中でも兎だけは生涯を通して描き続けた題材なのです。

 ブラントが絵を描くきっかけとなったのは町の写生大会に参加した際、最年少で入選したことだったと生前語っていました。青年期は小説や雑誌の挿絵を描いていましたが、当時は一枚絵で売れることがなく、貧しかった彼は銀行員として生活費を稼いでいました。

 彼の人生で最も不幸だったのは幼少期から青年期でしょう。幼少期の頃は病弱な母と2人暮らしで貧しく、学校も休みがちで看病や家事に追われることも多かったのです。そのため13歳の頃から働き始め、仕事と看病を両立させながら絵の勉強をしていました。当時、彼は絵師グライスに弟子入りしていたのですが、母の容態が悪化してくうちに彼は絵を諦めることとなるのです。

 銀行員として半年働き、生活が安定してきた頃に母親が病院帰りに事故死してしまうのです。当初は絵師を諦めていましたが、友人の勧めで再び目指すこととなります。これが23歳の頃の話なのです。


 (一つ年下だ)とサクラは思った。それと同時に様々な感情が荒波みたいに渦巻いて、胸の奥がざわざわと騒がしい。

 ほとんど同じ歳で親を亡くすのも、年端もいかない頃から仕事や家事をしていたのも、どうしようもない環境で夢を捨てざるを得なかったのも、全部がサクラには経験のないことだった。時代背景といえばそれまでなのだが、それは自身が24年かけて構築した平凡で甘えた考えをぐらつかせるには十分だった。


 (魔法少女じゃない、わたしは──)


 サクラは頭を振って、隙あれば思考にまとわりつこうとする真っ黒な自己嫌悪を振り払い、パネルに視線を戻す。


 それからは仕事をしながらも絵の道に復帰し、26歳で同じ職場のカトレア・フランネルと婚約。その年に長男が誕生します。その頃からブラントは激しいファンタスティックのものからリアリズムへと確立させ、動物や肖像画などの穏やかで柔らかい絵柄へと変化していきました。まるで、彼の荒波だった海が凪ぐように、人生の生き写しのようにも思えます。

 結局、彼が家族を養えるほど絵を売ることは出来ず、生前は決して有名とも言えませんでした。しかし、彼が残した数々の作品は現代に生きる私たちに温かな安らぎを届けてくれるのです。


 サクラは、ふっとため息をついてパネルの前を後にした。たかだか数行でまとめられたブラントの人生を読んだだけで、鉛みたいな虚しさが喉の奥に転がった。

 なんだか、中途半端に不幸であまり報われないラブストーリーの映画を一つ見たような気分だ。そんな等身大で哀れな主人公を、世間は美しいだなんて、勝手に語るんだ。この、紹介文を書いた人とはきっと一緒に映画を見たり好きな漫画を語ったりは出来なさそうだ。


 サクラは勝手に苛立って、パンフレットを鞄のポケットに押し込み扉を通り抜ける。その先は窓のない長い廊下で等間隔に絵が飾ってある。どうやら年代ごとに並んでいるみたいだった。サクラは遠くにユキトとリツの姿を見たが、モモカだけは紛れて見つけられなかった。それぞれ自由に見てるのだろう。


 サクラはまず一つ目、10代の作品から見ていくことにした。


 

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