一章「10年後のわたしは」
第2話
社会の歯車になるということは、人生でどのくらい重要なものだろうか。
サクラは、エスプレッソマシンの掃除ボタンを押して、その間にカップの保温器の電源を落とした。本日最後の業務。誰かに見られずに黙々とやれるこの作業が好きだった。
淡々と掃除をして、お店を閉めた。着替えた後、カードを切って事務所の店長に一声かけてお店を出る。
おいしいケーキとコーヒーが売りのカフェ。そのウェイトレスがサクラの仕事だった。
「沢良木さんってお家近いんですか?」
自転車の鍵を開けると、大学生の後輩、水野がそばに寄ってきて聞いた。
「自転車で20分かからないくらいだよ」
「結構距離ありません?」
「4キロくらい」
サクラはもう2年のお付き合いになる黄色い自転車にまたがり、足でライトをつけた。
「水野は電車でしょ。時間はいいの?」
「あ、乗せてってくれますか?」
「いや。気をつけて帰んなよ」
サクラはそう言って自転車を漕ぎ出した。水野がお疲れ様だとかさよならだとか、なんか挨拶を言っていたみたいだが、よく聞こえなかった。
だいぶ日が長くなったとはいえ、8時前となると春の夜はすっかり更けている。
国道の交差点で、信号待ちをしていると、スマホにメッセージが届いた。
──駅まで来て〜
妹のコハルからだった。
サクラは面倒とも思いつつ、少し遠回りして、駅まで行く。駅前の飲み屋ではサラリーマンたちが騒ぎながら出てきている。
駅のロータリーのベンチに、コハルが大きな紙袋を抱えて座っていた。
「おねえ!! お疲れ〜」
コハルは袋を抱えて調子よくサクラにすり寄ってきたかと思えば、自転車のカゴに袋を乱暴に入れた。サクラは重みでよろけてしまう。
「なにこれぇ?」
「新しい教材。いやぁ、重たくってさ。ママに電話したら自力で頑張れって。ひどいよね〜」
「ほんと、あんたって調子いいなぁ……」
「コハルはおねえ優しいから好き〜。アイス買ったから帰って食べようよ」
家までの十分、コハルは延々と喋り続ける。最近見つけたカッコイイバンドのこと、付き合って二ヶ月になる彼氏ことケンちゃんのこと、バイト先の店長のヅラが気になって仕事に集中できないこと……自分の話ばかりをずっと楽しそうに話していた。
「コハルね、ケンちゃんと結婚したいから、お仕事どうしようかなぁって思うの。普通に事務でも良いんだけど……友だちが簿記とってたし……コハルも何か資格取った方が良いのかな。医療事務とか、秘書検定とか。おねえはどう思う?」
「好きにしなよ」
サクラはコハルの機関銃みたいなお喋りにうんざりしてきたとこだった。
姉に素っ気なくされたコハルはムッと唇を尖らせた。このムッとした顔は姉妹でよく似ているとか似ていないとか。
「おねえは万年バイトリーダーだから、こんな風に悩まないもんね」
コハルは立ち止まって吐き捨てた。
聞き捨てならないと、サクラも立ち止まる。
「なに、それ。あんたの荷物持ってやってんのにその態度?」
「それとこれとは違うもん。おねえはそういうとこ優しいけど、コハルの相談には乗ってくれないもん」
「あんたの相談に乗る義務はないし」
「おねえさ、大学も辞めちゃうし仕事も恋も続かないし、何も目指してないのに、そんなんで楽しいの?」
何もない。サクラの心臓に言葉が突き刺さる。
コハルは、たぶん何も考えていない。ただ単にちょっとした喧嘩で、サクラを少し落ち込ませたいだけだ。
コハルは良くも悪くもストレートに言う。思ったことは全部口にしてしまう。それに何度苦しめられたことか。だけど、こんな言葉に苦しめられる時間を過ごしているのもまたサクラ自身だった。
こんな時に、サクラは放つ言葉はコハル以上に大人気ないものだった。
「子供にはわかんないよ」
「コハルもうすぐ二十歳だもん。子供じゃないんだもん」
コハルは絶対の自信を持つように断定して言って、もう一度歩き始めた。子供じゃないなんていうのは子供だ。
サクラは一息ついて頭で3秒数えた。こうすると落ち着くって、この前辞めたパートさんが言っていた。
「大人は自分の名前を自分で呼ばないよ。就活始まる前に直しなよ、それ」
「おねえはすぐに話逸らすよね」
「逸らさんと怒りそうなの。そうなったらお互い嫌でしょ」
サクラは歩き始める。少し早足だ。
少しの間無言で歩く。コハルは鼻歌を歌っていた。コハルが使っている化粧品のCMソングだ。
「おねえ、さっきのって大人な対応? おねえ、中退してから……高校生の時から? 変わったよね」
「褒めてるの?」
「んーん。コハルは、おねえ好きだけど、おねえみたいなのを大人って呼びたくないな」
コハルは立ち止まる。今度は、家に着いたから。カレーの匂いがするが、たぶんそれは隣の家だ。
「なによ、それ」
「勘違いしんでね、おねえのこと嫌いじゃないから。それじゃ、荷物ありがとう」
コハルは教材をカゴから取り上げて、両手で抱えて玄関まで走っていく。
空になってカゴが軽くなる。荷物がなくなって入れていた力が扱えなくてどこかへ飛んでいくように感じた。少しよろけた。
なんだか、どこかで似たような感じを経験したのを覚えている。
「守りたかった世界……か」
マルル、あの時の救った世界の未来って案外キラキラしてなかった。
わたしは今、何も楽しくない。
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