第5.4話 半死者ヘル、九世界を脅かす災厄の伝説を話し合うこと

 第一平面アースガルドとは違い、広大な海と鋭い山脈を持ち、時の流れとともに四季が移ろう第二平面ミッドガルドは広い。住んでいる主な種族は西部に巨人族、東部に人間族。かつては小人族や黒妖精スヴァルトアールヴ族などもいたらしいが、すでにその姿はほとんど見られなくなっている。ヘルも小人族は見たことがなかった――手足が委縮して奇妙に縮んだために小人のように見える亡者なら第三平面ヘルモードにはいたが。


「とりあえずは海沿いかな」

 と湖を旅立ってから、ブリュンヒルドが言った。

「海沿いには何があるんだ?」

 と尋ねたのは未だ少し大きい成犬程度の大きさのフェンリルだった。

 湖から旅立つ際に《竜輪ニーベルング》を外して巨大になり、背に全員を乗せて運んだほうが早いのでは、という提案があったが、ブリュンヒルドによってそれは却下された。彼女曰く、ここがどこかわからないのであればどこで誰と出会うかわからず、〈魔狼〉の状態で突発的に見知らぬ巨人族や人間族に会うのは余計な諍いの原因になりかねないため、少なくとも現在地が把握できるまでは小さな姿を保つべきだ、ということだった。

「さぁ……わからないな」

「わからないって?」

「いまどこにいるのか、わからないんだよね」

「ちょっと待て」

 と思わずヘルは口を挟んでしまった。旅立つとき、自信満々にブリュンヒルドが歩き始めたのでそれに従ったのだが、何も知らずに歩いていたというのか。


「何も知らないでっていうのは語弊があるな。ミッドガルドの西部ってことはわかるよ。アースガルド大草原ヴィクリードから落ちたんだし。来たことがない土地だってこともわかる」

「あなたはミッドガルドに斥候としていたのでは?」

「そうだけど、だいたい街にいたし……〈力の滅亡ラグナレク〉の影響で気候も景色も変わっちゃっただろうから、星とかを見ても位置がわからないんだよなぁ」

「で、なんで海沿いに行くんだ」

「海岸沿いならそのうち街にぶち当たるよ。港町。情報収集は大事でしょ? きみたちの目的を果たすためにもね」


 特段深く隠そうとしていたわけではないが、教えるメリットがあるわけではないのでブリュンヒルドに隠しておきたかったことも、明らかにされてしまった。ヘルの目的は、祖母の家に向かうことだ。

「おばあちゃん? ぼくらにいるの?」

 とヘルが目的を話したとき、ヨルムンガンドがそんなふうに尋ねてきた。

「いるよ。母さ……母方のほうのおばあちゃんだね。ウトガルドっていうひと。巨人族で、都市部から離れた山の中に住んでいるんだって」

「ウトガルドって、ヨツンヘイムの首都のことじゃなかった?」

「同じ名前だね。あそこは確か、巨人族の開祖の首長の名前からつけられた都市だった気がする。それと同じ名前なんだってさ」

「ウトガルド……名前は知ってるよ」とブリュンヒルドも言った。「少し前の巨人族の首長がそんな名前だったはずだ。賢人だっていわれていた。ロキの母親だったっていうのは初耳だけど」

 ウトガルドが住んでいる場所は山岳に居を構えることが多い巨人族にとっても山奥といえるほどの険しい場所らしい。ヘルはその場所を、幼い頃に聞いたが、詳細な位置までは知らない。そのため、可能なら巨人族から情報を得たかった。隠遁している賢者の居場所を知る者がそう多いとは思えないが。


 フェンリルの目的は当然ながら〈狼の母ロキ〉を捜すことだ。彼女がそう簡単に死ぬとは思えないので、アースガルドから逃れたあとはミッドガルドにいるに違いない。目立つ容姿だ。どこかで見つかればすぐに人の噂に昇るだろうから、巨人族に話を聞く必要があった。ヘルは彼女に会いたくなかったが。

 その過程で、おそらくはイドゥンの捜し人である〈妖精王フレイ〉とかいうヴァン神族も見つけられるかもしれない。〈軍神チュール〉というアース神族のほうはフェンリルが喰らってしまったが、フレイが見つかりさえすればイドゥンという重荷からはとりあえずは解放される。懐いているフェンリルは別れは厭がるだろうが。


 ヨルムンガンドにも目的は尋ねられたが「何もないよ。ヘルとフェンリルに従うよ」とだけ返されてしまった。アースガルドでの戦いではヨルムンガンドはアース神族の〈雷神トール〉に執着している様子があったのだが、それについては何も言わず、ヘルはそれ以上追求できなかった。


(これで良かったのかな……)

 昨晩、得体の知れない炎の巨人の襲来と、それを〈狼被りウーフヘジン〉のシグルドが一瞬で片づけたことで、旅の道連れはヘルがどう意見しようとも決定的となってしまった。フェンリルとヨルムンガンドはヘルにとってはきょうだいだ。思想の違いはあれど、道連れには文句はなく、むしろ(フェンリルの「ロキを探す」という目的以外に関しては)できる限りの協力をしたいと思っている。

 イドゥンについても、彼女は無邪気そのもので、どうやらヴァン神族の重要神仏らしいということや、得体の知れない〈神々の宝物〉(本人は《金環ブリーシンガメン》だとか言っていた)を持っていることは気にかかるが、信用はできると感じている。


 問題は、だからブリュンヒルデなのだ。


 湖のある森を出ることには成功し、海を見下ろしながら生暖かい潮風の当たる崖上を進んでいく。フェンリルとイドゥンはゆっくり歩いていくことができない性質なのか、先行してしまっている。仕方がないとでもいうように、シグルドもそのあとを追って行った。

 ヘルはヨルムンガンドを肩に乗せ、ブリュンヒルデとともに最後尾を歩いていた。潮風に短い髪を揺らされながら、能天気な顔をして隣を歩く銀髪の女へと視線を向ける。

(胡散臭いんだよなぁ……)

 正直なところを言えば、彼女の連れであるシグルドという〈狼被り〉の男についてはそれほど警戒していない。彼は一切の言葉を話さないが、己の意思を持ってブリュンヒルデに同行しているように見える。彼は単に強力な〈神々の宝物〉を持っているというだけではなく、それを使いこなすだけの技量を持っている強靭な戦士だ。同行してくれるなら吝かではない。

 ブリュンヒルドは、しかし強くはなく、いちおう弓は使えるものの、出立前に手合わせをした限りでは己の力を守る程度の力さえないように感じられた。そのくせいやに自信過剰で、こちらの心の奥底を見通すような瞳をしている。目。目だ。そう、彼女の目が気になるのだ。


 横を歩く彼女の碧眼がすっと動き、ヘルに合わせられた。「さっきからじっと見ているけど、どうかした?」

 そう問われてしまうと、ヘルはばつが悪くなって視線を逸らさざるを得なかった。

「ヘル、ヘル、質問があるのだけれど、いい?」

 と幸いヨルムンガンドが肩から質問を投げかけてきてくれたため、ブリュンヒルドにはそれ以上追求されずに済んだ。首肯で質問を促す。

「昨日、焚き火の上に落ちてきたあの炎の巨人は何?」

 濁りのない黄金色の瞳は真っ直ぐにヘルを見据えている。おそらくは、問えば答えが返ってくると思っているのだろう。だがヘルはその問いに対する答えを知らなかった。むしろ彼女のほうが問いたかったくらいだ。


「〈火の国の魔人スルト〉の炎だよ」

 返答に困っていたヘルに助け舟を出したのはブリュンヒルドだった。両腕を頭の後ろで組み、空を半ば見上げた形で歩きながら彼女は説明した。

「スルトは――きみは覚えてる? アースガルドにいた、あの光り輝く女だ」

三日月斧バルディッシュを持って馬に乗っていたひとでしょ。覚えているよ」

「そう。あれがスルト。そして〈火の国の魔人〉の炎は人神じんしんの姿をとり、九世界を害する者を追って燃やし尽くすって話」

「それもお伽噺?」

「まぁ、そうだね。お伽噺というか、伝説というか」

「スルトって、何?」

 金色の瞳がヘルを見つめる。ヘルはまたブリュンヒルドに質問の答えを促した。


「九つの災厄が九世界に生じたときに現れる存在だっていわれているね」とブリュンヒルドは事も無げに言った。

「災厄?」

「まずは〈火竜ファヴニル〉と〈邪龍ニドヘグ〉」とブリュンヒルデが歌うように言った。「〈ラタトスク〉と〈死爪ヴェズルフェルニル〉、〈四本角ヘイズルーン〉、〈刻喰らいグリンカムビ〉、〈黒きフレスヴェルグ〉に〈黄金グルヴェイグ〉そして――〈獄犬ガルム〉」

 どれもヘルも名前だけは聞いたことがある存在だ。あるものは竜の姿を取り、あるものは鹿の姿を取る、九世界を脅かす災厄。

 だがその災厄はあくまでお伽噺だったはずだ――実際、今回の戦いでは、そのいずれも現れなかった。

「だいたいの災厄は退治されちゃったんだよね」

 とブリュンヒルドが言うように、災厄殺しの伝説は各地にある。最も有名なのは火竜ファヴニル殺しの英雄ジークフリードだろう。ヘルが産まれるよりもずっと以前に、かの英雄は人間族でありながら伝説の剣を振るい、〈火竜〉を退治したと伝えられている。

「災厄っていうのが来ないのに、あの光っている人は来たの? なんで? というかあの人は、その災厄っていうやつじゃないの?」とヨルムンガンドがまた尋ねた。

「〈火の国の魔人スルト〉は災厄じゃないね」

 だよね、とブリュンヒルドがヘルに視線を向けてくる。

 言われて、かつて父や母から聞いたお伽噺を思い出そうとしてみるが、そういえば9つの災厄に〈火の国の魔人〉は入っていなかったような気がする。ただ、「〈力の滅亡〉のときに〈火の国の魔人〉は現れる」と聞いただけだ。

「というよりも、〈火の国の魔人〉が現れることが〈力の滅亡〉なんだよね」

「どういう意味?」

「さぁね」とブリュンヒルドは無責任に肩を竦める。「お伽噺はお伽話。そういうことになっている、としか言えないな」

「じゃああれは、あの、〈白き〉とかいう――」


 ヨルムンガンドがまた疑問を投げかけようとしたときだった。

「ヘルー! ブリュンヒルドー! ヨルムンガンドー!」

 海沿いの丘を越えて向かってきたのは、いつのまにか先行していたフェンリルに乗るイドゥンだった。

「あっちでシグルドが家を見つけたよ。誰かいるみたいだから、行ってみようよ!」

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