第5.5話 魔狼フェンリル、天の吠え手の館を訪れること

「でーっ」栗毛を三つ編みにした少女が両の手を広げ、その端から端まで歩いた。「ーっかい扉だねぇ」

 イドゥンは小柄で胸が小さい。お尻も。だが可愛らしく、突如として起きたアースガルドでの戦いからの逃亡と、フェンリルやヨルムンガンドといった異形を見ても物怖じしないどころか触れてくれるその姿勢と性格から、フェンリルは彼女のことが好きになっていた。


 第二平面ミッドガルドはフェンリルにとって――そして第二世界ヴァナヘイムに住んでいたというイドゥンにとっても――未知の場所である。人間族や巨人族については少しだけ知ってはいるが、現在の九世界は正常な状態とは言い難い。

 イドゥンはヴァン神族の首長の娘だという。つまりはお姫さまだな、とブリュンヒルドがイドゥンのことをそんなふうに呼んでいたことを思い出す。アース神族とヴァン神族の和睦の使者――実質的には人質らしいが――の彼女は、かつては巨人族に身柄を狙われたこともあったらしい。第一平面アースガルドが壊滅状態であり、そこに住んでいたアース神族やヴァン神族らの消息が定かではない現状でもなお彼女が巨人族にとって狙われうる存在なのかはわからないが、フェンリルは可能な限り彼女を脅かす手から守ってやりたいと感じた。


 あとからやってきたブリュンヒルドとヘル、ヨルムンガンドは、扉から少し離れたところで建物を観察している。フェンリルもそれに倣い、建築物を見上げた。海沿いの崖をくり抜いて作られたようなその建物の、まず目につく部分は、イドゥンの言うとおりに巨大な扉だった。金属製と思しきそれは、鍛冶の特異な小人族が作り上げた品とはまったく異なる、表面が凸凹として薄汚れたただの板だった。板が二つ、辛うじて組み合わさって扉の体裁を為している形だ。ドアハンドル代わりの輪がついていなければ、扉と認識することすら叶わなかっただろう。その輪も、イドゥンがフェンリルの背に乗って背伸びしても届かないような位置にあるのだが。

 ブリュンヒルドが金属の扉に歩み寄って扉の凹凸に手をかけて開けようとしたが、凹凸は指を引っかけるには十分ではないらしい。次にノックをしたが、歪な扉はノックの音を中へ伝えているようには思えない。彼女もそう思ったのか、次は力強く扉を叩いたが、強く叩きすぎて手を痛めたのか「う」と呻いたあとに引き下がった。

「シグルド、頼む」

 とブリュンヒルドは彼の連れである〈狼被りウーフヘジン〉に言ったが、彼は無表情のままで狼のフードを付けたままの頭を捻った。

「何を、じゃない。ノックをしてくれ」

 と恨めしそうな声でブリュンヒルドが頼んだが、シグルドは肩を竦めるのみであった。無駄だ、ということかもしれない。彼はブリュンヒルドのパートナーということだが、あまり心が通じ合っているようには見えない。くそっ、と吐き捨ててブリュンヒルドが扉を蹴ったが、鈍い音を鳴らしたのみで、今度は爪先を抱えることになった。


「これは……家屋なのか? 洞窟に適当な大きさの岩が積み重なって、最後に金属の板が貼り付いただけじゃないのか?」

 とヘルが言った。

「人が住んでいる家じゃなかったら困る」と爪先を抱えてぴょんぴょんと飛び跳ねながらブリュンヒルドが言った。「もうすぐ日も暮れるのに、食料も採れていない。昨日作った保存食が少しあるくらいだ」

「喰えるものがあるならそれでいいよ」

「わたしは厭だ。屋根のあるところで眠りたい」

「知るか」


 ふたりのやり取りを尻目に、フェンリルはイドゥンの傍らで鼻を上に向け、臭いを嗅いだ。

人神じんしんのの臭いがするよ。生きている何かがいる。おれたち以外で」

 と言ってやると、言い争いをしていたブリュンヒルドとヘルが同時にこちらを一瞥した。

「犬は便利だな」

「狼だよ」

 とフェンリルはいつものようにヘルに言い返した。

「ふむ、臭いが残っているなら、留守かもしれないが人神が住んでいるんだろうし、少なくとも食料はあるだろうな。まだ人里からは遠いみたいなのに、これだけ巨大な館があるというのはどうにも奇妙だけど」

 とブリュンヒルドが独り言ちる。


「取っ手に手が届けば開くかもしれないんだけどなぁ……」

 とイドゥンが呟いたが、彼女の細腕でこの巨大な扉が開くとは思えない。

「フェンリル、グレイプニルの糸を隙間から入れられないか?」とブリュンヒルドが提案した。

「入れられるかもしれないけど……」とフェンリルは腹から飛び出る《銀糸グレイプニル》の先を頭の上まで持ち上げてみせた。「でも、入れたところで中は見えないよ」

「鍵とかかかっているのかもしれない。糸を入れて上下に動かしてみれば、錠がかかっているかどうかわかるだろう」

「わかるかもしれないけど、外すのは無理だよ」

「とりあえず、試してみて」


 特に断る理由はなかったため、言われたとおりに扉の隙間に糸を差し込んでみた。直後に「きゃあ」という可愛らしい声が聞こえてきたので、フェンリルは驚いて糸を抜いてしまった。

 フェンリルは振り返り、ブリュンヒルドを一瞥した。

「誰かいるようだな。しかも、扉の内側でこちらの様子を窺っているらしい」

「女のひとみたい」

「そのようだね……」ブリュンヒルドは再度扉に近づき、力強く金属面を叩いた。「おおい、わたしたちは旅人だ! 危害を加えるつもりはない! 道を教えて欲しい!」

 交渉しようにも無視されるだけではないだろうか、と思いきや、すぐに扉の内側から、先ほどの女性と同じ声で回答があった。

「あまり大声を出さないでください……いま開けます」


 少し待つと、巨大な金属扉の左隅がぽっかりと開き、人神サイズの扉のようになった。中にいた女性が開けてくれたらしい。

 怯えもせずに小さな扉を潜ろうとするイドゥンの手に、フェンリルは《銀糸グレイプニル》を絡ませて引き留めた。応答したのは女性のようだったが、得体の知れない場所に入るとなれば、どんな危険があるかわからない。恐怖はあったが、使命感のほうが勝った。フェンリルは誰よりも先に扉の中に入った。

「ひゃあ」

 糸を扉に差し込んだときと同じ悲鳴が発せられ、目の前で誰かが尻餅をついた。

「お、狼………」

 フェンリルに怯えた様子で呟いたのは、妙齢の小柄な女性だった。

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