第4.17話 天地創造 - 1

「あれらの様子はどうだね」

 と目の前の男が言った。髭、髪型、目つき、服装、いずれからも高圧的な印象を受けるのは、自分が彼に良い印象を抱いていないためだ、と霜月夕美しもつきゆみは気付いていた。

 実際にそう思っていることを口に出せば、自分はこの職場に居られなくなるだろう。そうなったらせっかく得られた就職先を失うことになるし、彼が「あれら」と呼ぶ者たちと別れることになるのは何よりも避けたいことだった。だから夕美は苦労して好意的な表情を作り、報告をした。

「そうか、引き続き頼む。あれらはきみのことを気に入っているようだからね」


 経過報告を行うために使うには広すぎる会議室を出て、夕美は溜め息をひとつ吐いた。疲れた。時間を確かめるとまだ十五時で、仕事終わりには時間がある。正直言って疲れているが、疲れを顔に出すわけにはいかない。というのも、これから子どもと会わなければいけないからだ。

 特に目的もなく大学院の修士課程マスターコースへと進み、おだてられるままに博士課程ドクターコースまで進学してしまった彼女が自分が研究職に向いていないと気付いたのは、博士論文を書いている頃だった。無事論文は出せたし、博士号は取れた。だがその後研究職に就くのは容易ではなかったし、もし職が空いていたとしても、自分は日々己と戦う研究者稼業を一生続けていけるかというと、自信がなかった。かといって――かといって、いまさら一般職に就くというのも躊躇われた。


 そんなとき知ったのが、ギンヌガガップ研究所の職員募集だった。日本からノルウェーは遠かったが、卒業旅行気分で行ってみるか、とノルウェーに赴き面接を受けた。もともと帰国子女で、英語が得意――というよりはそれくらいしか取柄がなかったのが幸いしたのか、なんと採用されてしまった。

 採用されてから半年。給料は悪くないし、待遇も残業は少ないため余裕がある。恋人もできたし、生活は順風満帆だ。だから問題があるとすれば、仕事そのものにあるのだ。夕美の仕事は、9歳の子どもたちの相手だった。


 研究所のある〈見せかけのがらんどうギンヌガガップ〉はその名の通り巨大な谷間にある。研究所は六階建てだが敷地は100平方米に満たず、そう大きな研究所ではない。近くにT-bane地下鉄の駅があるほか、幾つかの国立施設があるものの、大型のショッピングモールが近くにあることを除けば基本的には田舎であり、人口は多くない。

 であるからこそ、秘密の研究ができるということなのだろう。

 誰も待っていないエレベータに乗り、扉が閉じてから己の職員用キーカードを階数ボタンの下の何もない部分に当てる。この裏にカードキー読み取り装置があり、キーを読み取ったあとは階数ボタンを暗証番号代わりに押す必要がある。成功すると、エレベータは一度下がる。地下一階で降り、一般の研究員や事務員はけして知らない道を通り、少し上に上がると、そこは立ち入りが許されていない中庭だ。

 中庭の一角――研究所の廊下の窓からはけして見えない位置に、小さな小屋がある。職員たちには、中庭整備用の資材があるだけということになっているその小屋の中には、しかし地下への階段があった。地下スペースは、ひとつの家族が生活するのに十分な程度の空間がある。ここが子どもたちの家だ――いや、研究室と呼ぶべきだろうか。


 明るい色の壁紙に採光用の窓がある部屋に一歩入ると、夕美より頭ひとつぶん小さい影が抱き着いてきた。

「おかえり、ユミル」

 夕美が相手をする子どもたちのひとりは、栗色の髪のよく口の回る少年だ。ヴェーという名前だが、研究者たちには〈未来スクルド〉という呼称で呼ばれている。

「ただいま……ふたりは?」

 夕美はヴェーの身体を引き剥がしながら訊くと、彼は顎で部屋の隅を指し示した。そこには亜麻色の長い髪の少女がうつ伏せなり、床に置いたモニタを見ながらキーボードを叩いていた。〈運命ウルド〉と研究者たちには呼称されるヴィリという少女は、ヴェーとは対極的に大人しい。

「ヴェー、ただいま」

「おかえり、ユミル」

 しかし夕美とコミュニケーションを取ってくれないわけではない。そのことを確認するたびに、夕美は安堵する。


 ヴェーもヴィリも、そしてもうひとりも、一見するとただの幼い少年少女だが、彼らは非常に高い知能を持つ。そのように作られている子どもたちだ。彼らは優秀な研究者になる予定で、ギンヌガガップ研究所での夕美の仕事は彼らの世話をすることなのだ。

 具体的にどのような経緯を持って産まれたのか――単に知能の高い親同士を掛け合わせただけなのか、それとも遺伝子段階で操作されたデザイナーチャイルドなのかは知らない。単純に「知能が高い子どもである」という説明しか受けていないが、もしかすると彼らを育成することそのものが研究の一環なのかもしれない。


 なんにせよ、こんなことは大っぴらにはできない。彼らの存在は他言無用ということになっている。

 3人の子どもたちの環境はあまりに特殊だ。彼らは研究所の中の特定の区域だけで生活することを許されており、その中では基本的に自由ではあるが、外の世界を知らない。いや、インターネットがあるから情報としては知ってはいるのだろうが、触れたことがない。常識がなく、倫理を知らない。望めばあらゆる物が――彼らの状態を変化させない範囲内でだが――手に入り、好き勝手に研究をする。

 幸い、ギンヌガガップ研究所の地下になった場所にあるこの棟にいるのは彼らだけで、おかげで、たとえば人体実験だとか、そうした倫理的に問題のあることはできない――できないはずだ。だがこのままではいずれはこの子たちは危険な存在になってしまう。彼らは十分な倫理観を持っていなかった。夕美には前任者がいたようだが、その人物は教育にはあまり熱心ではなかったのかもしれない。夕美はそのことを悟り、可能な限り情操教育をしようと努めてきた。

 いまのところ、その努力は目に見えて実ってはいない。それでも、彼らが何か間違いを為す前に、できるだけのことをしてやらなければいけない。

 

「あ、ユミル、おかえり!」

現在ヴェルダンディ〉と呼ばれる最後のひとりが、別の部屋から目敏く夕美のことを見つけて駆けてきた。白髪と見紛う銀髪の下には、可愛らしいふたつの瞳があるはずだった。

「見て、これ、片目を新しくしてみたんだ! ウェアラブル・コンピュータだよ。すごく使い易くて……」

 嬉々として己の身体に施した結果――それまでついていた目玉を抜いて新たにコンピュータを内蔵した義眼を埋め込む手術の結果を報告する最後のひとり――オーディンの頬を、夕美は反射的に引っ叩いた。

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