第4.16話 妖精王対火の国の魔人 - 5
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しかしユミルの身体は腐敗せず、微生物によって分解されず、虫や獣に喰われもせず、炎にさえ焼かれなかった。それだけでなく、死の原因となった傷は徐々に塞がり、流れ出た血液さえも元通りになっていった。
ユミルは知らない。彼女は死んでいたから。知っているのは3人だけ。ヴェー、ヴィリ、そしてオーディン。九世界を作り上げた3人だけが、ユミルの身体に根付く〈世界樹〉と〈黄金の林檎〉の力を知っていた。
***
***
〈
誰もが呆気に取られていた。輝く女、〈
だが彼女に最も気を取られたのは、〈火の国の魔人〉の次に九世界では異常な存在であるはずの人物だった。
「ユミル………」
〈白き〉ヘイムダルの声は、どこにでもいるような男の声だった。相応の深みの年齢を感じさせる男が悲哀と驚嘆を込めて発する、声。
「なんだ、おまえは誰だ」
一方で、〈火の国の魔人〉の表情は冷たいままだった――いや、徐々にその表情は笑みに変わっていった。暖かい色のない、残酷な笑みへと。
「いや、誰でもいいか。好都合だ。おまえも――九世界に仇なす魔法を使う存在か。ふむ、先ほど割り込んでしまったのは失敗だったな。同士討ちさせたほうが効率的だったようだ。まぁ、いい。フレイがいないのは残念だが、これほどまでに一堂に集結してくれているとは、手間が省けた。全員死ね」
淡々と言葉を紡ぎ、〈火の国の魔人〉が
槍。
槍がヘルたちがいた場所に飛び込んできた。見事な黄金の装飾が組み込まれた槍はその場にいた10人のうちの誰にも突き刺さらずに草が剥げた土の上に突き刺さった。槍の恐るべき速度は地を揺らすだけではなく、大地に罅さえ入れた。土埃が巻き上がり、振動でヘルは立っていられなくなった。
その中で誰よりも早く動いたのは、強い野性を失わないでいたヨルムガンドだった。傷ついた身体を強く大地に打ち付けると、アースガルドの第一平面はさらに揺れた。その反動で飛び上がる。ヘルに見えたのはそこまでだった。槍が突き刺さったときよりも強い粉塵のため、目を開けることさえ困難になった。
次にロキが動いたということが、強い風が巻き起こったことでわかった。砂塵の切れ目から、彼女が空高く飛び上がるのが見えた。やはりそこまでしか見えなかった。
「母さ――」
「ロキぃッ!」
フェンリルの声を掻き消すように叫んだのは〈雷神〉で、響き渡る雷鳴から、彼が《雷槌ミョルニル》を投擲したのはわかったが、どこにも当たらなかったらしい。稲妻は落ちてはこなかった。
「フェンリル、ヘル、イドゥン、シグルド、逃げるよ! フェンリル、みんなを乗せて! わたしもな!」
ヘルたちに呼びかけて来た声は女の――ブリュンヒルドだとか名乗っていたアース神族の女のものだった。
「母さんが……」
「ロキはもうこの場にいない! 〈
ブリュンヒルドの説得を受けて、フェンリルがこっくりと頷くのがわかった。彼は腹から伸びる《銀糸グレイプニル》の触手でイドゥンが背中にまだ乗っていることを確かめ、ブリュンヒルドと〈狼被り〉の男も背中に載せようとする。ヘルのことも。
だがヘルは土煙が未だ視界を塞ぎ、振動が〈火の国の魔人〉たちの体勢を崩してくれていることを祈りながら、落ちてきた槍に向かって走っていた。
「ヘル!?」
「ちょっと待ってくれ、この槍を――!」
槍を引き抜く。見事な黄金の装飾に鋭い槍先。こんな業物は九世界に一本しか知らない。《戦槍グングニル》。アース神族首長、オーディンの〈神々の宝物〉だ。つい先ほど、ヴァルハラ都のヴァラスキャルヴで見たものと同じ。
「ヘル、そこか!?」
フェンリルの声とともに砂塵を《銀糸》が切り裂き、ヘルの胴に巻き付き、一度中空へと引き上げる。地面近くより幾らか砂塵が薄いその高度から、ヘルは見た。槍が飛んできた方向を見た。
その人物は太陽を背にして、小高い丘の上に立っていた。遠目にもわかる奇妙な人物。真っ白な頭髪。骨に貼りついた肉。焼けたような肉の色。上半身の襤褸さに反比例して立派な輝く脚絆。
ヴァラスキャルヴで見た、あの
「あれは………」
あれは、あの木乃伊はいったい。
それを問う前に、ヘルの身体はほとんど落ちるように固めの毛の上に落ちた。フェンリルの背中の上だ。
「どこへ逃げれば――」
「真っ直ぐ走れ! アースガルドから逃げるんだ!」
ブリュンヒルドの声に従うままに、フェンリルは駆けた。そしてアースガルドの端から跳び上がるや、4人を乗せた〈魔狼〉の身体は第二平面ミッドガルドの海へと真っ逆さまに落ちていった。
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