第4.6話 妖精王対火の国の魔人 - 3

火炉番の娘ゲルド〉は一切の状況を理解していなかった。だが、ただ危急の訪れについては察知していて、その中で己の為すべきことだけは理解していた。


 フレイは細身ではあったが、筋肉質でもある。男性の身体はゲルドの両腕には重すぎて、もろとも落馬しそうになってしまった。しかし危ういところでフレイの逞しい腕が馬の手綱とゲルドの身体を掴んだ。

「良かった……間に合って。フレイ、良かった………」

 ゲルドは歓喜とともにフレイの身体に抱きついた。

「ゲルド、なぜここへ………?」

「あなたのことが心配だったから………」

 それはひとつの事実であり、フレイが邸宅から遠ざかっていくごとにゲルドはいいもしれぬ不安感と不快感に襲われたのだった。ゲルドは身体の奥底で、それが単なる虫の知らせではないことに気づいていたが、表層ではその原因を見て見ぬ振りをした。

「助かった。ありがとう」

 そう言ってフレイはゲルドの金髪を撫でてくれた。優しい笑顔を見られて嬉しかった。

 だが彼は続けてこう言った。

「最後にきみに会えて良かった」

 彼が一瞥する方向にゲルドも目を向けた。森の外のだだ広い草原を追いかけてくる騎馬の姿があった。これまで見たことがない奇妙な燃え上がる女性と馬。〈火の国の魔人スルト〉だ、とゲルドは幼い頃に聞いたお伽噺を思い出した。先ほどまでは燃える馬は地中から飛び出した根によって絡め取られていたが、それを引きちぎったのか、あるいは抜け出るかして追いかけてきていた。黄金色のグリンブルスティは両断され、もはや動いていなかった。ゲルドは僅かな期間を過ごした小さな猪のことを思い出し、冥福を祈った。


 フレイの言いたいことはわかる。ゲルドたちが乗る馬は彼女の愛馬であり、金色の鬣をした若い白馬だ。森の中の散歩では頼りになる存在ではあったが、〈火の国の魔人〉の馬と比べると貧弱といっても良かった。おまけにこちらは二人乗りだ。あちらは鎧と武器の重みがあるとはいえ騎乗しているのはひとりだけで、となれば徐々に馬と荷の差が速度と距離として現れ始めていた。〈世界樹〉の根が幾度も〈火の国の魔人〉を阻もうとしていたが、ゆっくりとしか動かない根は大した障害にはなっていなかった。

「無事で逃げてくれ」とフレイはゲルドの肩を抱いて言った。「ヴァルハラを目指すんだ。こういうときはたトールがいちばん頼りになる。あの筋肉馬鹿が」

「このまま逃げれば大丈夫。きっと追いつかれません」

「無理だよ、ゲルド。じゃあ」

 最後にということだろうか、接吻を交わそうとしたフレイの顔をゲルドは押しのけた。「馬鹿なことを……馬鹿なことを言わないでください。それではなんのためにわたしが来たのか、わからないでしょう?」

「最後に会えた。それが嬉しい」

「わたしは嬉しくありません」

 目の前が傾いたとき、フレイはゲルドの身体を抱きかかえて草原に落ちた。ゲルドは視界の端で、足に黒ずんだ矢を受けた馬が喘ぐのを見た。矢からは煙が立ち、馬の足からは肉が焼ける臭いが伝わってくる。嘶き、倒れる。二本目の矢が頭に突き刺さる。ゲルドの愛馬はそれで息絶えた。涙が溢れるのを感じた。


 もはや逃亡者が足を失ったのは明らかだったからだろう。〈火の国の魔人〉の乗る馬はゆっくりとした足取りで近づいてきた。

 弓を背負い、三日月斧バルディッシュを構え直す〈火の国の魔人〉に対して、フレイは片足ゆえに立ち上がることさえもおぼつかぬまま、ゲルドを背中に庇った。

「スルト……おまえがなぜおれを殺そうとするのかはわからないが、おれは見てのとおり魔法が使える。だからおれを殺せ。代わりに彼女は逃がせ」

「フレイ——」

 フレイを説得しようとしたゲルドの声を、〈火の国の魔人〉が遮った。

「何を言っている、フレイ? 逃せだ? 馬鹿な」

 ゲルドはフレイの背中越しに〈火の国の魔人〉の顔を見上げた。女の顔を。奇妙なことに、フレイとゲルドを——いや、ゲルドを見下ろす視線には、恐怖、いや、不快感がありありと表れていた。

「その女はなんだ? 〈神々の宝物〉か? どうなっている? 巨人族に見えるが、おまえ以上の魔法の香がするぞ。というより、魔法そのものだ。魔術の式が刻まれた〈神々の宝物〉にしか見えない」

「何を言って——」

「フレイ、おまえにはわからないのか? なんだ、それは。おまえの比ではない魔法を秘めた化け物だぞ。退け、フレイ。その女は浄化しなければならない。この九世界の害となるものだ」馬が後ろに回り込み、スルトはその黒く輝く三日月斧の先をゲルドに向けた。「が、その前に情報を出してもらおう。女、おまえはなんだ? おまえは〈神々の宝物〉なのか? 誰が作った? どこからやってきた? 〈呪われた三人〉か? 吐け。洗いざらい吐け。死ぬ前に吐け。〈呪われた三人〉の居場所を知っているだろう、どこにいる?」


 燃え盛る三日月斧の鋭い刃先を喉元に突きつけられながら、ゲルドは黙って首を振った。振るしかなかった。

 スルトの長斧が動く。刃先はゲルドの投げ出された腿を抉り、肉が焼ける臭いと血が沸騰する音とともに耐え難い痛みを感じさせた。

「女、おまえはいずれ死ぬ。が、それが早いか遅いか、痛みを伴うか安楽なものかはおまえ次第だ。決断しろ」

 ゲルドは動いたが、それは〈火の国の魔人〉から逃げるためでも、戦うためでも、彼女が欲している情報を吐き出すためでもなかった。ゲルドはフレイの腕を掴んだ。折れた剣を掴んで反撃しようとした彼の腕を。

「フレイ、やめて……!」

 どうか、どうか、とゲルドはフレイの耳元で囁いた。どうか逃げてくださいと。早く、いまのうちに逃げてくださいと。わたしのことは忘れてくださいと。

 スルトの燃え盛る刃は腕に焼き傷を作り、背中を切り裂いたが、ゲルドは目を瞑り、声をあげるだけで耐えた。どれだけの傷を作られても、黄金を積まれても、命を奪われたとしても——ゲルドは口を割るつもりはなかった。

「やめろ、スルト! やめてくれ!」

 フレイの悲痛な声が聞こえた。ゲルドにはそれだけが希望だった。


「よくわかったよ、女。おまえの覚悟がわかった」

 やがて刃が止まるとともに、〈火の国の魔人〉の声が降ってきた。ゲルドを傷つけてきたとは思えぬ、どこか穏やかな雰囲気を感じさせる声で、その語り口はこれまで武器を向けてきたときよりも、彼女の容貌に似合っているように感じた。

「おまえはどれだけ傷つけても駄目なのだな。ではこうしよう。おまえが真実を語らなければ、おまえより先にフレイを殺す。何か語って、それが嘘だと感じたときも殺す。時間稼ぎをしようとしても殺す。それを止めたければ、おまえの魔法について知っている限りのことを話せ。」

三日月斧が振り上げられた。スルトはその切っ先をフレイに振り下ろすまでのカウントをしたりはしなかった。

 だからゲルドは。

「わたしは、わたしは………」

 ゲルドはもはや迷えなかった。

「フレイを愛する魔法をかけられました」

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