第2.7話 妖精王フレイ、金の鬣との決闘を承諾すること

 食事処、グリョートナガルダルの店内はいつもより明るく、いつもより客数が多いように見えた。

 アース神族はいない。もちろん、ヴァン神族も。巨人族ばかりだ。それが自然だ。彼らの表情が幾分明るいのでは、フルングニルがスリュムヘイムのすぐ近くまで来ていることが伝わっているためであろう。つまりそれだけフルングニルという巨人は信頼されているということだろう。強さでも、人柄でも。そうでなければ、この街で戦が始まってしまうことを恐れ、このような場所で和やかに食事をしている場合ではないはずだ。


 グリョートナガルダルの外、道ひとつ挟んだ向かいに置かれていた休憩用なのであろう長椅子に腰掛け、フレイはじっと店の中を見ていた。夜の帳が下り、月影が朧であれば店内からフレイに気付く者はいなかった。

 ゲルドも。

 風は涼しく、茹だった頭にはちょうど良い冷たさだった。フレイは笑いそうになって、口元に手をやったが、それでも抑えきれず、噴き出した。なんとか声を小さくするのに苦労した。身体をよじらせたときに長椅子から落ちそうになり、それがまたおかしかった。腹が痛い。

 なんだろう、この状況は。おれは、いったい何を考えているのだろう。ゲルドの前で、名前を呼ばれてしまった。ヴァン神族のフレイだと、彼女に知られてしまった。それで、それでもう彼女の目の前に出られないとは。怖くて、恥ずかしくて、鼠みたいに影からこそこそしていることしかできないとは。なんだ。これは。馬鹿か。おれは。


 恋か。

 笑い過ぎて痛む腹を擦りながら、フレイは夜空の星々を仰いだ。


(もともとどうなる話でもなかったじゃないか、なぁ?)

 己に言い聞かせる。フレイはアース神族に与するヴァン神族であり、ゲルドは巨人族だ。敵同士だ。敵同士が結ばれれば、ああ、それは素晴らしいことだが、それはありえない。何せ戦争中だ。スリュムヘイムを制圧すれば、次の拠点を攻めていくのだ。軍を担う戦士であれば、その進軍からは解放してはもらえまい。

(だいたいどこが良いんだよ、あんな女)

 ああ、美人だ。流れる金髪は絹糸のようで、左右で色の違う瞳は草原と碧海を同時に映したかのようで、身体はどこも柔らかそうで――それだけ、それだけだ。

 助けてやったのに礼を言われるどころか暴力を注意してきて、二度目にあったら丁寧すぎるくらいに謝ってきて――ああ、それだけだ。


 フレイはゲルドの食事処に背を向けた。街を歩き、長い石階段を登る。木々が開け、街が一望できた。町の明かりは火をリレーさせているかのように流れ、分岐し、平面に絵を描いている。

(綺麗だな………)

 この光景も、ああ、それだけだ。ただ、綺麗だ。それ以上に必要だろうか、なぁ?


 ふぅと息を吐く。まだ彼女は働いていることだろう。会えるだろうか。会って話ができるだろうか。ヴァン神族であるフレイの話を聞いてくれるだろうか。

 登ってきた階段をまた降りようとしたとき、アース神族の拠点となっている巨人シアチの館の扉が開く音が聞こえた。宵の口であれば、誰が出てきてもおかしくはない。フレイはだから、誰が出てきたかには注意は払わなかった。だが相手は違った。

「……フレイか!?」

 声の主は館から出て駆けてきた神物から発せられた。

「誰だ――チュールか?」とフレイは声から検討をつける。

「おまえ、こんなところで何を……いや、そんなことはいまはどうでも――」

 〈軍神チュール〉の言葉は目の前が眩しくなったことで中断された。シアチの館やその周辺に煌々と明かりが灯されていた。


「動かないでください。あなたがたを狙っています」

 新たに聞こえてきた声は少年のように高く、であればフレイはその声の主が誰なのか見当がついた。

 明かりで確保された視界で状況を確認する。舌打ちをするチュールは、イドゥンを抱えていた。彼女の両手には前で手錠をされており、チュールは彼女を隻腕で運んできたようだ。どういう状況なのかさっぱりわからなかったが、イドゥンの表情は絶体絶命の危機に瀕するというよりは、料理に塩を多く入れ過ぎてしまったという程度に眉根を寄せていただけなので、フレイはひとまず緊張を解いた。

 だが館から十を超える武装したアース神族の兵士たちがやってきてフレイたちを取り囲むのだから、四肢に力を入れないわけにはいかなかった。


「フレイ、チュール、イドゥンを返して投降してください。あなたがたには勝ち目はありません」

 フレイたちを取り囲むアース神族の中にウルの姿は見えず、彼の声はやはりシアチの館の暗がりから聞こえてくる。先の警告から考えれば、得意の弓でこちらを狙っているのかもしれない。

「おい、どういう状況だよ、これ――あ、いや、そのまえにイドゥンを下ろせ。あんまりべたべた胸や尻を触るな」

「そんなにべたべた触られてないよ」とイドゥンが地面に下ろされながら、緊張感なく答える。

「ウルは、おまえのことを探していた」とチュール。「おまえが帰ってきたのは最悪のタイミングだ。馬鹿か」

「なんで急に罵倒されなきゃいけないんだ。とりあえず投降したほうが良いのかどうかを教えてくれ」

「しないことを勧める。手短に説明するぞ。ロキが帰ってきた。フルングニルは一対一での決闘を 望んでいる。お互いに代表を立て、決闘で勝ったものをこの戦いの全面的な勝者にするという、スリュムヘイムを賭けた決闘だ。負けたほうはそのまま撤退する。そういう話になった。だから決闘だ。古臭い話だが。向こうはもちろんフルングニルが出てくるだろう。正式に決闘者が決まるのは当日だが、トールが負傷している以上、こちらの代表にはお前が選ばれている。拒否権はないらしい。アース神族は、お前を戦わせるためにイドゥンを利用しようとした」

「そうみたい」とイドゥンが舌を出す。

「フレイ、いまから助けますので、両手を挙げて動かないでください」ウルの声が響く。「チュールの言葉には耳を貸さないでください。あなたは騙されています。彼はイドゥンを連れ去ろうとしました。イドゥンも、いまは混乱しています」

「いきなり弓で狙っておいて、それはないだろう」フレイは言い返す。「こんな方法でトールがいない穴を埋めようとして、そんな一時凌ぎでこの先どうにかなると思っているのか」


 二秒ほど沈黙。フレイはその間現状を確認する。イドゥンにもチュールにも目立った傷跡はなかった。イドゥンの首には《金環ブリーシンガメン》がつけられたままだ。それを取れば包囲は突破できるだろうが、しかしその後の保証はできない。


「いまは、あなたに戦ってもらうしか方法はありません」ウルの返答があった。「トールのいないいま、あなたがぼくらの中で最も強い。巨人族が約束を反故にするかどうかはわかりませんが、あなたが決闘で勝ちさえすれば、最強の巨人の軍は指揮者を失います。この場で破ることができる」

「そう上手くはいかないさ。おれが負ける可能性もほんのちょっぴりだがあるし、わざと負けてやることもできる。おまえらの思い通りにはなるよりはマシだな。そもそもこの程度の人数でどうにかなると思っているのか。馬鹿め」

 とフレイは勢いで罵倒の言葉を口にした。

「あなたもチュールも武器を持ってはいない。イドゥンは手錠をされていて自由に動けない。チュールは隻腕だ。それに弓が狙っている。どうしようもありません。あなたがいまユングヴィを持っているのならともかく――持っていませんよね?」

「なにを狙っているんだ?」フレイは余裕を持って呆れた表情を見せてやる。「何を撃てる? 何も撃てない。おれもイドゥンも、死んだらあんたらアース神族が困るんじゃないか? チュールでも狙うか。こいつ相手なら撃っても構わんぞ」

「お願いですから、下手に挑発しないでください。あなたが戦えなくなったら、勝率が下がってしまう」

 ウルは冷たい声で応じた。どうやら本気で狙っているようだ。フレイのことを。いや、そもそもからしてフレイを決闘に出すのだから、もはやヴァン神族がアース神族から離反する可能性は問題にしていないのかもしれない。あるいは前戦争においてヴァン神族の戦力のかなりの部分を担っていたフレイが死亡したなら、もはや脅威にはならないという考えだろうか。


 フレイはイドゥンとチュールの表情を一瞥する。チュールはイドゥンの身を案じ、フレイに対する人質にされそうだった彼女を助けようとしてくれたのかもしれない。

 しかし現状、イドゥンのことを考えるのであれば、この場は大人しく捕まるのが無難だ。たとえこの場を逃れられたとしても、ヴァン神族であるフレイとイドゥンには行き着く場所はないのだ。

「おい」フレイは妹を助けたアース神族に声をかける。「投降して良いか?」

「あんたが良いなら」チュールは頷く。「仕方ない」

「フレイ、大丈夫?」イドゥンが初めて心配そうな声をあげた。「フルングニルって、トールくらい強いって聞いたけど」

「逃げても同じさ。ウルも本気で狙っている。それに、そう簡単には負けたりしない。おれはアースガルドで唯一、〈雷神〉に勝った男だからな」

 フレイは両手を挙げた。

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