第2.5話 半死者ヘル、金の鬣の進軍を目にすること
(――眩しい)
天頂に太陽が輝き、世界樹が大地を満たす。風が流れ、水は温かく、何より生命に満ち溢れている。人神にとってしてみればごくごく当たり前の、しかし亡者にとっては喉から手が出るほど――まさしくそんな亡者を見たことがあったが――渇望している場所、第二平面ミッドガルド。世界樹の麓の丘。
第三平面ヘルモードから世界樹の根を伝い始めて、幾程の月日が流れただろう。辛く、苦しい旅路であった。だが、だが――ヘルはやり遂げた。ついに、ついにミッドガルドまで戻ることができたのだ。世界樹の根だけが唯一の繋がりである第三平面とは違い、第二平面と第一平面は虹の架け橋などいくつもの交通手段があって行き交うことは容易だ。もうすぐ、もうすぐアースガルドへと戻ることができる。
ミッドガルドはもう秋で、冬に移行しつつある季節だということは知っていたが、ヘルにとっては寒い冬の実感などまったくなかった。長いヘルモードでの生活のために、地上の暖かさというものを忘れてしまっていたからかもしれない。冷たいものに触れたあとは、平温のものに触れただけでも暖かく感じるものだ。
身体が重い。体力をほとんど使い果たした。
ヘルはうつぶせに倒れる。ヘルモードでこんな状態になってしまったらすぐに死んでしまうだろう。亡者たちに殺されてしまう。でなくても――ヘルは死んでしまう。ヘルの身体は、壊れているから。もう亡者だから。人神とは違う生き物だから。《殻鎧フヴェルゲルミル》によって、辛うじて人神の姿を保っている存在だから。〈半死者〉なのだから。
倒れていたヘルのもとに近づいてきた生き物がいた。小鳥だ。羽の色は猛禽のそれに似て、しかし小さく、可愛らしかった。なればこそ、その身体を握り潰して喰らうのには抵抗があった。真っ赤な肉塊と化した小鳥を左掌から吸収する。ルーン。生命の源。どこにでも存在するもの。炎や雷や生命を構成するもの。形を変えて存在するもの。九世界を満たしているもの。ヘルには――ヘルにはそれが足りない。だから喰らう。足りているものから奪う。己が願いを達成するまで。
きょうだいを助け、父を探す。
そのために……そのためにヘルは地獄のようなヘルモードを脱出してきたのだ。
半身を起こす。ここは第二平面ミッドガルドだ。ならば、まずはミッドガルドの海を住処としているという世界蛇ヨルムンガンドを探すべきかもしれない。〈
そんなふうに考えかけていたヘルは、跳ねるように動いた。世界樹の丘の手近な木陰に隠れる。人神の気配がしたのだ。大量の、人神の気配が。亡者たちに囲まれて生きてきたヘルには、近づく者に対して可能な限り警戒をする癖がついていた。たぶん、その癖は今回ヘルの命を救ったのだろう。なにせ、気配の正体は巨人族の軍勢だったのだから。
近づくにつれて、その気配は耳には音として、目には砂塵として明らかになっていった。世界樹ユグドラシルの根付くこの九世界の最大勢力、巨人族の軍としても大規模であり、武装や騎馬の質は遠目でも十分に高いものに見える。
(向かっているのは……あの街か)
倒壊した砦のある街は、ヘルが第三平面に落とされる以前と領主が変わっていなければ、スリュムヘイムという名のはずだ。第一平面アースガルドに最も近接した巨人族の街であり、巨人族の前哨基地ともいえる場所だ。その砦が落ちているのだから、やはり未だ戦争は続いているらしい。前哨戦はアース神族の勝ちということだろうか。ならばいま行軍しているあの巨人族の軍は、スリュムヘイムを奪い返すために動いているのか。
(――やばいっ!)
木々の影から丘の下を窺っていたヘルだったが、行軍する部隊の中央に動きを感じ、慌てて幹の裏に全身を隠す。ヘルは大柄ではないが、鎧の色が昼間は明らかに目立つ。気付かれたかもしれない――ヘルのほうを見上げてきたのは黄金の鬣の立派な馬に騎乗していた巨人族だった。巨人族らしく大柄で、筋骨隆々とした見事な装飾鎧を身に纏った、まるで獅子のような金の髪の男。こちらに斥候を差し向けてくる様子はなく、であればヘルのことは獣か何かと思ってくれたのだろう。そう思ってくれたなら思ってくれたで、ヘルは顔を出して藪蛇を突くことはしたくなかった。ここは第二平面ミッドガルド。ヘルモードとは違う、安全な場所だ。ひとまず、この場はやり過ごそう。
***
***
階下の騒がしさに気付いたロキはシアチの屋敷の塔部屋の窓から外を覗くが、明らかに平時とは違うその原因はわからない。扉の向こうで話し声が聞こえる。ロキは扉に接近し、壁向こうにいるであろう相手に向かって話しかける。
「なにかあったんですか?」
相手の返事はなく、話し合うかのような声はしかし聞こえたままだった。
「あのぉ! なにかあったんですか!?」と、ロキはもう一度声を大きくして尋ねた。
ややあってから返答が戻ってきた。
「軍が見えた。巨人が攻めてきた」
「え?」
巨人族が攻め込んでくるとは思っていなかったからだ。彼らは基本平和的で、仲間意識が強い。スリュムヘイムが既に完全に制圧されたこの状態で、仲間を救出しようとしてくるのはわかるが、しかしそれが軍隊を率いての進攻という形で行われるのは奇妙だ。スリュムヘイムに駐屯しているアース神族を攻めようとすれば、スリュムヘイムにいる一般人にも危害が及ぶ。攻めてくるのならばアース神族が次の砦へと向かうときであるはずだ。
「あの、巨人族の軍隊の大将はだれですか?」ロキは情報を引き出すために補足する。「えっと、わたしに何かわかることがあるかも………」
扉の向こうで短い会話が交わされ、それからロキに向かって伝えられた。その名を聞き、ロキは息を呑んだ。あの男が。アース神族軍最強の雷神であるトールが負傷して戦えないときに、よもやあの男が。《赤球ギャルプグレイプ》を持つ、巨人族最強の男。〈金の鬣〉。その名はフルングニル。
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