第1.16話 雷神トール、世界蛇との最初の戦いに挑むこと

 狼の毛皮を纏った〈狂戦士ベルセルク〉たちが、斧を槍を手に吶喊の叫び声をあげる。彼らベルセルクたちは第一平面アースガルドに住まうアース神族ではなく、第二平面ミッドガルドから連れられてきた人間たちだ。

 アース神族は魔法の道具である〈神々の宝物〉の所有率こそ高いものの、人神じんしんの絶対数でいえば他の民族よりも遥かに少ない。いかに〈神々の宝物〉の力が強大とはいえ、それを実際に戦場に赴き、振るわねばいかない以上、兵数の差は如実に戦力に現れてくる。

 であるがゆえに、アース神族の首長であるオーディンが作り出したのが《狼套ウーフヘジン》による洗脳奴隷兵であるベルセルクであった。もとはミッドガルドの優秀な戦士であった彼らは、魔術が秘されたその狼の毛皮によって、死ぬまで戦う狂戦士と化している。


 アース神族の戦線に立つのはいつも彼らだ――雷雨吹き荒れる砦の頂上で、雷神トールが泥の巨人の頭を吹き飛ばしてから戻ってきた《雷槌ミョルニル》の長い柄を握った。

 フレイとチュールが向かった灯台の近くに突如として出現した9体の泥の巨人に気を取られている間に、アース神族と巨人族の戦闘は始まっていた。斧が肩に喰い込み、槍先が首を掻き切る乱戦ともなれば、着弾した周囲一帯を稲妻によって吹き飛ばす《雷槌ミョルニル》は自軍にも被害が出てしまうので役には立たない。

 それでも相手の砦を破壊すれば後続部隊や補給路を断つことはできる。あの泥の巨人がいったいどこから出現したのかは不明だが、フレイやチュールにとって危険そうな位置のものはひとまず撃退できた。砦を破壊しなければ。


 そう思って槌を振りかぶったときに、トールは気付いた。《雷槌ミョルニル》の一撃を受けて頭がなくなった泥の大巨人の身体が崩れ落ちることなく、その双腕を風車のように振り回し始めたことに。

(頭を吹っ飛ばされて、まだ動くのか……!?)

 考えてみれば当然かもしれない。泥の巨人の頭には目も耳もない。ろくろく機能などないのだろう。ならば形状が人神と似ているというだけで、登頂にある頭が弱点と考えるのは間違いなのかもしれない。

「くそっ」

 トールは悪態を吐き出すとともに、巨人族の砦へと向けようとしていた《雷槌ミョルニル》を、回転する巨大な腕へと向けた。投擲された槌は雷鳴とともに泥の巨人の片腕に稲妻を迸らせた。腕は吹き飛ばされた――が、やはり泥の巨人は止まらない。

 五体に《雷槌ミョルニル》を叩き込めば跡形もなく消滅させることはできるだろう。だが《雷槌ミョルニル》には2つの弱点がある――その強大過ぎる力と、投擲してから戻ってくるまでの時間だ。当たったあとは自力で戻ってきてくれるのはありがたいことだが、距離を置いて投擲をしなければならず、しかも着弾してから稲妻を撒き散らすので一度対象にぶつかってから戻ってくるまでに時間がかかり、複数体の敵との戦闘は難しい。それでもこれまでの戦闘では、唯一フレイとの戦いを除けば、それが障害になることはなかった。何せ一撃で砦を破壊する威力があるのだ。次に投げることなど考える必要がない。が、五体を破壊しつくさなければ止められず、しかも9体もいる泥の巨人に対してはヴァン神族との戦闘のとき以上に《雷槌ミョルニル》の特性に歯噛みしなければならなかった。


「トール、疾く砦を破壊しろ!」

 草原でベルセルクやアース神族の兵士たちを指揮しているバルドルから、雨音に掻き消されないよう大声で命が下る。

「バルドル、あっちの泥の巨人はどうにかならんか!?」

「あんなのどうにもならん! いいからおまえは――」

 言いかけたバルドルの顔が驚愕に歪むのが、砦の頂上と地上の距離の差があっても見て取れた。


「ミストカーフ」


 背後から聞こえた静かな声でトールは振り返った。はじめ石の塊が無造作に眼前に突き刺さっているかのように見えた。だが目を瞬かせる間にそれが間違いだと気付く。人神の形であると。まるで森の大樹のように苔生した体表をした、人でも神でも、亡者ですらない者であると。

(こいつはアースガルドの大草原にいたはずじゃあ………!?)


 白きヘイムダル。


 その名は、かつてオーディンが唯一予測できない存在であると挙げていたことをトールは知っている。

「まるで他のことは何でも自分の思うままになるみたいな物言いだな」とトールはそのとき言い返したのを覚えている。

「それは違う、トール」とオーディンはやんわりと首を振った。「ぼくが言っているのは、あくまで予測が可能かどうかということだけさ。思い通りにできるかどうかは別問題だ。予期できない幸福も、予想できていながら訪れる不幸もあるんだからね。ただ彼――ヘイムダルと呼ばれている存在に関しては、どう動くかは予測すらできない。今はまだ、目覚めていないみたいだけれども」

 そしてオーディンはこうも言った。ヘイムダルが捜しているのは邪悪なのだと。この世界に巣食う害悪なのだと。今は半ば石化したような鈍足であるが、時の鎖から解き放たれれば、あの〈白き〉は猟犬のごとく邪悪を喰らい尽くそうとするだろう、と。


 どうすればヘイムダルが覚醒するのかについては、ただ時を待つだけだ、とオーディンは言っていた。今、覚醒したのかといえば、アース神族の砦の上で雨に打たれるヘイムダルは、以前と同様に苔生した姿であり、これまで通りその瞳は何も映していないように見えた。だが〈白き〉はこれまでにない速さで――それでも他の人神と比べれば遥かに遅かったが――動いていた。腰に佩いている僅かに湾曲した刀――《楽刀ギャラルホルン》を抜いていた。

 トールは遠方の灯台で暴れる泥の巨人や下方の草原に広がるから、間近に存在する脅威へと警戒を向ける。ヘイムダルが果たして敵なのか味方なのかは誰にもわからない。トールからすればほとんど全能とすら感じられる〈恐るべき者〉ことオーディンですら、ヘイムダルのことが予想できないと言っていたのだ。おまけに音もなくこの場に出現したことを考えれば、オーディンと同じく魔法が使えるに違いない。この場に突如として生じた泥の大巨人たち――あれも彼の仕業なのではないだろうか。


 白きヘイムダルが構える〈神々の宝物〉の刀身は、全身が錆び付いたようなヘイムダルの姿とは対称的に、ひとつの汚れもなく輝いていた。だが形状はといえば、刀身に大小さまざまな穴が空いており、武器としては完璧とはいえないように見える。

 その刀身を、何を思ったかヘイムダルは己が口元へと持っていく。左手で柄は握ってはいるものの、右手は刀身の上身、柄に近い部分を握っており、まるで刀身に接吻するかのような姿勢だった。

「ヘイムダ――」

 トールが問い質そうとする前に、異変は起きた。


 耳朶を打つ音が聞こえた瞬間に耳を塞ぐことができたのは、これもやはりオーディンのおかげだった。九世界に存在する3つの魔法のうちのひとつは、音に関わるものだというものを聞いていた。

(魔曲か――!)

 ルーン文字を一定の書式で書き連ねることで超常の現象を起こすことができる。それが魔術であり、魔法の一形態だ。それは〈神々の宝物〉の動作原理でもある。〈神々の宝物〉には術式がルーン文字が連綿と書き連ねられている、らしい。トールにはルーン文字など読めないが。

 そして魔曲は魔術とはまったく異なる形式で作動する魔法の一種だ。魔術が文字を媒介とするように、魔曲は音を媒介としてその超常の力を伝播させる。それが攻撃として用いられているのならば、耳を塞いだ程度で防げるものではないが、ある程度軽減することができる可能性もないではないという。


 が、やはり無駄だった。トールは己の身体が不意に動かなくなったのを理解した。身体が、硬い。凍り付いたかのように動かない。悪態すら吐けない。くそ、くそ。

 《楽刀ギャラルホルン》からヘイムダルの唇が離れる。彼の動作はアースガルド大草原にいたときよりも遥かに素早かったが、それでもなお緩慢であり、であればこそ目の前でゆるゆると刀が振りかぶられる動作には、歴戦の戦士であるトールすら恐怖を覚えた。 

(殺られる――!)

 目を瞑ることすら許されなかったがゆえ、トールには刀の軌道がはっきりと見えた。それまでとはまったく異なる速度の剣閃は、トールの眼前を通り過ぎていった。

 剣刃の通過とともに、身体が自由になる。トールは背後を振り返った。草原を超えた遥か彼方、泥の巨人の1体の左胸がぱっくりと開き、そこから黒々とした液体が噴き出しており、力なく膝をつくや、雨に溶かされるかのようにぼろぼろと崩壊し始めていた。


 トールが即座に理解できたことは3つ。

 ひとつ――ヘイムダルは少なくとも現状は敵ではないということ。

 ふたつ――ヘイムダルの剣閃が遠方のあの泥の巨人を切り裂いたということ。

 みっつ―――。

「弱点は心臓かっ!」

 トールが投擲した《雷槌ミョルニル》が狙い違わず泥の巨人の心臓部を貫けば、ヘイムダルによって切り裂かれた泥の巨人と同様に胸から黒い血を撒き散らしたのちに倒壊した。


   ***

   ***


 稲光を撒き散らす《雷槌ミョルニル》は、やはり雷神の力の象徴であった。チュールは歯噛みしつつも、己が使命を果たすために灯台へと向けて駆けていた。

「チュール、先に行ってろ」

 並走していたフレイの馬が突如として速度を落とす。どうやら泥に足を取られ、馬の前足が骨折したらしい。足が折れた馬ほど役に立たないものはない。チュールは頷いて返した。灯台へと至る坂道にひとり佇んでいれば、泥の巨人に襲われる可能性もあろうが、トールの三度目の投擲によって、あれの弱点が心臓部らしいことはわかった。フレイは見た目以上に屈強な戦士だ。前大戦では、あの雷神トールに打ち勝ってさえいるのだから。


 フレイの手を離れ空を舞う《妖剣ユングヴィ》が灯台へ至る道を塞ぐ泥の巨人の左胸に杭のように突き刺さった。打たれた杭が抜かれるや、赤黒い血液を噴き出しながら泥の巨人は崩れ落ちてきたので、チュールは泥の雨を避けて馬を走らせるのに苦労した。

 砦から援護するトールの《雷槌ミョルニル》も次々と泥の巨人の心の臓を射抜いていく。槌が泥の巨人の胸を貫くたびに、爆発的な轟音と稲光が走り、あとに残るのは砕けた泥山だけ。一撃だ。

 〈巨人殺し〉。

 チュールは〈雷神〉の次に有名なトールの異名を思い出した。アース神族最強とヴァン神族最強の男たちが同時に戦場に現れたからには、もはや脅威などありえない。


 そう思っていた。海の中から雷鳴よりも臓腑を凍らせるような叫び声が聞こえるまでは。世界を一巡りできると喩えられるほどに巨大な姿が這い出て来るまでは。海面の帷の内で生活するには不釣り合いな巨大な白い羽を携えた大蛇が咆哮をあげるまでは。


 〈世界蛇ミッドガルド蛇〉――ヨルムンガンド。


 ヨルムンガンドはまるで灯台のすぐ傍らの海から、稲光を求めるようにして現れた。金色の視線を周囲に走らせ、赤く細長い舌を出して蛇特有の甲高い鳴き声を漏らす。巨体ゆえ、蛇の鳴き声は腹に響く。

 蛇は灯台の周囲に残っていた泥の巨人たちをしばらく見つめていたが、予備動作もなく尾を走らせてそれらの胴を薙いだ。泥の巨人に匹敵する巨体なれば、心臓が弱点だのなんだのと気にする必要はなく、泥は泥へと帰った。


 邪魔者がいなくなったところで、金色の瞳は灯台を見下ろした。細まった爬虫類の瞳孔の先にあるのは灯台か、その中のロキか、あるいはイドゥンか。なんにせよ、泥の巨人もものともしないあの巨体が灯台に叩きつけられれば、古びた石造りの建物は一瞬にして倒壊するであろう。

 だが蛇が実際に行動に移すよりも、雷のほうが早かった。9体の泥の巨人が消失した今、雷神トールの投げた《雷槌ミョルニル》は狙い違わず新たな敵――世界蛇ヨルムンガンドの長い胴を捉え、爆発とともに稲妻を撒き散らした。世界蛇は吹き飛び、近くにいたチュールが足を取られそうになるほどの勢いでぬかるんだ泥の上に叩きつけられた。叩きつけられたが――それだけだった。


 何事もなかったかのようにむっくりと起き上がった蛇の視線の行く先は、今度ばかりは傍から見ているチュールにも予想ができた。アース神族の砦。砦の上の男。雷神トール。

 滑るようにヨルムンガンドは這い進めば、巨体はすぐさまアース神族の砦に到達した。《雷槌ミョルニル》が手元に戻るよりも早く、ヨルムンガンドの巨体が勢いそのままに砦へと突っ込んだ。建物は木っ端微塵に倒壊し、アース神族最強の〈雷神〉の姿は瓦礫の中へと消えた。

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