第1.15話 軍神チュール、泥の巨人に遭遇すること

 アースガルド大草原を地面すれすれに飛んでいた燕が翼を翻して急上昇する。勢いで抜けた羽毛が地に落ちるより前に、駆けこんできた馬が羽を巻き上げた。高く、高く、森を越え、山を越え、燃える三色の橋ビフレストを越えた羽は、下方に広がる大地を見下ろした。己を吹き飛ばした二頭の馬も、第一平面アースガルドから第二平面ミッドガルドへとその蹄を進めていた。彼らが向かう先には、石造りの背の高い建造物があった。ミッドガルドの巨人族侵攻の足掛かりとなる、アース神族の砦である。


 チュールは舌打ちをした。いや、舌打ちをしようと口の中で舌を動かしたが、乾いた口内の中で己の身体の一器官であるはずの舌は思うとおりに動いてくれず、ただ歯の裏を舐めただけになった。チュールは疲れ切っていた。おそらくは、フレイも。馬も。

 先頭を駆けていたフレイが馬上で振り返り、アース神族の砦のさらに向こう側にある巨人族の砦とそれを含む城塞都市を顎で示す。ああ、わかっている。言われなくてもわかっている。

 結局、ここまで来てしまった。結局、追い付けなかった。結局、結局……イドゥンは連れ去られてしまった。あの女――〈狼の母ロキ〉に。


 第三世界アールヴヘイム沿いの森から逃げるロキを追ってきたチュールたちだったが、空を飛ぶロキには次第に引き離されていっていた。最後にロキの姿が見えたのは、アースガルド大草原だったが、第一平面アースガルドの端から第二平面ミッドガルドで小粒のようにしか見えなくなっていたロキはどこかに降りたっていた。遠目だったので距離感が曖昧だが、この辺りにある建築物はアース神族の砦、巨人族の砦、それに海の傍にある小さな灯台しか見当たらない。ロキがイドゥンを連れ去ったことはアース神族に対する明らかなる裏切りなのだから、巨人族の城塞都市に降りたに違いないだろう。

 早くイドゥンを救出しなければ。

 巨人族が彼女を連れ去り、何をしているかは想像が付く。人質としてアース神族に加入したヴァン神族の指導者の娘を殺し、アース神族とヴァン神族の仲違いをさせるつもりだ。

 否、明らかに巨人族の卑劣な策略とわかるように殺したら逆にアース神族とヴァン神族の結束を強める形になってしまう可能性もあるので、すぐに殺しはしないかもしれない。しかしなんにしても、イドゥンが危険な立場にあることは間違いない。


 救出の機会はおそらくイドゥンがまだあの砦の中にいるであろう、今しかない。今いる地域は第二平面ミッドガルドであり、既に巨人族の領域ではあるが、それでも僻地であり、巨人族の兵はそう多くはない。巨人族の世界ヨツンヘイムの首都であるウドガルドまで連れ去られたら、救出は困難を極めるだろう。

 空を見上げる。空の雲行きは怪しくなり始めている。ロキが砦の中に降り立ったのはこの天気のためであろう。すぐに雨が降り始めるに違いない。

 今しかない――とはいえ、このまま巨人族の砦に二人だけで突っ込んでイドゥンを救出できるとも思えない。


 巨人には〈巨人殺し〉の出番だ。


 今、アース神族の部隊は悪天候から逃れるためか、砦の中に退避しているようだった。巨人族も同様だ。

 フレイの前に回り込み、馬を止めるようにと腕を振って指示を出す。

「なんだ」不満そうな表情でフレイが言う。「怖気づいたか」

「二人では無理だ。トールの力が必要だ」

 口にしてから、チュールはまた舌打ちがしたくなった――今度は己に対して。あれだけ功を焦っていたのに、いざ敵を目の当たりにすると〈雷神〉頼みだ。情けなくなる。ああ、くそう、情けない。おれは、情けないが、それでもイドゥンを助けるためには仕方がない。


 フレイも不承不承といった様子で頷き、馬をアース神族の砦の入口へと走らせると、見張りの兵士のほかに砦の入口ではトールやバルドルといったアース神族の将軍たちが肩を並べていた。どうやら物見の兵から、接近してくる騎馬の報告を受けて待っていたらしい。

「なんだ、おまえたちか」とアース神族軍の将のひとりであるバルドルがチュールたちを見るなり肩を竦めた。いつも通り、他者を見下した瞳だ。「誰かと思った」

「イドゥンが連れ去られた」

 開口一番にフレイが言うと、その場にいた将軍たちはいずれも驚いた表情になった。いや、ひとりだけ表情を変えない者がいた。珍しいくらいに固い沈黙を浮かべていたのは、アース神族軍最強の雷神トールであった。

「なるほど、ロキか」

 とバルドルが頷くからには、巨人族の砦へ飛んでいくロキの姿には気づいていたらしい。イドゥンの姿までは見止められなかったらしいが、何か異変があったことは悟っていたに違いない。


「とりあえず、中に入れ。作戦会議だ」

 とバルドルに誘われるままに、チュールとフレイはアース神族の駐屯砦へ歩を進めた。簡素な石造りの砦の中に入ってすぐの部屋が作戦会議室だった。といっても、木造のテーブルが中央に置かれており、そこに軍略図が並べられているだけの部屋で、砦の外観通りの簡素さだった。

「ようやくこれで頭数が揃ったな」

 と大仰に言うバルドルに「作戦は?」とチュールは尋ねた。

「いつもどおり。トールがミョルニルをあっちの砦――スリュムヘイムのど真ん中にぶち当てて、混乱している隙に全軍突撃。そのままイドゥンを救い出す」

「そんな作戦で大丈夫なのか?」

 いつもは攻めるだけだから乱暴な作戦でも成功したが、今回はイドゥンの救出作戦だ。派手な作戦ではどこかに幽閉されているであろうイドゥンの身に危険が及ぶ可能性があり、そうでなくともミョルニルによって崩された外壁の下敷きにされてしまう可能性もありえる。


 チュールがそんなふうに疑問を呈したところ、返答があったのは意外にも背後からだった。

「おそらく、その心配はない――と思う」とフレイが悩まし気な表情で言った。「あの子も〈神々の宝物〉を持っている。最低限、周囲の危険からは己の身を守れる程度の力はあるし、砦の外壁くらいが落ちてきても避けられる。混乱した兵士の攻撃からも逃れられるだろう。ただあの子は戦ったことがないし、人を傷つけることもたぶん、できない。だから逃げるきっかけを作ってやらなければいけない」

「そりゃありがたい」とバルドルが手を打つ。

「だが……」

「だが、なんだ? ほかに作戦はないぞ。兵数比だって、こちらのほうが不利だし、あっちの頑強な砦に対してこっちは吹けば倒れそうなもんだ。ヴァン神族の首長の娘を救い出すなら、迷っている暇はないぞ」

「それはそうだが――」

「その作戦で、ロキはどうする」


 フレイの言葉を引き継いだのは、トールだった。彼は戦場に出る際にいつも身に着けている無骨な鎧をいつものように纏ってはいたが、兜は外していた。だから彼の怒りに満ちた表情を受け止めるのには苦労した。

「何を言っているんだ」とバルドルがあくまで軽い調子で言った。〈雷神トール〉の怒りを真正面から受けて、風を受けるように流せるのはこの男くらいのものだろう。「あれは裏切り者の巨人族だ。どうなろうが気にする必要はあるまい。わたしはいつも言っていたんだ。いつかあの女は裏切るだろうって。まったく、早く対処すれば良かったのに、オーディンの愛人だからって――」

「あいつはそんなやつじゃない。きっと巨人族に操られているだけだ」

 トールが断言した。彼の言葉には何の根拠もなく、力強さだけがある。しかしそれだけだ。

「ふざけるな」チュールは言ってやった。「おまえの想像なんか関係ない。あいつのことなんかどうでも良いことだ。今、助けるべきはイドゥンだろう」

「いや、あいつは操られているだけなんだ。助けなきゃいけないのはあいつも同じだ」と頑なにトールは主張する。

 イドゥンの兄であるフレイを見ると、彼は奥歯に物が挟まったような表情だった。彼はロキに対して差別をせずに接していた数少ないものの一人だ。心境は複雑なのかもしれないが、こいつらは事の重要さがわかっていない。

「ロキも助け出せる作戦を考えろ」

「そんなもんはない」チュールは隻腕でトールに掴みかかった。「運が良けりゃ、あれも生き残るだろうよ。大事なのは、攫われたイドゥンのほうだ。彼女に何かあれば、またアース神族とヴァン神族の全面戦争が起こる」

「そんなもん、知るか」とトールもチュールの襟元を掴む。「あの子が攫われたのはお前が悪い。おまえが阿呆だったせいだろう。ヴァン神族との戦争も知ったこっちゃない。誰が攻めてきても倒せる。誰が攻めてこようが知らん。傍にいれば、守れる。作戦を変えろ。イドゥンだけではなく、ロキも助け出せる作戦に」


「おい、ふたりとも………」

 バルドルがチュールとトールを取り成そうとしたときだった。作戦会議室の薄いドアが壊れそうなほどの勢いで開かれたのは。

 入ってきたのは一人の若いアース神族だった。恰好からすると、斥候だろう。彼は焦りを隠さずに告げた。

「スリュムヘイムから何者かが飛び出して来ました! 翼を持つ神物で――おそらく、ロキです」

「イドゥンは?」とフレイが尋ねる。

「少女を抱いているように見えました。おそらく、ヴァン神族の首長のご息女でしょう」


 報告を受け、全員が砦を飛び出す。悪天候そのままに雨が降り始めていて、視界が悪い。しかし灰色の翼を広げて空を飛ぶロキの姿は、確かに遠方の巨人族の砦の近くに確認できた。有翼の女と、それに抱かれている小柄な少女。そしてそれを砦から狙う巨人族たち――。

「まずいっ!」

 誰が言ったのかもわからぬうちに、その言葉は現実のものとなった。さすがにこの距離では弓から放たれる矢までは見えないが、空を飛ぶロキが明らかに体勢を崩し落下するように落ちていくのだけは確認できた。

「戦闘準備! 全軍戦闘準備だ!」

 バルドルの大声が響き渡り、駐屯兵たちが戦闘準備を始める中で、トールは《雷槌ミョルニル》を背負って巨人族の砦への投擲準備を始め、チュールとフレイは落下しつつあるロキとイドゥンのもとへと向かうための馬に飛び乗った。

「バルドル、戦場の指揮は任せた! イドゥンを助けに行く」

 言うなり、チュールは砦の厩に繋がれていた馬に拍車をかけた。戦闘前の昂揚に包まれていたのであろう、跳ね上がるように馬は駆けだした。

 アース神族がロキとイドゥンの脱出を受けて戦闘準備を始めたのと同様に、巨人族の砦のほうでも明らかな動きがあった。イドゥンを追うために打って出るつもりだ。フレイとチュールだけで先行しては危険かもしれない――いや、敵兵はトールがどうにかしてくれる。あの男は、悔しいが戦闘に関しては誰よりも信用できる。ならばチュールが為すべきことは、イドゥンを助け出すことだけだ。


 雷鳴が響き渡り、稲妻が光る。雨は強く、足元をぬかるませており、チュールは何度も馬の足を取られそうになった。視界が悪く、ロキが落ちた位置がどこなのかがわからない。

「チュール、灯台だ! イドゥンが無事なら、あそこに逃げ込んだはずだ」

 と雷鳴に掻き消されないように大声でフレイが叫んだ。彼が指出す方向に、確かに小さな灯台が見える。明かりは灯ってはいないが、確かに隠れるにはうってつけの場所だ。灯台が2つ――いや、なんだ、これは。


 いくら海際だからといって、灯台が2つも並ぶはずがない。当たり前だ。灯台はひとつあれば十分なのだ。なのに2つも――いや、2つではない。5、6……、10。10の巨大な建造物が密集していて、しかもそのうち9つは蠢いていた。泥だらけの、胴体と腕と足を持つ巨大な物体。

「泥の……巨人だと?」

 フレイが呆然と呟くのが聞こえた。彼の言う通り、それはまさしく泥の巨人としか表現しようがない生き物だった。それが、9体。灯台を取り囲んでいる。

 何が起きたのか信じられなかった。巨大過ぎる。巨人族がアース神族に比べて体格が大きいというレヴェルではない。なにしろ泥の身体の巨人は灯台と見紛うほどに大きいのだ。いつ現れたのか、豪雨のせいもあってチュールにはわからなかった。まるで地面から生えてきたかのごとく彼らは現れた。まるで……、まるで魔法だ。


 その魔法を、閃光と雷鳴が爆散させた。アース神族の砦から遠投された雷神トールの〈神々の宝物〉、《雷槌ミョルニル》の一撃が泥の巨人のうちの1体の頭を粉々に打ち砕いた。

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