3-4.

 数時間ぶりに船着き場に戻ると、海は大荒れだった。岸壁にぶつかった波から白い飛沫が飛び、まだ雨は降っていないのに、顔にまで水滴がかかる。

 そして、

「坂田さん!」

上下に大きく揺れながらもきちんと係留されているクルーザーの手前、コンクリートの地面に、坂田がうつ伏せに倒れていた。叫んだ花枝嬢が走り出すよりも早く、春日原が真っ先に駆け寄った。

「坂田さん、聞こえますか、坂田さん!」

肩を叩いて耳元で呼びかけ、首に指を当てて脈を診た。口元に手のひらを近づけ、続けて耳を寄せて呼吸を確認する。慣れた動作だった。

「大丈夫です、息はしてます。でも、頭に怪我をしてます」

遅れて側に寄ると、確かに、髪の下から額に向かって赤い筋が流れていた。頭の下のコンクリートには、血が染みている。

「強風で転んで、頭を打ったってこと?」

「……可能性はあります」

「ひとまず、雨が降る前に屋敷に運びましょう」

「頭を打ってる時はなるべく動かさないのが一番なんですが、この気候じゃそうも言っていられませんね。ちょっと待ってください。こういう船には、大体救命用の装備を載せているはずです」

言いながら、波打つクルーザーに器用に乗り移る春日原。船内でゴソゴソしていると思ったら、

「ありました」

すぐに救急箱と思しき箱と、丸められた派手な色の布を持って戻ってきた。

「お二人とも、すみませんがこちら側に立って、風よけになってもらえますか」

指示の通りに、風上になる坂田の頭上に立ち、花枝嬢と二人で風を遮る。

 春日原は手際良く坂田の頭の傷にガーゼを押し当て、包帯をきつめに巻いた。

「そっちは何?」

感心した様子でそれを見ていた花枝嬢が、傍らに丸められた派手な布を見やる。

「簡易的な担架です。歌ヶ江さん、手伝ってください」

「うん……」

派手な布を広げると、ちょうど人が一人寝られそうな大きさの長方形をしていた。長辺にベルトが付いている。

「この上に坂田さんを載せて、ベルトを肩に掛けて、二人で運びます」

と言って、広げた布が飛ばないように、近くにあった大きな石を拾ってきて、端に載せた。そっと仰向けにして、頭と足をそれぞれ抱え、ゆっくりと布の上に下ろす。言われた通りにベルトを肩に掛けると、

「……身長差がアレですね。仕方がないですが」

春日原は自虐的に笑った。こういう時でも、緊張感を霧散させる特技は健在らしい。

「じゃあ、運ぶのは任せた。私は先に戻って、坂田さんを寝かせられるスペースを確保しておくから」

「お願いします」

身軽に走っていく花枝嬢の後ろ姿を見送りながら、俺と春日原は、三度林道を急いだ。

「本当に、『嵐の孤島』じみてきましたね」

「春日原が、船で変なこと言うから……」

「僕のせいですか? ……そうかもしれません」

そこはいつものように、緩く笑って否定してほしかった。


*****


 窓にぽつぽつと大粒の水滴が音を立てて付き始めたと思ったら、即座に豪雨へと変わった。

「降ってくる前に見つけられて、良かった」

もしもあのまま、誰も探しに行っていなかったらと思うとぞっとする。

「やっぱり救急ヘリは、天候が落ち着いてからでないと来られないそうです」

山口が固定電話の子機を持って、全員が集まっているサロンに戻ってきた。

 春日原が改めて傷の手当てをした坂田は、三人掛けのソファに寝かせた。まだ目を覚まさない。今のところは規則正しい寝息を立てており、すぐに容態がどうなるという雰囲気ではないのが、不幸中の幸いだった。

「参ったな。こんな日に限って怪我人が出るなんて」

身なりを整え、ようやく俺も知っている芳川葉次の見た目になった花巻家次男が、肩をすくめてソファに身体を埋めた。

「こんな日だからでしょう。普段だったら、揺れる船の上でもまっすぐ立てる坂田さんが、何もないところで転んだりしない」

さすがは大企業の子息と息女だ。坂田の様子を案じながらも、優雅に午後のお茶を飲んでいる。多少の非常事態には動じないというか、肝が据わっているというか。

「春日原くんがいてくれて助かった。便利屋さんって、本当になんでもできるのね」

「いやあ、僕がたまたま、そういう現場に出くわすことが多いだけです。皆さん、得意不得意がありますよ」

非常事態が得意とはまた、希有な人材だ。

「僕のことは置いておいて……。坂田さん、本当に転んで怪我をしたんでしょうか」

始まった。春日原の、雑談のような素朴な問いかけ。ということは、船着き場で不審な点を見つけたのだろうか。

「何か気になることでも?」

花枝嬢は、何やら面白そうに口角を上げ、レギンスを履いた細い足を組み替えた。

「いえ、前のめりに転倒したなら、傷は額に付くと思うんです。でも、坂田さんの傷は後頭部にありました」

「じゃあ、風で何か飛んできたのかもしれない」

芳川が口を挟んだ。

「風で……。確かに、その可能性もありますね」

「傷を確認した春日原くん的に、見立てはある? もしその辺にあるものなら、また飛んで窓を割る前に対処しなくちゃ」

「医者ではないので詳しくはわかりませんが、硬くてそれなりに大きなもの、だと思います」

「例えば?」

「うーん……、石とか、木材とか」

「それなら、林の中にいくらでもありそうだ。全部拾って回るのは無理じゃないかなあ」

芳川はわしわしと後頭部を掻き、窓の外に黒くぼやける林を見た。多少人の手が入っているにしても、完全に人工の庭でない以上、倒木や太い枝、岩石の類いはたくさんあるはずだ。

「……なるほど、確かにそれは無理。まあ何が飛ぶにせよ、対処している途中で二次被害が出そうな天気になってきたし。もし飛んできたら、窓ガラスは諦めるしかなさそうね。各自、部屋のカーテンは早めに閉めて、窓に近づかないように自衛すること」

一応強化ガラスではあるけれど、と言いながら、花枝嬢は立ち上がった。

「お兄ちゃん、どうせ暇でしょう? 山口さんと一緒に、坂田さんのこと見ててくれる?」

「いいけど……。花枝は?」

妹を見上げ、芳川は首を傾げる。

「もちろん、本来の予定の続き。心配は心配だけれど、寝ている怪我人の側に、あまり大人数で詰めておくものでもないでしょう」

それから、俺のほうを見た。

「まだ、歌ヶ江くんに着てほしい服もあるし」

この期に及んで、写真撮影を続行する気なのか、この女傑。

「二人とも、いい?」

「構いませんよ。これ以上僕にできることはないですから、何かしていたほうが気晴らしになります。ね、歌ヶ江さん」

「……うん」

俺は今回雇われている立場な上、緊急時には春日原の一パーセントも役に立たないので、せめて依頼人に従うべきだ。またカメラを向けられるのは億劫だが、仕方がない。

「じゃあ、そういうことで。波佐間さんも、お仕事に戻ってください。お兄ちゃん、何かあったらすぐに知らせること!」

「はいはい……。人使いが荒いね、相変わらず」

花枝嬢の独裁は今に始まったことではないようで、芳川は両手を挙げて降参のポーズを取り、呆れ顔で首を振った。

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