四月四日、-三時間目・美術-

 「-と、言う訳で!前任の山田先生に代わって美術を受け持つ事になった氷室嵐ひむろあらし先生だ!生徒諸君、仲良くするよーにっ!」

 体育館に整列した全校生徒を前にして、青嵐高校の女校長・星野鷹は爽やかに言った。


 「ぅえ゛ぇ~~~~!?」

 絶叫したのは生徒ではなく、教職員の列に並ぶ保健医・嵐後凪あらしごなぎだった。振り返った生徒に不思議そうに見つめられながら、凪は口をパクパクさせて壇上を見ている。

 その凪に一つウインクすると、サラリと漆色の長髪をなびかせて嵐は一歩前に出た。


 「ご紹介に与かりました、氷室嵐ひむろあらしです。僕は…-」

 ここで凪をチラリと見る。顔面蒼白で今にも倒れそうだ。

 「…そこにいる保健医の嵐後凪あらしごなぎ先生より一つ年上ではありますが、教師としてはまだまだ新米で未熟者です。教職の方々、生徒の皆さん共々、不馴れな故何かとご迷惑もおかけするかもしれませんが、どうぞ、これからよろしくお願いします」


 そう爽やかに挨拶した嵐が深々と頭を下げるのと、保健医・嵐後凪が後ろに真直ぐ倒れるのとは同時だった。


 所変わって美術室。

 席に着く一年D組の面々の話題は、今朝の朝礼の話で持ち切りだ。

 「かぁっこよかったよねぇ、氷室先生」

 「彼女いるのかな?」

 「何か保健の先生と怪しげじゃない?」

 「あ、言えてるぅ」

 「それにしても、今朝の嵐後先生どうしたんだろうね?」


 噂好きな女子達の会話を流し聞き、かけるは彼女達が授業の後に凪に泣かされない様に祈った。


 昨日、保健室でのあのやり取りを見た翔と結城ゆうきは氷室嵐の本質を知ってしまっているので、どうにも嵐がかっこいいと素直に思えなくなっていた。


 「でも今朝の挨拶でみんな騙されちゃってるし、俺達が何を言っても相手にされないよな。結城」


 移動教室に向かっている途中、翔が結城にこそっと耳打ちすると、

 「知らん」

 バッサリとした結城の一言。どうやらクラス長様は、クラスメイトがあの性格に騙されようが何しようが知った事じゃ無いらしい。


 「おいおい~、森谷もりや君よ。いくらおモテになるからって、そんなツンケンした発言してたら友達一人もできませんぜ?」

 ポンポンと彼の肩を叩いて翔が言うと、容赦無く腕を捻りあげられたので、もうその点については何も言うまいと胸に誓った翔であった。


 その時、何の前触れも無く、入口の引き戸がガラリと開いた。


 そこに立っていたのは、朝も見たあの顔。

 「やあやあ、一年D組の諸君、ご機嫌よう!改めまして、美術の授業を担当する氷室嵐だ、よろしくねっ!」


 教卓の隣りで立ち止まり、生徒全員に向けてあのウインクをしながら言った氷室嵐に、D組全員の視線が集中した。全員の呆然とするその表情の訳を、翔が立ち上がって代弁する。

 「朝とキャラ違うじゃん!」

 「こらこら、日向ひゅうが君。発言は元より、勝手に席を立たない」

 あまりにも普通にたしなめられる。


 「しかし…そうだな、その質問には答えようじゃないか」

 その場でゆっくりと華麗に背中を向け、黒板へと向く嵐。白いチョークを手に取り、片手で弄び始める。黒板に自分の名前でも書くのだな、と思った生徒達の期待は裏切られ、彼はまた生徒に向き直り、オーバーアクションで話し始めた。


 「今の俺も今朝の俺も、どちらも俺以外の何者でも無いんだよ?」

 「チョーク持っといて、書かないのかよ!」これも翔のツッコミ。


 すると嵐は空いている方の手の人差し指を「チッチッチ…」と左右に動かし、否定の意を見せた。

 「チョーク+黒板=書くと、決まっている訳では無いだろう?」


 「…一理あるわね……」

 腕を組んだ里良りらに、隣りの十川とがわが突っ込む。「いや、普通書くだろ!」


 「ふむ…そこのお嬢さんは分かっている様だね。名前を聞いておこうかな?」

 面白い物を見る目で、嵐は腕を組んだ。里良もまた、腕を組んだまま挑戦的に答える。

 「納豆が好物よ」


 「ああ、そうだね!名前を聞かれて答えなければならないという義務も無い!君とは気が合いそうだよ全く!」

 何だ。このハイテンションな、間違ったアメリカコメディーの様な授業風景は…。


 チラリ、と翔が目を泳がせるとさっき嵐の事をかっこいいと言っていた女子が遠い目をしていた。彼女の幻想が壊れる音が聞こえる…。


 生徒のドン引き具合を知ってか知らずか、嵐は語り続ける。

 「大衆の決めた法則に何の意味があろうか…。もちろんそれは生きるために必要なのかもしれない、しかし!俺は俺のやりたい事をやるし、言いたい事を言う!それがすなわち、生きる事なのさ!」

 自己陶酔が入って来た。何かもう誰にも止められない。というか触れたくない。


 例外はこのクラスに一人だけ。もちろんミーハー風菜ふうなである。メモ帳に何かひたすら書いていると思い翔が覗き込めば、嵐の外見的特徴、言葉から窺える性格などが記されていた。


 「長話がすぎた様だね…。では、美術の授業を始めようか」

 嵐がそう言ったので、もはや席に座ってふて腐れた翔が呟いたが、美術教師には聞こえていない様だった。「俺の質問は結局無視かよ…」


 「まずは教科書だが…俺の授業に指導要領なんてナンセンスなもの、必要無いさっ」 

 嵐はそう言いながら、手首のスナップを効かせた遠心力で教科書を脇に放り投げた。どんな力を使ったのか、それは美術資料などが収まっている棚に見事スライディングしていった。



 その後は意外にも授業は普通に進んでいった。

 まず美術という科目の説明、これから学年末まで、どのような内容をどのようなペースで進めていくかなど。あまりにも普通に時間が経過しすぎて、親鸞しんらん芭蕉ばしょうの授業の方が変に思えるくらいだ。

 とりあえず今日は、スケッチブックが配られて、クロッキーをしてみる事になった。


 人物を素早くスケッチするクロッキーは中学の時もやっていたが、頻度はそんなに多くなく、クラスみんなが苦手としていたのを翔は思い出した。

 しかしこの授業では、毎時間必ず一回はする事にしたらしい。そんな意外な計画性も、翔が嵐を見直した要因だった。

 次の瞬間が来るまでは。

「さぁ、君達!思う存分…描きたまえ!」


 担当教諭が突然教卓の上に上がってそう言いながらポーズをとるのだから、翔は反射的に声を上げずにはいられなかった。

 「しかも半裸かよ!?」


 灰色のジャケットを脱ぎ捨てた嵐の上半身は、色白の薄い胸板があるだけだった。筋肉美を見せつけている、という訳ではないらしい。どちらかというとその肉体は華奢な部類だ。


 「さぁ、君達のその純白のスケッチブックの最初を飾るのは美しきこの俺だよ!ぁあ…みんなの視線が、俺を見てる…!か、感じちゃう…!」


 翔は印象を見直したのを見直した。やはり変人だ。それよか奇人だ、変態だ。

 と、そんな愕然とした所に風菜の手が上がる。真直ぐに天井に伸びた手を下ろす事なく、風菜が嵐に言った。

 「先生、もっとよく見て描きたいので前の方に行っていいですか!?」

 そんな事だろうと思ったが。



 嵐は「あぁ、いいとも!大歓迎さ!」と風菜をその場で手招いた。風菜は疾風の勢いで教卓の隣りに立ち、嵐の肉体を舐め回す様に見る。ギンギンとしているその目がもうヤバい。


 というわけでD組の生徒は嵐の半裸を見ながら黙々と手を動かしている訳だが、

 「君達、光栄に思いたまえ。俺が授業を受け持ったのはこのクラスが初めて。…という事は君達は、教師となった俺のこの美しくなまめかしい裸体をスケッチブックに初めて残した生徒という事だ」


 「光栄ですっ、先生!」

 鼻血を出さんばかりの興奮ぶりで、三枚目を書き終えた風菜が四枚目に筆を走らせながら言った。


 カリカリと鉛筆の走る音が鳴り響く中、嵐は優雅な動きでポーズを変える。翔が思わず注意した。

 「あ、先生動かないで下さいよ」

 「君は確か…日向君、だったね?目に見える物ばかりが真実だと…思わない事だ…」

 -うん、反省する気が無い事は理解した。


 それからも嵐は、喋りながら次々ポーズを変えた。クロッキーの時間が終了する気配は無い。おかげで生徒達は、描きたくもない嵐の半裸体を一人十枚近く描くはめになった。

 風菜のスケッチブックはといえば、今筆を走らせているページが最後だ。


 「…よくあそこまで夢中になれるよなぁ」

 翔が頬杖をつきながら呟いた。もちろん一心不乱に嵐を描き続ける風菜を見ての感想だ。

 その呟きを聞き付けた十川が、後ろの席に肘をかけて振り向いた。


 「どうしたよ、翔?」

 「んぁー?」

 唇をつんと尖らせ、その上に鉛筆を乗せて遊ばせる翔。どうやら飽きたらしい。十川とがわは呆れ顔だ。


 「お前…気持ちは分からんでも無いが、初回の授業からよくそんな態度とれるよな…」

 「十川が真面目すぎんだよー」

 その会話を聞き付けた里良りらも「そうよねぇ!」と言いながら、片肘と言わず両肘を翔の机にかけて振り向いた。


 「涼は真面目すぎんのよ!-ま、森谷もりやよりはくだけてるにしても」

 三人は、チラ、と離れた席に一人座る結城ゆうきを見る。

 授業をサボる事や授業中に遊ぶ事など全く無いクラス長は、自分の机の下でルービックキューブを弄んでいた。

 「…森谷を授業中に遊ばせるなんて…あの先生相当だな…」縦の色を一列揃えた結城を見ながら十川が言った。


 里良は微かに頷き、教卓の上の嵐を熱心に描き続けている風菜を顎で示した。

 「…ま、森谷の気持ちもわかるけどね。ここまで風菜の気持ちが分からなかった事無いわよ」

 中学時代、仲の良かった五人組の間でも、取り分け風菜と里良は仲が良かった。女の子でありながら、互いに悪友と認め合うほど、漢らしい仲だったのだ。

「…変わった子だとは思ってたけど。ねぇ、光?」


 翔の隣りの、本来は風菜が座っているはずの席に肘を移し、里良は光に同意を求めた。光は鉛筆で描く手を止めずにそれに応えた。

 「あー?せやなぁー」

 ベタベタな生返事である。光はスケッチブックを立てて、椅子の上で立て膝にした自分の腿の上に置いて、夢中で描いていた。

 その返事に気を悪くした里良が、「何よぉ、ちゃんと返事くらいしなさいよ!」と彼女のスケッチブックをグイとひったくった。

 見るとそれは嵐では無い。妙にキラキラした目のデカい連中達が何人も描かれていた。



 『みなさん、新しい美術の先生を紹介します』


 『どうも、碑斑嵐ひむらあらしです』


 『キャー!嵐先生素敵ー!』


 『ああ、素敵やなぁ…嵐先生。でも、アカン。ウチみたいな何の取り柄もない目立たない関西人…先生に近付けるはずあらへん』


 【フワッ・・】


 『おや、君。何か落としましたよ』


 『え…!あ、ハンカチ…って、え!?』


 【ドキ…ン】


 『あ…嵐先生…!?』



 「…なにこれ。」

 里良は砂でも吐かんばかりの顔でそれを見つめている。

 「なっ、何や!勝手に見んな!」

 わたわたとスケッチブックを取り返そうとする光に、スケッチブックに描かれた少女漫画を読みながら、翔が冷静に批評を始めた。


 「コマの割り方がワンパターンすぎるな。もうちょっと見せたいコマとそうでないコマにメリハリをつけて…あと表情の描き分けもできてないな」

 「どこのマンガスクールの先生だぁ!」


 顔を赤くしながら絶叫して光は、翔の後頭部を鷲掴みにしてそのまま机に叩き付けた。肘を翔の机にもたれかけていた十川は、危機一髪でそれを回避した。

 「あっぶね!…樹山の怪力は健在だな」


 青ざめた十川と目が合うと、光はフンと鼻を鳴らして呆然としている里良からスケッチブックを取り上げて閉じた。机の中にしまうと恥ずかしい様な拗ねた表情でそっぽを向いてしまう。


 ピクリとも動かない翔に顔を寄せ、十川が心配そうに訊く。

 「生きてるか、日向ー?…保健室行くかぁー?」

 その言葉を聞いた途端翔はガバッと起き上がった。「冗談!」


 そして十川の両肩をガシッと掴み、いつぞやの親鸞そっくりの表情を見せた。

 「十川…この学校で最早心休まる安全な場所など無い!今保健室に行って見ろ…?今度は頭割られる事になるぞ!」


 今の光の攻撃もそうなったかと思うくらい凄かったのだが、翔の状態を見る所によれば瘤が一つ出来てる程度だ。額に切り傷の一つは残らんばかりの一撃だったというのに、無駄に丈夫な奴である。

 と、その時。

 「保健室へ行くのかい?」


 降って来た声に翔と十川の二人が顔を上げると、そこには未だ上半身裸の嵐の顔があった。

 翔がパッと十川の肩から手を放し、その両手を顔の高さに上げて猛スピードで顔を何度も横に振り、否定の意を示した。

 「いっ…行きません行きません行きません行きバッ!」

 噛んだ。周囲でクスクス笑いが起きる。十川も里良も瞬間にパッと顔を逸し、肩を震わせて笑った。声にならない程ツボに入った様だ。


 舌の痛みに思わず両手で口を塞ぎ、俯いた翔が涙目になって顔を上げた時、少し離れた席の結城が顔をすがめて呆れた表情をしているのが見えた。

 「おやおや、大丈夫かい?」


 そう訊く嵐はにこやかだ。にこやかどころか、目が「君の様なイジり甲斐のある奴は大好物だ」と言っている。

 翔が口を押さえながら何とか頷いて見せる。口の中は微かに鉄臭い味がした。


 翔としては、舌を噛み千切ったとしてもあの暴力保健医のいる保健室へは行きたくない。

 うちのクラスの情報センター(イケメン限定)の風菜によると、体育の橘芭蕉たちばなばしょう先生は昨日の放課後、高熱を出して倒れたらしい。何時間冷水のシャワーを浴びせたらそうなるのか知らない が、とにかくその噂で翔に残ったあの保健医の印象が悪い事は確かだ。


 そして余談ではあるが、今朝橘芭蕉はピンピンして早朝のグラウンドを走っていた。風菜の話によれば一回寝て起きたら治ったのだそうだ。保健医もアレだが体育教師も変だ。

 とにかく翔が保健室の敷居を跨ぎたくないのは、そういう理由な訳だった。


 「本当に大丈夫かい?」

 顔を覗き込んで利いて来る嵐の瞳は、悪戯っぽく笑っている。

 「唾でも付けて治してもらったらどうかな…?保健の先生に」

 噛んだ舌に唾を付けて貰うということは…思わず想像してしまったが、悪い冗談にしても程がある。おもいっきりセクハラだ。


 まだヘロヘロした口先で「願い下げれす!」と答えた翔の目に入って来たのは、前の席で顔を赤らめてる十川。どうやら自分が言われてる訳では無いのに、嵐のセクハラ発言の意味に赤面している様だ…。

 -高校生にもなってウブな男め。

 里良が、少女の様にほんのり赤く染まった十川の顔に爆笑する。


 その時、授業の終わりを告げる鐘(というかメロディー)が鳴った。

 嵐が「おっと!」と肩を竦める。

 「いやぁ、もう鐘が鳴っちゃったね!諸君、残念だが君達との今日の授業はこれで…終わりだ」

 そう言うとクラス全員に向けて、茶目っ気たっぷりのウインクをして見せた。


 翔がボソリと呟く。「やっと終わった…」

 そしてその他のクラスメイトと一緒に教室へ戻るための片付けを始めると、 左腕をいきなり嵐に取られる。

 「-じゃ、保健室へ行こうか!」

 「はいぃ!?」

 当惑した様子の翔に、嵐は例の笑顔で笑いかける。


 「自分の授業中に負傷した生徒を放っておく先生が、どこにいるっていうんだい?」

 「や、いや…負傷っていうか傷のうちにも入らないし!てかこんな下らない事で保健室行ったら最悪、舌引っこ抜かれるよ!」

 「遠慮をしない事だ。…痛むんだろう?大丈夫、俺がついてるからね」

 嵐はそのセリフを言う時だけ、うさん臭い心配を装った演技をした。


 「いやだぁぁぁぁ」と抵抗する翔をズルズルと引きずって、嵐は高笑いをしながら保健室へと向かった。…半裸で。




 休み時間、十川達の前に、下らない怪我で、尚且つ半裸の氷室嵐を保健室に連れて行った罪状で嵐後凪にボコボコに殴られた翔が戻って行ったのは、言うまでも無い……。

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