第2章(2)
お腹が空いていたからかもしれないけど、北上さんの料理は美味しかった。ケチャップライスも程よい味の濃さで、それを包む黄金色の卵も、どれだけ練習したんですかと聞いてみたくなるほどの見栄えと味だった。実際、聞いてみたら「高校のときは料理部に入っていてね、それで料理には自信あるんだ」と答えてくれた。
あっという間に彼女の作ってくれたオムライスを平らげた僕は、ふと時計を見やる。
「ごめん、長居しちゃったね……そろそろ帰るよ。今度、お礼するから」
ただのゼミの同級生にここまでしてくれたんだ。まあ、その前に色々忘れたいことはあったけど。何かしらのお礼はしてあげるべきだろう。
「あ、なら」
僕の提案に対し、北上さんは丸い瞳をキラキラと輝かせながら言う。……あ、やばい。言質取られたかも。
「……今度から、名前で呼び合おう?」
一秒、二秒、三秒。沈黙が僕と彼女の間に走る。たった六行前に忘れたいことと書いた事実を一瞬で掘り下げてきた。
「え、ええ?」
まあ、当然僕はそんな反応になるわけで。お互い座りながら目線が合う。
「なんか、酔ったときもそんなこと言ったみたいだけど、でも、実際名前で呼び合ってもいいかなーなんて、思うんだよね。だってお泊りしたんだよ? 私達」
「それはそうだけど」
北上さんは自分のズボンの裾を手でつかみながら、僕に何か訴えている。
「……峻哉君は嫌?」
「っ」
そこで名前を呼ぶのは反則だと思うんですよね。
このあからさまに瞳をウルウルさせているけど、あなたそんな簡単に泣くキャラじゃないでしょう? 僕をからかうためだよね? わかっているんだから。
だから……だから……。
名前では呼ばない、と、思っていたのに。
僕の口は、自然とその名前を呼んでいた。
「……栞」
蚊の鳴くような、そんな大きさだった。でも、それだけで十分だったみたいで。
からかう気満々だった彼女の表情はみるみるうちに赤く染まっていき、あわあわと手で顔を隠し始めた。
「え、ちょ、なんでこういうときに限って素直に名前で呼んでくれるの? 予想外で嬉しいんだけど恥ずかしいよ」
まるでさくらんぼのように頬を染めた彼女は、上目遣いで僕に言う。
「も、もう一度呼んでみて?」
僕がこの要求に応じたのは。
やっぱり、彼女と過ごした時間が楽しかった、そこに尽きるのだろう。それに、女の子である、ということを嫌と言うほど意識させられて、何も僕の中で変わらないわけがなかった。
これが恋と呼ぶものなのかはわからないけど、名前で呼んでもいいかな、と思えるくらいの何かであることには間違いない。
「……栞」
今度は、はっきりと、聞こえるように呟いた。
とりあえず、友達か何かにはなれたと思う。
北上さんの家から帰ると、自宅で待っていた母親が早速質問攻めしてくる。
「ねえ、昨日電話に出た子って彼女なの? 峻哉の彼女なの?」
いつも働きっぱなしなのにどこにそんな元気が残っているんだと言わんばかりに楽しそうに聞いて来る。狭いワンルームの家に普通の親子以上の距離に縮めてくる。
「別に……ただのゼミの同級生で」
「ただの同級生があなたみたいな冴えない男を泊めたりしないでしょ」
この間の小学生と言い、今の母親といい、もうちょい僕に優しくできないのかな……。
「いい? 避妊はきっちりするのよ? 私みたいにできちゃった婚なんてすると後が大変なんだから」
はい。それは僕も十分体験しております。だからあの父親と結婚したんですよね。だから今こんな生活しているんですよね。でも。
「だから、あの子はただの」
「だとしても、あなたにとって、多分初めて真面目に関わってくれた女の子でしょ? 大切にしてあげなさい」
さっきまでのおちゃらけた声色とは一転。限りなく真面目なふうに、母親はそう言った。
「……それに、ただでさえあなた奥手でその手の話を聞かないんだから、いいじゃないの」
いやさ、ここまで何なら普通にいい話っぽかったのに、何でこうなる? 何がいいじゃないの、だよ……。
とまあ、僕の母親はこの環境にしては、いや、一般的に見ても明るい部類に入る人だと思う。一体僕はこの母親のどこに似たのだろうか。
「あ、部屋連れ込むときは事前に連絡してくれればどうにかするからっ」
親指をグッと立てて自信ありげに言う。
「連れ込まないしそういう関係でもないから」
こうしてたまに母親とゆっくり話す機会はあるものだけれど、ここまでテンション高く絡まれたのは初めてだな……。
そんな話をしているうちに母親のスマホが鳴り響く。電話に出たことで親子の会話は一旦途切れた。
……母親のせいで、少し意識させられる。
翌日の月曜日。若干の意識を持ちつつ、僕は演習の授業を受けていた。
いつもよりか、教授の言葉が耳をすり抜けていく。
時間の流れも少し早く感じる。
授業も終盤に差し掛かったところで、ふと教授がこんなことを言い出した。
「あ、そうそう。いつか言っていた春休みの課題のレポート、二人一組でやってみてー」
それは、秋学期が始まるときにあらかじめ予告していた春休みの課題についての説明だった。このゼミの授業、勿論春休み中に成績は確定する。けど、来年もここのゼミ生全員はこの教授の演習を取ることがきまっているから、春休み中にも課題が出る。みたいだ。
「ペアは自由に決めていいから、秋学期始めに言った分の量のレポートを共同で書いて来年の春、初回の授業に提出してくださーい」
授業終わりでにわかにざわついていた教室が、花から滴が地面に零れるくらいの間、沈黙にさらされる。
その間も一瞬で終わり、あちらこちらから「じゃあ、一緒にやろうぜ」といった会話が始まる。僕はその流れに取り残され、当たり前のように余り者になるかと思った。
「ねえ、じゃあ一緒にやらない? 峻哉君」
授業中、僕の隣に座っていた北上さんが微笑みながらそう話しかけてくる。なんか、そこだけ背景に蝶や花が咲いているようにも見えた。つまるところ、それだけ明るい雰囲気だということ。
余り者にならなかった安堵感と、彼女に絡まれることに対するよくわからない感情がぐるぐると僕の中で渦巻く。
「……いいよ」
「うん、決まりね」
僕が少し間をおいて同意すると、彼女はニコリとまた柔らかい笑みを浮かべつつ首を縦に振った。
「じゃあ、帰ろう? 峻哉君」
「そだね」
そして、また僕と北上さんは一緒に教室を出て地下鉄の駅に向かった。
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