佐々木珈琲店

鈴木 千明

CASE EXTRA 〜河原田さん〜

 1人の女性が、佐々木ささき珈琲店の前で立ち止まった。木目調のドアと小さめの窓、白い壁の前には、色とりどりの花が植木鉢で夕日を浴びている。花々に囲まれたブラックボードには、『開店から3周年!感謝を込めて大大大サービス中!』と書かれていた。空いたスペースにはイラストも描かれている。女性は少し身を屈めて中を覗いた。店の前には3段ほどの階段があり、道路に対して店は少し高い位置にある。そのため小柄な女性は、屈めばこっそり覗いてもバレないだろうと思ったのだった。

「あっ…」

しかし女性は、中にいた店員と思しき男性と目が合ってしまう。チリンリンと扉が開く。この男性が、ブラックボードにデフォルメされて描かれた絵の元になった人なのだろうと、女性は思った。とても似ているからだ。コーヒーや伸びた枝葉のイラストからも、これを描いた人は絵が上手いことが窺える。

「こんにちは。良ければ、どうですか?」

薄茶の髪が、端正な顔立ちの上で揺れる。耳に開いたピアス穴が軟派な性格を思わせたが、爽やかな口調とよく似合ったエプロン姿が、女性が彼に抱いた所感を崩す。

「は、はい…」

「どうぞ。」

女性は店員に促されて、中に入った。カウンター席が6つに、4人がけのテーブルが3つと、店内はこじんまりとしている。お客はカウンターに1人、テーブルに1人。

「カウンターでもよろしいですか?」

店員の笑顔に、女性はコクリと頷く。誰かと一緒なわけではなく、何か作業をするわけでもない。午後5時というお客が少ない時間帯とはいえ、4人席を占領してしまうのは良くないだろう。そう思ったのだ。テーブル席に座っている女性が、猛烈な勢いでキーボードを叩いている。

久保田くぼたさんは〆切に追われているだけなので、お気になさらず。」

女性の視線に、店員はそう答えた。久保田さんは自分の名前には反応せず、“ シメキリ… ” と呟いて白目を剥いた。しかしそれは一瞬のことで、すぐに凄まじいスピードで指を動かし始める。

「新入りさんかい?」

既にカウンター席に座っていた男性が、女性を手招く。女性には断る理由もなく、隣に座る。

五十嵐いがらしさん、ウチでナンパしないでください。」

「ナンパじゃない。ただ、可憐な女性の傷ついた心を癒すのが、できる男の役目というだけさ。マスター、コーヒーブラックで。」

「はい、カプチーノホイップミルク増しましお替りね。」

「…ブラックで。」

「飲めないでしょ?」

「ゔ…格好つけさせろよ…」

「ブラック飲めないから格好悪いなんてことないですよ。」

「…お替り。」

五十嵐さんは諦めたようにカウンターに伏せ、空のカップを軽く上げる。

「カプチーノホイップミルク増しましね。」

「2回も言うな!」

顔を上げて抗議する五十嵐さんを、カップを受け取ってあしらい、店員──マスターが女性に聞く。

「何になさいますか?」

「えーっと…」

女性の手元にある小さなメニュー表には、10種類の飲み物と、1番下に『マスターにお任せ』と書いてある。

「じゃあ『お任せ』で。」

女性の言葉に、マスターが笑顔になる。

「かしこまりました。」

嬉々として作業を始めるマスターと、額に人差し指を当てて、やれやれと首を振る五十嵐さん。

「開いてしまったか、パンドラの箱を…」

「え?」

「いや…どれも味は良いんだ。味はな。うん、味は良い。」

女性が首をかしげると、“ できればわかる。” と五十嵐さんは言った。

「ところで、お名前は?」

「五十嵐さん、それ僕の台詞。」

「マスターが忙しそうだから、代わりに聞いてるだけだろ?」

マスターは機械を操作している。シュワーという音とコーヒーの香りが、女性の元に届く。

「…河原田かわらだです。」

「河原田さんか。それで、何が君に涙を零させたのかな?」

女性──河原田さんは、目元に軽く触れた。その目は少し赤く腫れていた。

「五十嵐さん、それもうセクハラだよ。」

「そんなことはない。」

「…………」

「河原田さん、無理に話さなくても良いですよ。」

マスターは手を動かしながら、河原田さんに爽やかな笑顔をチラリと見せる。

「でも、話せばスッキリするかもしれません。このカフェは、お客様の悲しい気持ちや苦しい心を、少しでも軽くできたら良いと思って、開いたのですから。」

マスターが “ どうぞ。” と、五十嵐さんの前にカプチーノを置く。続いて、河原田さんの前にもカップが置かれる。

「こちら、『マシュマロとオレンジの曲がり角ロマンス 〜カフェオレのミルクも恋の予感に泡泡ホイップ〜』です。」

眩い笑顔のマスター、固まる河原田さん、吹き出す五十嵐さん、“ ホイップ… ” と呟いたかと思うとまたキーボードを鳴らす久保田さん。

「こちら、『マシュマロとオレ」

「聞こえてるよ。相変わらず、絶望的なネーミングセンスだな…」

河原田さんの前に置かれた『マシュオレ』は、その名の通りマシュマロとオレンジの皮がホイップミルクに乗っている。河原田さんは軽く頭を下げて受け取り、少し息で冷ましてから、口に含む。

コーヒーの香りとミルクのまろやかさ、マシュマロの甘さとオレンジの酸っぱさが、絶妙にマッチしている。ミルクの下のコーヒーにもオレンジが隠れていたようで、見た目よりもさっぱりとした味わいだ。

ホッ、と河原田さんは心を落ち着ける。

「あの…お話、聞いていただけますか?」

「えぇ、もちろん。」

マスターはそう言うと、カップを磨き始めた。五十嵐さんも、カプチーノに口をつける。

「実は…彼氏にフラれちゃって…」

「失恋、ですか。」

マスターがどこか遠くを見るような目で呟く。頷いた河原田さんは、また少し泣きそうになるのを堪える。

「けっこう長く付き合ってて、来月で3年。…結婚も、考えてたんです。このカフェが気になったのも、〝3周年〟って書いてあったから。」

マスターはカップを磨く手を止め、すぐ後ろにある冷蔵庫に向かった。

「それを伝えたら、“ そこまでじゃない。” って言われちゃって…はは、私だけなんか、舞い上がってたみたいで。」

チリンリンと扉が開き、1人の女性が店に入る。

「こんにちはー。」

「こんにちは、長谷川はせがわさん。」

「マスター、キャラメルお願いします。」

五十嵐さんも、女性──長谷川さんに手を上げて挨拶をする。長谷川さんは河原田さんを見て少し迷い、彼女の隣に座った。常連と思しき2人に挟まれて、河原田さんは少し困惑したような表情を見せる。

「相談中?」

「そ、失恋しちゃったんだと。」

長谷川さんの問いに、五十嵐さんが答える。

「五十嵐さん、言い方。」

マスターが包丁を持ちながら五十嵐さんを注意する。

「包丁を見せるな!」

「ごめんね、デリカシー無くて。」

長谷川さんが河原田さんに謝る。

「失恋か…私もね、初めてここに来たのは、失恋した時だったの。」

「そうなんですか?」

「うん。ここがオープンしたばかりの頃、泣きながら歩いていたら、マスターに声をかけられてね。常連第1号。」

「ちなみに俺が2号な。」

“ サンゴウ… ” と久保田さんが声を漏らし、また画面にへばりつく。

「本気で好きだったのに、あっさりフラれちゃって…もうこの世の終わりかと思った。けど、マスターのコーヒーを飲んで、甘いものを食べて、話を聞いてもらって、言葉をかけてもらって。そしたら、心が軽くなったの。このカフェは、そういう場所よ。」

長谷川さんは河原田さんに笑いかけた。マスターも笑って、河原田さんに皿を差し出す。

イチゴとホイップクリームが乗り、チョコソースもかかったデニッシュだ。イチゴは器用にカットされ、花のような形に盛り付けられている。

「え…?」

「3周年のサービスです。」

マスターの笑顔に、河原田さんは目元を拭った。

「俺には無いのか?」

「五十嵐さんにはいつもサービスしてるじゃないですか。」

「ちなみに、これの名前は?」

長谷川さんが河原田さんの背をさすりながら、マスターに聞く。五十嵐さんが “ やっぱり聞くのかよ。” と呆れたように呟いた。

「『別れの3月☆出会った3周年 〜イチゴ一会はチョコとコーヒーのシチュエーション〜』です。」

「ふふっ…」

河原田さんの漏らした笑い声に、マスターが笑みを返した。

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佐々木珈琲店 鈴木 千明 @Chiaki_Suzuki

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