第9話

 ここ、どこだろう。

 ベッドの上のような気も、何か不安定な吊り橋の上にでも寝転がっているような気もする。周囲には何の景色もなく、ただ白だけが目に飛び込んできた。それは壁や床や天井が白いのか、それとも射し込む日光に目が眩んで何の輪郭も捉えることができないのか、よくわからない。

 しかし確かに分かるのは、行幸の隣には乱れた万葉が転がっている。その瞳はもうやめてと懇願するようにも、行幸をなおも求めているようにも見える。我慢できなくなった行幸は彼女にくちづけ、その舌に自分の舌を絡ませた。何も見えず、何も聞こえなくても、彼女の唇の端から漏れる吐息や声は、はっきりと聞き取れた。頭にこびりついて離れないほどに。

 だがある瞬間に思考が本能を追い越した。

 これは今この瞬間に万葉が行幸に見せている姿だということと同時に、万葉がいつも井岡に見せている姿なのか、と思うと、悲しくなるような、腹が立つような感情がわき上がってきて、喉につかえるかのようだった。

 そんな苦痛に咳き込みかけたその時、目が覚めた。

 周囲は真っ白じゃない、枕元にいつものポムポムプリンがいるし、隣に万葉はいない。

 久しぶりに、こんなはっきりした夢を見た。

 ――なんで、こんな夢見たんだろう。

 ベッドの上に体を起こすと、手で額の辺りをおさえた。自己嫌悪に、頭がかち割れそうだった。


 夢は深層心理というが、あくまで夢の中の自分と起きている時の自分は別人格だろう。

 そう思えば、あんな夢を見てしまった後でも万葉といつもと変わらず接せられた。逆にそう信じなければ、後ろめたさで心が引き裂かれそうだった。

 だから、この罪悪感に苛まれているタイミングで、自分があんな行動に出てしまうなんて、これっぽっちも予想しなかった。

 サー室には行幸と万葉の二人きりだった。日当たりの悪い場所にあるこの部屋だが、西日が強くて、今は機材も、部員たちが置きっ放しにしている様々な私物も、夕焼けの色に染め出されている。万葉は大方、井岡と待ち合わせでもしているのだろう。

 ――行くの。

 周囲からは万葉に対して、井岡と別れればいいじゃないかという声も聞かれる。でも不思議なことに、当人から別れたいという言葉を聞いたことは一度たりともなかった。もう何度も、泣きながら「みゆきぃ~」といって相談してきたのに、だ。何なら今だって、昨日もまたケンカしちゃったんだよね~、という話を聞かされたばかりだ。それなのに、

 ――どうしても、行くの。

「ねえ万葉っ、なんで、なんでそんなに、あの人じゃなきゃダメなの」

……こんなの、愚問だ。私だってかつては、あの人のこと、好きだったじゃないか。あの人じゃなきゃダメだったじゃないか。

 それでも私は、やっぱりもうあなたの泣いているところなんて見たくないんだよ。何の力にもなれない、見ていることしかできないなんて、耐えられないんだよ。

 痩せて背の高いこのひとの顔には夕陽があたり、翳りがさす。

「わたしっ、……私じゃダメなの」

「な、に、いってる、の……」

万葉は目をまん丸く見開き、口の中だけでそう呟くと、永遠とも思われるほどゆっくり2、3歩後ずさった。「警戒」の二文字が、おもりとなってその両の足の上にのしかかっているかのように。

 しかし次の瞬間には、万葉はいつもの調子に戻っていた。

「はは、はいはい。……ありがとね、心配してくれて」

そう言って彼女は手をひらっと振ると、出て行ってしまった。

 ――ああ、私は何をしているのだろう。

 外から、にわか雨の降り出す音が聞こえた。


 屋根のある自分の部屋にいるはずなのに、雨に打たれでもしているかのように、行幸は首をぐったりと項垂れていた。床に腰を下ろしたあおいは、椅子に座ったその人を見上げた。俯くと、少し伸びてきた前髪に隠れてその表情を読み取ることはできない。それに、こんなに天気が悪いというのに、この人はまた部屋の照明を点けるのを忘れている。

 というか今は、この人の頭の中からは、光という概念そのものが抜け落ちているのではないかとすら思われた。

 時折雷が鳴って、その間だけの眩い光に、行幸のシルエットが抜き出される。あおいは影絵を見ている気分になった。

 何度目かの大きな雷の音にまぎれて、あおいはその人に問うてみる。

「なんだよ、ひどく辛気臭いな。失恋でもしたのか?」

「……まあそんなとこかな。僕だって失恋くらいするよ。たくさん、失恋もするよ」

答えながら行幸は、顔をそむけた。

 横顔しか見えなくなった黒いシルエット。あおいは、思いのほかその人のまつ毛が長いことに気付く。そのまつ毛の影に、光る何かが伝った気がした。

 腰を浮かせかけ、その人に駆け寄ろうとしたが、できなかった。

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