第6話
自分の名前が、嫌いだった。
ランドセルのフタの裏側に平仮名で書かれた名前は、母の字だ。もうさすがに、自分の名前くらい漢字で書けることを、母は知ってるのかな。
名前は親がくれる最初のプレゼントというが、母にそんな気持ちはあったのだろうか。
今日も家には誰もいない。
こんな男とも女ともつかない名前に、どうしてしたんですか。もしかして、わざとだったんですか。
いっそ、タケオ、みたいな絶対男だろ、って名前か、そうじゃなければ、ユリコ、みたいな、女しかあり得ない名前に、してくれればよかったのに。
別に、食事を与えられていないわけではなかった。世の中には、自分より不幸な子供などたくさんいるだろう。テーブルの上には母が置いて行ったコンビニの袋がある。最後に母と一緒に食事をしたのは、いつだっただろう。
「何やってんの、あおい!」「あおいは本当に変な子ねえ」
記憶の中の、母が自分の名前を呼ぶ声は、ほとんどこんなものだった。
自分の名前が、嫌いだった。
母もたまには家にいることがある。そして時々は男を連れて来る。今までの男たちの中には、自分のことをあおいちゃん、と呼ぶ人も、あおいくん、と呼ぶ人もいた。
どっちにしても、気持ち悪かった。
気持ち悪かったけれど、ニコニコして彼らの機嫌を損ねないようにしていた。でも、彼らと必要以上に仲良くなろうとする努力はしなかった。だって、もし仲良くなったって、母は次には違う男を連れて来て、再び会うことなんてないんだから。
自分の名前が、嫌いだった。
でも、あの人に会って、初めて名前を呼ばれることをうれしいと思った。名前を呼ぶ声が、こんなに温かかったのは初めてだった。自分の名前が、ほんの少しだけ好きになれた。あの人から見れば、俺は自分に勝手に懐くほんの子供かもしれない。でもね、みゆき、俺は——
「あれっ、子役使ったの?行幸にはめずらしくない?」
サー室で編集作業をしていると、万葉が画面を覗き込んで話しかけてきた。
「え、ああ、そうかな」
パソコンの画面に映されているのは行幸が撮りためたあおいの映像だった。
「どういう人脈なのかな、って。行幸が、なんか意外だったから」
「近所の子、なんだ……」
めちゃくちゃ要約すれば、そうなる。あおいとの関係を説明するのは、難しい。
「ふーん」
万葉は興味があるのかないのか分からない返答をすると、黙って近くの椅子に腰を下ろした。行幸も黙って画面に集中した。しばしの沈黙の後、万葉がぽそっと口を開いた。
「ねえ行幸、3女の先輩たちが話してる、井岡先輩の噂って本当だと思う?」
パソコンを操作していた行幸の指は止まった。画面を見つめたまま思わず目を見開いてしまったことに、万葉は気が付いたか。――とりあえず、大丈夫そう。この動揺は、隠さなきゃならない。
なんで、今ここで、井岡の名前が出てくるのか。
井岡はあんな無害そうな見た目をしているので、行幸たち後輩の目から見れば信じ難かったのだが、女の話となると彼にあまりいい噂はないらしかった。
「さあね。私も全部の話を詳しく知ってるわけじゃないけど、いくつかは本当なんじゃないの」
こんな返答をするのは、何が狙いなのか。万葉に対する、牽制、か……?
「やっぱ、そうなのかなあ。でもさ、私、井岡先輩のこと好きなんだよね」
――別に、驚いてない。なんとなく、そうなのかもしれないとどこかで思っていた。
「そう」
それしか答えなかった。
「私、さっき下で井岡先輩見たよ。まだいるんじゃない。私もうちょっと編集やってくから、先帰ってなよ」
なぜ、こんなことを言うのか。今万葉に井岡のところに行かれたら、困るのではないのか。
「あ、そう?……じゃあ、私行くね。お疲れ、行幸」
サー室を出て行く万葉を、おどけたフリをして手を振って見送る。
なんか、もういいやという気持ちになったのだ。
万葉と井岡が異様に仲が良いことには気付いていた。自分は思い上がっていたのだ。彼がきっかけでサークルに入ったわけだし、その後もそれなりに仲は良かったが、万葉も井岡のことが好きだと知って、今更万葉と奪い合ってまで、井岡に執着する気にもならなくなったのだ。万葉も井岡先輩のことが好き。そうかそうか。それならそれで、万葉が井岡とくっついてくれればいいと思った。
自分の井岡への気持ちはその程度だったのかと、悲しくなった。
でも違う。私はたしかに本気だった。
どうして、自分が傷つく道と分かっていて、そちらの道を選んでしまうのだろう。
画面に目を戻した。行幸が撮った映像に、あおいが笑っているものはほとんどない。
あんまり笑わない子供だな、とぼんやり思う。やっぱりこの子は私に似ている。
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