第146話 一刀両断


 真冬はいま、死への恐怖に震えあがっていた。


 彼女はいままでの人生で、人と戦ったことは一度もなかった。

 『ハルマゲドン計画』に参加する前は、たしかに道場に通って古武道である剣術を習っていた。だたしそれは、毎週日曜日だけだし、そもそも形稽古ばかりで、防具をつけて竹刀なんかで実際に打ち合ったりはしない道場だったのだ。


 『ハゲ・ゼロ』の世界に来てからも、剣士となったが、きちんとしたクエストなどは一切こなさず、敵と戦うことなくこのお江戸に来て、ずーっと……遊んでいた。


 お江戸には剣術の道場が多く、いろんな流派の剣士たちと『撃剣稽古』として防具をつけて竹刀で打ち合うミニ・クエストがある。

 もちろん真冬も何度か挑戦した。たしか四回。NPCの剣士たちに挑んだのだが、ぼこぼこに打たれ、ただの一度も打ち返せずに終わった。

 真冬が勝てたのは、ぐだぐだで有名な鏡心明智流の道場破りクエスト、すなわち「お江戸のボーナス・ステージ」でだけだ。


 だから、彼女は、いま目の前に立つ妖怪カワウソを前にして、戦って勝つという選択肢が最初からなかったのだ。

 自分を喰い殺そうとする捕食者を目の当たりにして、死ぬ以外の途を選ぶことが出来なかった。


 死ぬ。自分はいま、ここで、殺される。

 いや、嘘助は、自分の手足を切り落として、そのまま牢に放り込むと言っていた。それは、ひと思いに殺されるより、ずっと恐ろしく、むごいやり方ではないか。ログアウトすることもできず、手足を落とされた激痛と四肢の喪失に苛まれて、永遠に苦しみ続ける、無間地獄ではあるまいか。


 真冬は心の底から震えあがり、死への恐怖とわが身に降りかかる運命への絶望に押しつぶされた。


 あたしは助からない。もう終わりなのだ。身も心も、命すら擲ち、絶望と諦めのその先に踏み込んだ彼女は、自分はもうどうにもならないのだから、ならばせめて、目の前に立つこのにっくき怪物に一太刀浴びせて終わりにしよう。そう思った。

 いわゆる、イタチの最後っ屁。ミツバチの一刺し。

 せめて、それくらいは。


 真冬は刀の柄に手をかけると、するりと抜刀した。

 両手で柄を握り、半身の正眼に構える。


 半分身を開いた半開半向の体勢。腕を伸ばし、差し出した刀身を身体のまえに置く。なぜか今日は刀の重さを感じない。まるで水に浮く船の舳先のように、真冬の胴田貫は伸ばした腕の延長となって切っ先をゆらりと漂わせる。


 真冬の構えを見て、嘘助が牙を剥いて笑う。


「そうだな。その方が面白いな。獲物が抵抗してくれた方が狩りはずっとずっと楽しい。嫌がる女を無理やり喰い殺す。そういうのが俺の好みだからな。めちゃくちゃになるまで、いたぶってやるぜ。せいぜい可愛い声で泣いてくれよ、お嬢ちゃん」


 嘘助は真冬に合わせて半身の中段正眼にとる。互いに互いの切っ先を、相手の左目につけながら、両者は向かい合う。


 しかし、真冬は右腕を切られていて、刀を握る手に力が入らない。ぎゅっと握ると、血が流れて痛いのだ。だから、刀はそっとしか握れない。後で考えると、それが却って良かったのかも知れなかった。


蟇肌ひきはだはね。そっと握るのがいいんだよ」

 鍋島先生はよく言っていた。


 蟇肌とは、新陰流独特の、漆を塗った革を被せた袋竹刀のことである。表面が蟇蛙ひきがえるの肌に似ているので、蟇肌袋撓ひきはだふくろしないとも呼ぶのだ。


「そっと握るとね、斬り結んだ相手の刃のことがよく分かるし、強い打ちもね、ぎゅっと握ると出せないんだ。相手を吹き飛ばすような打ちは、じつはそっと握った太刀からしか生まれないんだよ」


 ふとそんな言葉を思い出す。

 いずれにしろ、いまの真冬に防御は必要ない。嘘助に殺される瞬間、相手に一太刀、かすり傷でもいい、ちょっとした反撃を加えられればそれで十分なのだ。奴に与えるそのたった一つの傷が、ここで死ぬかも知れない真冬の、これまで生きてきた証なのだから。


 たがいに半身正眼に構えて向かい合う二人。



 剣術では、正眼に構えた相手の身体を斬ることが出来ない。相手を斬ろうと迂闊に近づけは、突き出された中段の切っ先に串刺しにされてしまうからだ。


 わが刀が敵にとどくとき、往々にして敵の刀もわが身に届くものだと、宮本武蔵の『五輪書ごりんのしょ』にも書いてある。


 敵を斬ろうとすると、自分も斬られる。このどうしようもないジレンマの中で、わが身を救い、生死の境で生き延びる方法。それが、すなわち剣術である。



 血に飢えた妖怪は躊躇なく踏み込む。

 足を大きく踏み出し、中段から刃を返し、身を翻し、その切っ先が風を切る。


 回る肩、伸びる肘。

 つぎつぎと斬りつけてくる嘘助の『絵』が、ひらりひらりと変わる。やがて拳が動く!


 真冬は反射的に、嘘助の両拳を狙って一太刀浴びせる。


 体格において、頭一つ分真冬より勝る嘘助だが、刀の定寸は二尺三寸、すなわち六十センチ。刀の長さが同じなら、切っ先から拳までの距離は、体格に関係なく同じ六十センチ。


 拳が見えたのなら、こちらの切っ先が絶対とどく。


 嘘助の拳に真冬の切っ先が乗る。

 だが、それを察した嘘助が、人間離れした反応速度で足を引き、間を外す。そして、そのまま真冬の刀を打ち落としにくる。


 刀による打ち落としは、力ではない。力任せにぶち当てても、相手の切っ先がちょっと泳ぐだけで、通常は微動だにしないものだ。

 が、刃筋を通し、上太刀をとり、切っ先に体重をのせる躰を作る技術がある者の打ち落としは、もの凄い威力がある。


 それを喰らった場合、強烈に吹き飛ばされた刀は、それこそ持つ者の身体を半回転させるほどの運動エネルギーを受け取ることになるのだ。


 真冬はその瞬間、嘘助の刃が、自分が持つ胴田貫の刀身に噛みつき、強烈に吹き飛ばしてくるのを感じた。


 だが、腕に力が入らず、そっと握っていたのが良かったのかも知れない。


 嘘助の刃が胴田貫にふれるカチリという感触と、そこから圧し掛かってくる嘘助の体重。それを手のひらで明敏に感じることができた。まさに、手で触れて感じたのだ。


 それは、絡み合う刀身のうえに嘘助の身体が乗っかったのと同じ重さの打撃力だった。


 それを真冬は手のひらで敏感に感じ取り、そのエネルギーの奔流に一瞬身を任せ、そののち自ら落とされて嘘助の刃を抜いた。


 だが、抜き切れずに、身体は半ば吹き飛ばされ、刀が後ろへ流される。わが身が無防備に晒されてしまう。


 嘘助が嬉しそうに笑うのが見えた。拳が見える。下から見た絵。すなわち斬ってくる拳だ。


 嘘助は上段。上から斬り下ろすだけの体勢だった。あそこから1フレームで死は降りてくる。

 真冬は刀をうしろへ流した体勢。そこから慌てて刀を振り上げるが、嘘助はすでに斬り下ろしていた。


 絶対に間に合わないタイミングだった。嘘助が斬り下ろしてから、真冬は振り上げたのだから。

 だが、真冬はじたばたしなかった。


 ──敵を斬ろうとしてはだめだよ。ましてや、自分が斬られまいとしても、だめ。

 鍋島先生の声が甦る。

 ──身を守るのでもなく、敵を斬るのでもなく、じぶんの中心を斬るんだ。


 最初から斬られることは分かっていたのだ。彼女の目的は、その瞬間、その一瞬に、嘘助に一太刀浴びせること。斬られてしまうことは、最初から分かっていたから。


 真冬は敵の剣刃下、すべての力を抜いて、わが身が両断されるのを顧みず、嘘助の脳天に脱力の極みの一刀を落としていた。だが、嘘助を斬るのではない。

 自分の中心を斬るのだ!


 刃が絡み合い、金属がこすれ合う「しゃん!」という音が響いた。


 つぎの瞬間、真冬はぎょっとする。


 彼女が驚いたのは、自分の身体に嘘助の刃が触れなかったことでもなく、ばっくりと脳天から鳩尾まで両断されて二つに枝分かれしてしまった嘘助の姿にでもなく、自分が無傷でなぜか嘘助だけが斬られているという事実ですらなかった。


 彼女が驚愕したのは、別の事。

 自分が手にした胴田貫の、あまりにも凄まじい切れ味だった。


 ──えっ!? 日本刀って、こんなに斬れるの!?


 レプリカである胴田貫だが、ちょっと触れただけで、毛皮に包まれた妖怪カワウソの、頭のてっぺんから、腹の上まで、ほとんど何の手ごたえもなく、するりと両断してしまったのだ。


 肉も骨も毛皮も関係なく、同一表面であざやかに切断された嘘助の身体。その切断が鮮やか過ぎて、返り血すら浴びなかった。


 ぱっくりとYの字にされてしまった嘘助も、自分が斬られたことに気づかず、大きく距離のあいてしまった右目と左目できょろきょろと真冬を探し、やがて口をぱくぱくさせて息ができないことにやっと気づいたようだった。


 そして、そのときには、すでに遅し。

 命を絶たれた妖怪は、きらきらと光る細かい粒子となって消滅してゆく。


 あとになり、真冬はこのとき使った剣技が、柳生新陰流の「一刀両断」であったことに気づく。これこそが、師匠の教えてくれた「あばら三枚切り落とさせて勝ちを得る」極意であると、のちのち気づくのだった。



『土方真冬さんが、LV2になりました。「妖怪ハンター」の称号を手に入れました』


 初めて聞く「レベルアップ・アナウンス」が流れ、目の中に字幕が表示される。ここにきて何年にもなるが、真冬は初めて敵を倒し、初めてレベルアップした。

 だが、その嬉しさは微塵も感じない。


 それどころか、真冬はいまさらになって死の恐怖に全身をぶるぶると震わせていた。カタカタとみっともないくらいに歯が鳴り、手足が踊るように揺れている。


 ──死んだ。

 そう思った。


 ──あたしは死んだ。いや、本当には死んでないけど、でも死んだ。



 真冬の耳の中に、あのときのヒチコックの声が甦る。



「今ので、ニセモノの真冬さんは死にました。だから、今からは、本物の真冬さんになってください」


 真冬は、もしかしたらこの瞬間、なれたのかも知れなかった。本物の自分に……。


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