第145話 二星の目付
川越嘘助は、無言で刀の鯉口を切る。いつでも抜刀できるようにしておいてから、おもむろに深編笠の顎ひもをほどくと、それを脱ぎ捨てた。
地面に放り投げられる大きな編み笠。その笠に隠されていた素顔に、真冬は息をんだ。
顔を覆う強い体毛は、まるでブラシのよう。縦につぶれた頭部は人のものではなく、大きく離れた
茶色い体毛に全身を覆われ、湿った鼻先からは長い髭がぴんと垂れている。頭の上にある丸く小さい耳がうごめき、憎悪の炎を燃え立たせた両眼が獲物を狙う肉食獣の眼差しで真冬を睨んでいる。
「……カワウソ」
真冬は息をのむ。
それが手に乗るような小動物だったら、可愛らしかったかもしれない。だが、人より大きいサイズのその獣は、年経た獣の妖怪であり、目の当たりにするその姿は、まるで自分が餌である小魚や蟹の視点で見た捕食者のそれであった。
嘘助は、牙の生えそろった口をぱかりと開いて、かかかかかと不気味に笑う。
「土方真冬。おまえの失態で、三種の神器がふたつも人間どもの手に渡った。これはおまえの罪だ。刑部のやつが言うには、おまえは使えないから、始末してしまえということさ。残念だなぁ、真冬。ただし、ただ殺すだけでは、刑部のやつ、腹が治まらぬらしい。殺さず、手足を切り落として、永遠に地下牢に放り込んでおけとさ。そういう命令だ」
嘘助は、かかかかかと喉の奥から、ほんとうに嬉しそうに笑う。人ではない、それは獣の愉悦の迸りだった。獲物をいたぶり、その命を咀嚼する野獣の愉しみだ。
真冬は自分自身が、魂の芯から震えあがるのを感じた。いま生まれて初めて、人ではない、異形の怪物を前にし、それに殺されようとしている。
長身の野獣を前にして、放射される殺意と、己の内より湧き上がる恐怖に、身が凍るごとく手足が固まってしまった。
獣が、しゃーっと唸りながら、右足を一足ふみこむ。するりと伸びた毛皮の手の甲が、刀の柄にのびる。
──近い。
そう感じた瞬間、嘘助の手の内で、白刃が閃いた。なぜだか分からないが、それを感じた瞬間、真冬の身体は後ろへびくんとのけ反っていた。と、同時に、二の腕の、肘のちかくにぴりっという痛みが走る。
えっ、と思って、手でおさえると、指の間から血が流れる。
切られた。
ぬるりとする手をどけて腕を確認すると、ぱっくりと割れた着物の中から血が溢れてきている。
はっと振り仰ぐと、斬り上げた体勢の嘘助は、そこからさらに一足踏み込む。踏み込む動きで構えが変わり、刃が返って下を向く。その剣刃下にわが身があることを察して、真冬はさらに一足さがった。
真冬が下がるのと、嘘助が斬り下ろすのが同時。ぴゅんと風の鳴る音がして、真冬の顔の前を刃が通り過ぎていった。
嘘助の動きは速く、目で追えない。それこそ、動画の1フレームくらいの時間で刀を斬り下ろしてくる。こんなの躱せない。そもそも見えないし。
一刀あたえた嘘助は、真冬の身体を断ち損ねたことに、む、と一声鳴く。
下ろした形は下段の構え。そこから刃を返して一足踏み込み、閃くような斬り上げ。
迅い。そして、見えない。斬撃が構えから構えへ一瞬で変化する。モーションが飛んでいて動きが見えない。
でも……。
柳生新陰流の道場へ入門し、はじめて稽古をしたとき、師匠である鍋島先生にこう教えられなかったか?
「新陰流では、
──両拳、両肘、両肩。
嘘助が人外の動きで飛びこみ、真冬に斬りつけてくる。
刃は見えない。けど、両肩と両腕の形はどうだ。斬撃の時、うまい人ほど、拳は身体の中心から外れないし、両腕が作る三角形も崩れない。両肩も歪まないものだ。
──形だ。人体の(カワウソだけど)、その形を見ていれば、刃がどこに落ちるのか分かる。踏んだ足の位置、腰の角度、そして、視線の動き。
肩と腕が作る三角形。その頂点にあるふたつの拳。そして、その拳が握る刀。刀は直線だから、その先に必ず切っ先がある。
怖いのはその切っ先だ。
音速で飛んでくる切っ先は見えない。だけど、その根源であるふたつの拳は……。
真冬は、逃げずに一歩踏み込むと、嘘助の閃光のような斬撃を躱し、そのまま入れ違った。両者の間が開き、距離を取ることができた。くるりと振り返って、ふたたび対峙する。
右腕は切られて痛いし、全身は殺される恐怖に震えあがっていて、まるでふわふわ雲の上に浮いている感じだ。だが。
敵の斬撃が……
──見える。
刃がどこにくるのか……
──分かる。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます