第138話 その役職は、実際には存在しません


 自分は十手をあずかる岡っ引きだから、捕り方に捕まることはないと高をくくっていた、とも言えた。

 そこに油断があったといえば、たしかにそうである。


 ヒチコックは急いで屋敷の裏木戸から駆け出したつもりだったが、すでに行く手からは御用提灯とそれを手に走る捕り方たちの姿が闇夜に浮かんでいた。

 いつの間にか大川の花火は終わっており、空は暗く、夜のお江戸はしんと静まり返っている。そこにひびく呼子笛と「御用だ! 御用だ!」と声を張る捕り方たちの影。


 まずいと思って反対側へ走り出す。十字路に出るが、行く手にも提灯の光。御用の文字。

 駆けてくる男たちは、町方よりも火盗改の半纏をまとった者の方が多い。つまり、町方の目明しであるヒチコックを見逃してくれることは、まずないということだ。

 ヒチコックは、角を曲がって走り出す。こっちに行けばお堀に出るはず。そうなれば、逃げるチャンスもめぐってくる。


 追いかけてくる提灯の明かりを振り切ろうと全力で走る。あとからくる捕り方たちは、刺股さすまた袖絡そでがらみ梯子はしごなどを手にしているため、足が遅い。

 が、ここは武家地。広大な武家屋敷に囲まれた道は、左右が高い壁に塞がれ、脇道も存在しない。

 追手を振り切ろうと必死に走っていたヒチコックの前方から、あらたな提灯の列が姿を現す。


 まずい。追い詰められた。

 ヒチコックは左右を見回し、そこがちょうど武家屋敷の大門のまえと気づくが、高さ何メートルもある門を越えて中に入ることは無理な話だ。かといって垂直に何メートルも伸びるなまこ壁をよじ登ることはもっと無理。

 まさに、絶体絶命のピンチである。


「いたぞ、あれだ」

 御用提灯を下げた一団を率いて駆けてきたのは、奉行所与力の鈴木様。ヒチコックのお陰で大変な目にあったのだから、ここで容赦のあるはずがない。だが、与力の鈴木様のとなりに立つのは……。


「あ、田中様!」

 ヒチコックは自分の顔がぱっと明るくなるのを感じた。思わず、助けてくれる!と思ってしまったのだ。


「あれです!」

 田中様はヒチコックのことを指さす。その顔が鬼の形相。

「あやつこそが、謀反人の岡っ引きにして裏切者のヒチコックです。極悪人ですぞ! 皆の者、かかれぃ!」


「えっえー」

 ──あたしのこと、裏切者って、それはこっちのセリフだよぉぉぉ!


 心の中で絶叫するが、この場で「田中様も仕抹人です!」とカミングアウトするわけにもいかない。かといって、ここで捕り方に捕まり、小伝馬町の牢屋敷に直行も嫌。まさに万事休す! 絶体絶命である。


 前後から押し寄せる捕り方の群れは、まるで提灯の波。ヒチコックは懐に手を突っ込み、できればやりたくないが、銃を抜こうとした。が、そのとき。


 ぎぎぎぎぎぃぃぃぃぃぃっ、と音を立てて、目の前の武家屋敷の表門が開いた。そして中から一人の女性がさささっと走り出る。


 背の高いきりりとした美人。どこかで見たことあるなと思ったら、思い出した。たしか河童に襲われた廻船問屋『越後屋』の光希お嬢様にお供でついていた、佐々木という女性ではないか。

 ふと見ると、開いた扉の奥から、その光希お嬢様もゆっくりとした足取りでこちらに出てきている。目が大きくて、小顔で、すごい美人。赤い着物がめちゃくちゃ似合っている。


「なんだ、娘! 邪魔を致すな」

 与力の鈴木様が唾を飛ばして叫び、捕り方が荒波のように押し寄せようとするのを、佐々木が宝塚女優のようによく通る声で一喝した。


「下がれ下がれ! 下がらぬか!」


 佐々木の声に、一同が足を止め、かすかに身を引く。モーゼの前で海が割れた奇跡のように、佐々木の声が捕り方たちを魔法にかけたように足止めする。


 そして、舞台女優のような威風堂々とした足取りでヒチコックの前に出た佐々木は、さっと右手をあげた。その手には黒い印籠が握られている。


「控え! 控えぃ! この紋所が目に入るぬか。こちらにおわすを、どなたと心得る! さきの副将軍、水戸光希さまなるぞ!」


「ええっ!」

 ヒチコックは大声をあげた。

「光希さん!?」

 大声を出したのはヒチコックだけだった。


 それ以外の者、町方も火盗改も、与力の鈴木様も、同心の田中様も、その場にいた全員が、いっせいに声も出さずにその場にひれ伏した。まるで突風を浴びてなぎ倒されたススキ野のように。

 ざっとばかりに全ての人間がが平伏し、額を地面にすりつけている。


「え、え、あ、いや」

 ヒチコックは印籠や佐々木や、ゆっくりとした足取りで歩み寄る光希お嬢様を指さしてあたふたしてしまう。

「ふ、副将軍ってなんすか? そんな役職あるんすか?」

 それしか言葉がでなかった。


「ヒチコックさん」近づいてきた天下の副将軍、水戸光希は、愛らしい笑顔に、黒い大きな瞳でヒチコックのことをまっすぐ見つめる。「あなたが妖怪ぬらりひょんを倒したことは、あたしの密偵から聞きました。あなたの勇気も不屈の闘志も、すべてこの風車の七弥ななやが見分し、わたくしに報告してくれてます」


 かすかに光希が背後を振り返ると、その場にはいつからいたのか、ド派手な赤の忍び装束に身を包んだくノ一が片膝ついて控えていた。


「いや、観てたんなら手伝ってくださいよ、陽炎さん」


 ヒチコックは、風車の七弥と紹介されたくノ一を指さした。

 ヒチコックが口をとがらせると、くノ一は「あはははは」と声を上げて笑う。

「いや、拙者は情報収集が任務でござるので」

「しかも、いつの間に光希さんの家来になってるんすか」

「ふふふ、拙者いまは『風車の七弥』でござる。それに、ヒチコック殿がピンチのときは、拙者は必ず助けるでござる。助けなかったのは、ヒチコック殿が勝つと確信していたから、でござる」


「ヒチコックさん」

 光希がふたたび口を開いた。

「いまお江戸は大変なことになっています。強力なダーク・レギオンがシステムの中に忍び込み、その支配から逃れるため、システム・キャラである上様はお隠れになっておいでです。なんとか隙をついて発令された幕府クエストも、大黒屋、いいえ妖怪ぬらりひょんが放った大量の生業クエストによって、ながらく受ける者はもちろん、気づく者さえいない状況でした。それを打ち砕き、ぬらりひょんを倒すことによって敵の牙城の一角を崩してくたれのが、ヒチコックさん、あなたです」


 光希はずずっとさらに一歩前に出て、ヒチコックの手を取った。


「お願いします。いま敵は江戸城の中に深く入り込み、この街を内部から支配しようとしています。幕府クエストを進めているあなたのパーティーメンバーの死織さんも、いまは敵の手に落ち、江戸城内で虜となっている様子……」


「えー、またですか。今度は服着てるんだろうなぁ」



「なんとか死織さんを救い出し、幕府クエストを完遂して妖怪どもを駆逐してもらいたのいです。そのためにわたくしたちも最大限、力を尽くてお手伝いいたします」


「いやー、でも、あのおっさんには、あたし、コンビ解消されちゃったしなー。ま、でも、ここでまた助けてあげれば、あたしの偉大さにきっと気づくに違いないですよね」

 ヒチコッくがふんぞり返って言うと、光希はくすくすと笑う。

「お二人は、いいコンビですね」


「しかし、ご隠居」背後で控えた陽炎が口を開く。「死織どのは城内に囚われの様子。また敵の首魁もお城の奥深くに隠れている状態。これは一筋縄ではいかぬと存じますが」


「ええ、その通りです」光希は振り返り、深くうなずく。「わたくしたちみんなの力を合わせる必要がありますね。が、その前に、七弥。わたくしはご隠居ではありません。ご隠居とは、呼ばないように」

「では、ご老公」

「わざと言ってますか」

 光希が眉間に皺を寄せた。


 しかし。

「むーん」

 ヒチコックはひとり、うなった。


 たしかに、敵は江戸城内に隠れているし、火盗改と剣術指南役までもが味方に付いている。とくにあの剣術指南役はプレイヤーである。一筋縄ではいかない。


 しかも、こんなときに絶対頼りになるはずの死織は、捕まってしまっているらしい。クエスト・ボードを確認すると、死織も「三種の神器」のひとつを手に入れたことが分かるのだが……。


 神器は、ヒチコックの手に入れた「剣」と死織が手に入れているはずの「勾玉」でふたつ。ということは、あとひとつ。あとひとつ、手に入れなければならないのだ。


 まずは、どうやって江戸城に入るか。そこが問題だった。とにかく死織が捕まったままでは、彼が手に入れた神器は敵の手にあるも同然だ。


「とにかく。みなの力を合わせる必要がありますね」

 こほんとせき払いした光希が口を開く。

「今日はもう遅いですから、明日また集まって協議することにいたしましょう。他にもわたくしたちに力を貸してくれるという者がおります。彼らも紹介したいですし」

 光希は踵を返すと、屋敷の中へと引き返す。

 彼女につづいて、佐々木や風車の七弥こと陽炎も屋敷へと向かう。


 ヒチコックがちらりと振り返ると、与力の鈴木様以下捕り方の連中は、いまだに平伏したまま。

 田中様も、そらっとぼけて顔を伏せたままだ。

 ──あの人、あたしたちに協力して……くれそうもないなぁ。


 闇の仕抹人である田中様は表立っての協力は無理そうであった。が、このあとヒチコックは意外な人物を光希から紹介される。


 そして、さらに、すでに死織が仕込んでいた意外な作戦も、すべて図に当たっていることに気づかされるのだった。




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