第131話 江戸の麦酒屋
「なんで江戸に
死織は首を傾げた。
「あたしも初めて知りました」
ちいさい扉の前で、真冬も驚いている。
「あたし、ビール飲めないんですよね」
「あ、そうなんだ。でも、まあ、せっかくだから入ってみるか」
井東屋と書かれた扉をそっと押し開ける。
その扉は頑丈な木製ドアであり、幅もないが、高さもない。
背をかがめて、それでも頭の
明かり窓のない店内は昼間だというのに薄暗かったが、柱や壁に掛けられたいくつかのオイル・ランプで柔らかく照らされている。ちょっと山小屋っぽいくて雰囲気がいい。
まあ、本来バーってこんな感じなんだが。もっとも、それがお江戸にあるのはどうかと思うが。
店内に椅子だのスツールだのはなく、立ち飲みオンリー。そこも、妙に本格的。いま現在店内に客はいない。
木製のカウンターには、ビール・サーバーの注ぎ口がずらりと並び、まるで小学校の水飲み場みたいだ。そこは飲むためのカウンターではなく、グラスやジョッキにビールをそそいで提供するための場所であるらしい。
カウンターのむこうには髭が濃くて熊みたいな親父がひとり。なんかベルギー人っぽい雰囲気。勝手な印象だが。
彼の背後の壁には、巨大な醸造タンクが三つ。いずれも親父の背よりも高いサイズ。そのほかのスペースには、ビール樽と陶器瓶がずらりと並んでいる。
「禁煙だよ」
ベルギー人っぽい親父が、最初に注意する。
「ああ、わかった。俺は吸わない人だから」
死織はぐるりと店内を見回し、「オーダーはここ?」とカウンターを指さす。
「ヤー」
「一人、ワン・オーダー?」
「ヤー」
真冬はビールが飲めないので、死織が二杯頼むことになりそうだった。
「あー……」
死織は壁に貼られた品書きを見る。異様に多い種類のビールが毛筆で縦書きされていた。聞いたこともないビールばかりだった。
死織が考えていると、ぎいっと扉が鳴って、ふいに店内が明るくなる。新たな客が来店したようである。扉が閉じて、店内が暗くなると、新客の姿が薄暗い店内に浮かび上がる。
鮮やかな和服の、ちょいと色っぽい姉さん。髪を高島田に結い上げ、布に包んだ三味線を抱えている。生業は新内流しだろうか。
彼女は死織と目が合うと、軽く一礼し、店内をぐりると見回し、得たりとばかりに品書きに目を走らせる。そして、ひとこと。
「メルツェン」
「ヤー」
親父は短く答えると、カウンターの下から取り出した小瓶の栓をあけ、陶器のコップに注ぐ。それを受け取った新内流しの女は、「あら、さきに頼んじゃったかしら。ごめんなさいね」と軽く首を傾げる。
「あ、じゃあ、俺も同じもの」
死織がよく分からないビールを飲もうとすると、新内流しの女が声を掛ける。
「せっかくだから、ちがうものを頼まれたら?」
「姉さんなら、どんなものを薦める?」
「そうね、面白いのは、やはりIPAかな? あと……」ちらりと真冬の方を一瞥して、「もしビールが苦手なら、ベルギーのフルーツ・ビールでフランボワーズっていうのがあるから、どうかしら? 木苺のビールで、甘くて美味しゅうござんすよ」
「ああ。じゃあ、それ」
と親父にオーダー。
「ヤー」
紙コースターとともに出てきたのは、錫のジョッキに満たされた茶色の泡と、ギヤマンのコップに注がれた濃い色のピンクの飲み物。それらを手に、死織は真冬とともに、新内流しの姉さんのとなりの立ち飲みテーブルにつく。
「IPAっていうのは、インディアン・ペール・エールの略なんですよ」メルツェンなるビールを飲みながら、姉さんが解説してくれる。「イギリスの植民地時代に、インドでも腐らないビールを飲むために、イギリス人が、高い度数と多めのホップを使用して作ったのが始まりなんです」
「へー」
姉さんの蘊蓄を聞きながら、焦げ茶色い泡に口をつける。
「うわっ」
死織はちいさく呻いた。
苦い。そして、濃い。まるでチョコレートのように濃厚で、どろりとした飲み口。強烈なホップと高いアルコール度数で、死んだ人間も生き返るような強烈な個性を生み出している。
隣では、ピンク色のビール泡を口先でおっかなびっくり啜った真冬が、「おいちい」と子供みたいな笑顔で死織を見上げる。
「なんか、ジュースみたいで、ビールじゃない感じです。おいしいー、これならあたしも飲める!」
そのリアクションを確認して、新内流しの姉さんは、くすりと笑う。
「世界にはいろんな種類のビールがあるけど、日本でビールといえばおもにピルスナーっていう種類を指すわ。これはチェコのピルゼン市で作られたタイプのビールね。でも、世界中には二百を超す種類のビールがあって、それぞれにそれぞれの歴史があるの。そういうことを知って、楽しむのも、また一興よね」
お姉さんの顔はすでにちょっと赤い。
「たとえばこのメルツェンってドイツのビールは、3月に仕込んで、9月の収穫祭に飲むの。そのときに樽をすべて空にするために、盛大に飲むらしいのよ。それが有名なドイツのビールの祭典『オクトーバーフェスト』の始まりだって言うわ」
「へえええー」
歴女である真冬が新内流しの姉さんの話に、ものすごく喰いついている。
「あたし、ビールって、アサヒとかキリンとかしかないと思ってましたよ」
「アサヒとかキリンはメーカー名だよね」
それを聞いた新内流しの姉さんはふふふと笑った。
「もっとも、『キリンの技術は世界一だ』ってマイケル・ジャクソン(ビール評論家)も言っているけどね」
「へー」死織も感心した。「そんなことをマイケル・ジャクソン(歌手)が言ってるんだ。キリンって有名なんだな」
死織は濃厚なビール、いや正確には酵母がちがうのでエール、をぐいと飲み乾す。紙コースターの上に錫のジョッキをもどそうとした死織は、コースターにいつの間にか、細かい文字がびっしり書き込まれていることに気づいた。
そこには、カタカナの羅列と、一行の説明。
サンケン
ノモジノ
カバノイ
シシドソ
ラヨノコ
九字の如く読め
それは、『暗号2』だった。
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