ヒチコックは震える
第132話 新たな仕事
田中様のせいで、すっかり帰るのが遅くなってしまった。
ま、残っていたのはヒチコックの勝手なのだが。
すでに陽は傾き、空は茜色。街行く人々の着物も、すべて赤く染まっている。
なんか街の雰囲気がそわそわしているなと思ったら、今夜は大川に花火があがる日だそうだ。浴衣姿のお兄さんお姉さんが、団扇を片手に永代橋の方へ歩いている。日が暮れたら、打ち上げが始まるらしい、と歩いている人たちの話が聞こえてきた。
──よし、夜になったら死織さんやみんなを誘って花火を観に行こう。
ヒチコックはそんな計画を立てながら、長屋へ急いだ。
夕方だというのに、長屋は妙に静かだった。死織も真冬も帰っていないようだし、金太郎の姿もない。ヒチコックは、まず小虹を花火に誘おうと、源さんの部屋の障子に声を掛けた。
「小虹ちゃん、いる?」
返事はなかった。が、室内にかすかな気配は感じる。
留守だろうか? あるいは空き巣? そういえば、いつも外に繋がれている柴犬のチコもいない。
「小虹ちゃん、あけるよ」
もう一声かけて、ヒチコックは腰高障子をそっと引いた。
中は暗く、そとから差し込む夕日が、赤く四角く影を染めている。
なにかが、おかしかった。踏み込もうとしたヒチコックは、足元にころがる柴犬のチコに気づいて、はっと息をのむ。ばったりと倒れてぴくりとも動かないチコ。その胴は、ざっくりと切り裂かれ、赤い肉がのぞいている。斬り傷から流れた血が黒い水たまりを作っていた。
ぎょっとして奥へ目をやる。
ヒチコックの部屋と同じ四畳半の板の間。そこに、折り重なるようにして倒れている源さんとおかみさんの二人。彼らはまるで、物のようにぴくりとも動いていなかった。
「源さん!」
ヒチコックは叫んで、土足のままかけより、源さんの肩をゆすろうとして、その身体の冷たい硬さにはっと手を引っ込める。ついた膝が、粘り気のある血だまりに沈んで、ぴちゃりと音を立てた。
ヒチコックの全身から、すっと血の気が引いた。
「え……」
ざわっと、全身の血が泡立つ。
身体を恐怖が駆け抜け、それがすぐに怒りと悲しみに引火する。息がつまり、呼吸が苦しくなる。
誰がこんな酷いことを……。絶句するが、答えはすぐに出る。
大黒屋だ。これは絶対に大黒屋の仕業にちがいない。
辻斬りを匿っていると証言をした源さんの口を封じるために、奴らがやったことだ。証人を殺して証拠を消す。なんて……、なんて卑劣な。
たったそれだけのために、人を殺すなんて。
ヒチコックの全身がかっと熱くなる。激しい怒りと悲しみが、彼女の心と身体を打ちのめす。彼らを殺されてしまった悲しみ。失われてしまった命。もう二度ともどってこない、大切な人の存在。
いつもにこにこ笑っていた源さん。優しい声でヒチコックのことを「親分さん」と呼んでくれたおかみさん。あの二人はもういない。冷たくなって動かなくなってしまった。
源さんたち温かい家庭はもうない。この家族はヒチコックにとっては、ちょっとした理想で、憧れでもあったのに……。
ヒチコックは悲しみに身体と心を震わせた。
──許せない。
あいつら、絶対に許せない。
が、その燃え上がるような強烈な怒りと憎悪は、すぐに激しい自己嫌悪に取って代わられた。
──あたしが源さんに証言を頼んだりしなければ、こんなことにはならなかった。もっと考えるべきだったんだ。あんなことに源さんたちを巻き込んで。あたしが源さんのことを殺したも同じだ。あたしが、あたしが……。
怒りと後悔、そして焦燥。そんな感情が自分の中で激しく渦巻く。
握りしめた拳が真っ白になってぶるぶる震える。怒りと悲しみが頭の中で渦巻いて、くらくらと目が回るようだ。
だが、ヒチコックはその感情をどこへもっていっていいのか分からない。ただ、あのとき「おう、任しときな!」と証言を快諾してくれた源さんの笑顔ばかりが目に蘇る。
じわりと目が熱くなり、涙があふれた。
かたっ。
屏風の奥でかすかな音がした。
ヒチコックははっとなる。もしかして……。
「小虹ちゃん?」
ヒチコックは屏風にかけより、裏に積まれたせんべえ布団の盛り上がりをまくった。中から、白地にアサガオ柄の浴衣を着た女の子の小さな背中が出てくる。小虹はみじろぎし、こわばった表情でヒチコックを見上げた。その瑪瑙のような黒い瞳には、いっさいの感情がなかった。
「よかった、小虹ちゃん。無事だったんだね」
ヒチコックは布団の中から小虹をひっぱりだし、彼女の小さい身体をぎゅっと抱きしめた。小虹の手足にはまったく力がなかったが、そのちいさい体は温かくて柔かい。生きた人間のものだった。
「おかあさんが……」
抑揚のない声で小虹がつぶやく。
「おかあさんが……」
「もう大丈夫だから」ヒチコックは小虹の身体をぽんぽんと叩く。部屋の惨状を見せないように、そのちいさい額を自分の胸に押し当てる。
「おかあさんが……ここに隠れてろって。……猫のお侍が来て、それでおとうさんと、おかあさんを……」
「いいよ。言わなくていいから」
ヒチコックは小虹の身体をぎゅっとしながら、彼女に約束した。
「仇は、お姉ちゃんがぜったい討つから」
体を離し、小虹の目をまっすぐ見つめる。
おびえと不安に揺れる小虹のまっくろな目は、しばしヒチコックのことを見つめていたが、やがてごそごそと動き出し、布団の奥に隠してあった布包みを取り出す。
「うちのへそくり」
言いながら、小虹はちっちゃい指でむらさきの布を開く。中から、光り輝く黄金の小判が五枚出てきた。それを小虹はヒチコックの手に乗せながら、あふれ出しそうになる涙を必死にこらえて、震える声でたどたどしく伝える。
「お江戸には、お金で恨みを晴らしてくれる、仕抹人がいるって。お姉ちゃん、このお金で仕抹人にお願いして。おとうさんとおかあさんとチコの恨みを晴らしてくださいって」
ヒチコックは小虹の、いまにも涙があふれだしそうな目を見つめて、うなずいた。
「わかった。約束する。あたしが仕抹人にたのんで、ぜったいにこの恨みは晴らす。だから、安心して」
そう言って、無理に笑った。本当は自分も泣き出してしまいそうだったが、小虹のために、無理に笑った。涙でかすんだ視界の中、そのとき目の前に画面が開く。
『裏生業「仕抹人」を獲得しました。仕事に使用する道具を選んでください。
・十手
・捕り縄
・投げ銭
・素手
・銃
裏生業は同業者以外には秘密にしてください。』
ヒチコックは迷わなかった。銃一択。武器画面を目押しすると、いままで反転していて使用できなかった「コルト45オート」と「バフバスター454マグナム」が使用可能になっている。
さらに開く画面。
『小虹の依頼を受けますか?
・両親と飼い犬の仇を討つために、大黒屋悪左衛門と猫山又右衛門を仕抹する。
・Yes
・No 』
ヒチコックは、ぐっと「Yes」を見つめて、はっきりと瞬きした。
この依頼は受ける。ぜったいに源さんとお光さんとチコの仇は討つ。卑劣な大黒屋と辻斬りの猫の侍も、あたしが倒す。
ヒチコックは静かに怒りの炎を燃やした。
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