第125話 まずは一服
先に食べ終わったヒチコックは、長屋で昼寝すると言って帰っていってしまった。
死織は真冬と二人、ゆっくりと食べて、残りを「にゃー」といって寄ってきた猫たちに与える。真冬も猫が好きみたいで、嬉しそうになにか語りかけながら、猫に大トロを食べさせていた。
死織は借りた食器をおかみさんに返しに行き、ついでに洗い物を手伝う。打ち掛けを脱ぎ、襷をかけて長い袖をまくると、洗い桶の水に手を突っ込んだ。
食器を洗いながら、ふと目を上げると、壁に貼られた浮世絵に気づく。
それは綺麗な色づかいで描かれた風景画で、大きな橋の上の空に、いくつも花火があがっている絵だ。版画であるようだった。
で、その絵を、おかみさんがちらりと覗きに来た。まるで何かを確認するように。
「ん? なんですか?」
死織が興味をもってたずねると、おかみさんが、「ああ、ちょいと今月が大の月か確かめただけさ」と答えた。
「大の月?」
死織の疑問に答えたのは、外から首をつっこんだ真冬。
「江戸の暦は太陰暦なんです。ま、あたしたちには全く関係ないんですけどね」彼女はおかしそうに笑う。「江戸では、三十日ある月と二十九日しかない月があって、それを表す暦が、この場合はその花火の絵なんです。大きい花火が三十日ある月で、小さい花火が二十九日の月なんですよ。その順番が絵になってるんです」
ちなみに、この大の月と小の月の配列は、毎年違うらしい。
「大きな月……」死織は考え込んだ。「俺たちには関係ない……」
──そうか。
はっとして、クエスト・ボードの暗号1を呼び出す。
『 1 2 3 4 5 6
ト サ ク キ ト ヲ
7 8 9 10 11 12
ウ ニ キ イ ケ キ
大きい方から読め 』
「西向く侍か」つぶやいて、暗号を睨む。
ニシムクサムライとは、グレゴリオ暦の場合の三十一日までない月、すなわち二月、四月、六月、九月、十一月である。この暗号は、大きい方から読めという事だから、一月、三月、五月、七月、八月、十月、十二月から読めばいいのだ。
とすると……。
「ト、ク、ト、ウ、ニ、イ、キ、サ、キ、ヲ、キ、ケ。
死織はパチンと指を鳴らした。
「暗号が解読できた」
「え? ほんとですか」真冬が驚いた声をあげる。
「暗号では、禿頭つまりハゲ頭に行き先を聞けとある。あの湯屋に、ハゲ頭の男が、いや女かも知れないが、いるにちがいない。そいつを探そう」
さっそく死織と真冬は、昼前に行った湯屋「富士の湯」へ足を運んだ。番台のおばあちゃんへ湯銭を二人分渡し、中を見回す。入浴客の姿はないが、履き物はいくつかある。
「なあ、おかみさん。禿げの人って、どこかにいる?」
番台のおばあちゃんは、うんうんとうなずき、「二階だよ」と教えてくれた。
死織は脱衣所の脇に階段があるのを発見し、着物の裾をつまむと、そこをとんとんと上った。あとから大刀を手にした真冬がついてくる。
「風呂屋に二階なんてあるんだな」
階段をのぼりながら死織が言うと、真冬が解説してくれる。
「普通は男湯にだけ二階があるんです。もともとは刀をあずける部屋だったらしいんですが、のちにはちょっとした休憩場所、サロンとして使われるようになったらしいですよ」
その口調から、湯屋の二階にあがるのは、真冬も初めての様子。まあ、男湯の二階じゃあ真冬は入れない。彼女は、武士は武士でも、男装の女侍なわけだから。
二階は青々とした畳の間。地球のスーパー銭湯の休憩室と大差ない。
座布団を枕に眠る男。将棋を差している年寄り二人。そして、一番奥の隅に、坊主頭の男が眠るように目を閉じて座していた。
頭は丁寧に剃られた禿頭。墨染の
死織は真冬にひとつうなずき、その僧の前まですすむ。彼の横にはミニサイズの屏風が置かれ、手前には焦げ茶色の金属製の巨大な香炉が置かれている。
死織が不思議な顔でそれを見つめていると、ぱちりと目を開いた僧は、にこりと笑う。
「
香炉ではないようだ。いわゆる移動できるタイプの炉であるらしい。
死織は不思議に思いつつも一礼し、裾を捌いて坊主頭の前に腰を下ろした。真冬がだまって死織の隣に正座し、太刀を置く。
言われてよく見ると、風炉の上半分は茶釜だ。すっぽり嵌っている。中では炭火が燃えているのだろう。
僧はにっこりと笑い、木の棚から抹茶碗を取り出す。
飴色の楽茶碗。丸く滑らかで、そのくせ
「まずは、一服」
僧は無駄のない動作で、蜜柑みたいな形の黒い茶入れから、巨大耳かきみたいな茶杓で抹茶をすくい、鮮やかな緑色の粉を、楽茶碗の中に落とした。
ついで、風炉の釜から
そばにあった茶筅を手にとり、慣れた様子で、茶碗の中でしゃかしゃか振ると、ふんわりとお茶の香りが周囲に立ち込める。
激しく振られた茶筅がぴたりと止まると、僧は点てた抹茶を死織の前に、そっと置いた。
死織はちらりと真冬を振り返り、心配そうな彼女にちいさくうなずくと、
死織は茶道を習ったことはないし、茶席に出たこともない。ただ、抹茶の飲み方は、だれかに教えられて知識として知っていた。それが誰だか思い出せないということは、もしかしたら『ハゲ・ゼロ』で出会った誰かかもしれない。
茶碗を眺め、しずかに胸の前で右に回す。六十度ずつ三回。
こちらに向けて出された茶碗の正面を、僧に向けた形にしてから、ゆっくりと、泡立つ薄茶に口をつける。
樹海の苔のような深緑色のお茶。白く泡立ち、やわらかく盛り上がっている。
苦いと聞いていたが、口に含んだそれは、得も言われぬ甘みがある。
お茶のすっきりした苦みと、ふんわりとした甘みが引き立て合い、驚くほど美味い。ほどよい熱さの喉ごしと、口中に広がるすっきりした後味。
もう一度泡をながめ、楽茶碗の飴色を楽しみ、お茶の深い緑色を堪能してから、あとは一気に飲んでしまう。
一服のお茶。すっと走る苦みと、その奥にある仄かな甘み。水流に磨かれた岩の如き茶碗。点ててくれた僧侶の洗練された所作と気遣い。
出されたのはお茶だけではない。この僧侶が与えてくれた時間と空間。そして、心遣い。それらすべてを一気に飲み干す。
最後に残る一滴を、わざと「ずずっ」と音を立てて啜る。これは「吸い切り」という作法である。音を立てるのが礼儀なのだ。
その茶碗の中にあったもの、いわば宇宙のすべてを最後の一滴まで飲み乾し、死織は茶碗をそっと畳の上にもどす。
「結構なお点前でした」
僧は目を細め、しずかに口を開いた。
「神田明神下に、ちいさな居酒屋がある。白いのれんが目印だ。そこに行きなさい」
「ありがとうございました」
死織は手をついて頭をさげると、しずかに立ち上がり、裾を直して階段へ向かった。
音もなく、大刀を手に真冬がしたがう。
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