第2話【予想外の敵】

 紺碧の空には白銀の星々が散りばめられ、冷たい光を地上に落とす青白い月を彩る。

 ひやりとした夜の風が肌を撫で、ユフィーリアは眠気を振り払うように欠伸をした。


「ねみ……」

「俺もだ……」


 隣に並ぶショウが、眠たげに赤い瞳を擦りながら言う。

 上官によって真夜中に叩き起こされたのは、なにもユフィーリアたちだけではない。地上を天魔から奪還する為に戦う奪還軍に所属する天魔憑き全員が、もれなく同じ目に遭っていた。誰も彼も、最高総司令官であるグローリアによって真夜中にもかかわらず叩き起こされて、こうして戦場に駆り出された訳だ。死亡率が高くなりそう。


「夜間任務は給金が倍額になるから、気合い入れていくぞ」

「本当か? イーストエンド司令官のことだから、朝昼夜と関係なく一律にしそうなものだが」

「ショウ坊、分かってねえな」


 ユフィーリアは軽く体を動かして準備体操をしながら、相棒の少年に不敵な笑みを見せた。


「ふんだくるんだよ」

「なるほど」


 ショウはしっかりと頷いた。

 さて。

 改めて戦場を確認すると、確かに昼間と比べて天魔は活発的に活動していた。昼間は奪還軍が活動していると学び、夜の間に活動する方針に切り替えるとはなかなか頭のいいことをしてくるものだ。

 夜のとばりが落ちたフルール大陸の大地を、得体の知れない怪物が闊歩している。

 それは根っこを両足の代わりにして歩行する樹木だったり、三つの頭を持つ巨大な犬だったり、皮膚が透明で内臓や骨格すら見えてしまっている鶏だったり、様々な姿形をしている。それらの怪物は、ユフィーリアとショウの存在に気づくと一目散に逃げ出した。


「さて、ショウ坊。楽しいお仕事の時間だ」

「任務であれば遂行するまでだ」


 ユフィーリアは得物である大太刀の鯉口を切り、地上を我が物顔で徘徊する天魔へ駆け出す。彼女の背中を追いかけるようにして、両手に赤い回転式拳銃リボルバーを呼び出したショウもまた夜の世界を走り出した。


 ☆


「ぎゃああッ!? なんでなんでなんでなんで!?」

「夜は活動してないんじゃなかったのかよぉ!!」


 汚い悲鳴と断末魔が、美しい夜空に響き渡る。

 頭を落とされた大蛇の死体を蹴飛ばして、ユフィーリアは逃げようと身を翻した凶悪な人相の兎に肉薄する。「あ」と自分の死を悟った兎の喉元に抜き放った大太刀を突き刺すと、鮮血を撒き散らしてうつ伏せに倒れる。

 大太刀に突き刺さったままの兎をブンと放り捨てれば、たまたま近くを通りかかった長い舌を持つ不細工な犬にぶち当たる。舌も長ければ眼窩から目玉がこぼれ落ちているという子供が見れば泣き出しそうな顔面をしている犬は、同胞の死体を目の当たりにして「うぐえ!?」と人間の言葉を叫んだ。


「なななななんで、なんでぇ!?」

「邪魔だ犬」

「ほぎゃあああッ」


 目の前で横たわる兎の死体から飛び退いた犬の天魔だが、すぐ近くまで迫ったショウにごうごうと燃え盛る火炎を浴びせられて消し炭となっていた。

 地面に転がる黒々とした死体を踏み潰し、ショウは眠たげに欠伸をした。


「眠い……早く寝直したいところだ……」

「同感だな。奪還軍を総動員してるんだから、俺らがサボったってよくね?」


 血に濡れた刀身を眺めて「うえぇ」と顔を顰めたユフィーリアは、すぐ近くに転がっていた大蛇の死体に血塗れの刀身をこすりつける。血糊は若干落とせただろうが、きちんと洗った方がいいだろう。

 べったりとこびりついて落ちない血糊に、ユフィーリアは不満げに唇を尖らせた。


「どっかで洗わねえとなァ」

「……刀を洗うとは聞いたことないのだが」

「俺の刀は少し特殊な鋼を使ってんだよ」


 そもそも、刀身の色味が冷水を固めたかのような薄青を帯びているのだ。特殊な鉄鋼を用いているのは嫌でも分かる。

 ユフィーリアの大太刀に使われている鉄鋼はとても頑丈なことで有名で、なおかつ手入れは水で洗えばいいとされている。ただし加工がとても難しく、並大抵の刀鍛冶はこんな癖のある鉄鋼など使わない。

 ショウは納得したように「そうか」と頷くと、


「ならば、一度【閉ざされた理想郷クローディア】に帰還するか?」

「いや、近くに川があればそこで洗っちまう。ついでに仮眠でも取ろうぜ」

「賛成だ」


 戦いは他の同胞に任せて、ユフィーリアとショウはひっそりと休むことを決めた。多分、上官にはバレてしまうだろうが、その時はその時だ。

 どこで休もうかと、ユフィーリアはぐるりと周囲を見渡すと、


「…………?」


 なにやら遠くの方で、動きがおかしい天魔がいた。


「おい、ショウ坊」

「どうした、ユフィーリア」

「なんかおかしなモンが見える」


 ユフィーリアは、その挙動がおかしい天魔を指で示す。

 遠くの方をふらふらと歩いているそれは、姿形は猿のようだ。ペタペタと歩く足は短いが、両手は引きずるほど長い。全身を黒い毛皮で覆い、闇の中に浮かぶ双眸は赤く輝く。

 襲いかかる訳でも、逃げる訳でもない。ただ散歩しているかのように、猿の天魔はユフィーリアとショウの存在に気づくことなく彷徨っている。


「気づいていない? これだけ騒がしくしているのに」

「雰囲気も怪しいな。とんでもなく嫌な予感がする」


 ユフィーリアは大太刀を黒鞘にしまうと、


「この距離から殺す」

「そうだな。怪しい敵は討伐するに限る」


 即座に討伐を決めたユフィーリアに、ショウは同調する。そして彼は、赤い回転式拳銃を握り直した。ユフィーリアが仕留めた猿の天魔を、即座に火葬してやる為だ。

 大太刀のつばを親指で押し上げたユフィーリアは、視線の先に猿の天魔をしっかり置き、相手に認識される前に居合いを放った。

 猿の天魔とユフィーリアは、かなりの距離がある。大太刀を振り回したところで、決してその刃は猿の首まで届かない。

 しかし、これでよかった。彼女の攻撃は、距離すらも飛び越えるのだから。


 ――切断術。


 これこそが、ユフィーリアを最強たらしめる異能力だ。

 見えてさえいれば、距離・空間・硬度を無視してあらゆるものを切断する。逆に見えなければ切断術は発動されないが、見えない部分は相棒のショウが補ってくれるので特別問題視することはない。


「よし、これで――」


 確実に仕留めたと思った。

 どうせ次の瞬間には猿の体から首が転がり落ちて、相手は事切れると思っていた。

 大太刀を払って鞘に納めようとしたが、


「ユフィーリアッ!!」


 ショウの鋭い声。

 はじかれたように顔を上げれば、そこには先程まで遠くにいた猿の天魔が迫っていた。長い右腕を振り上げて、その先にある鋭い爪を掲げている。


「――――ッ」


 ほぼ反射だった。

 ショウの襟首を引っ掴んでユフィーリアは飛び退き、猿の天魔から距離を取る。猿が掲げた鋭い爪は虚空を掻き切っただけで、誰も怪我はしていない。


「ふしゅー……ふしゅー……ぐるるる……」


 唸り声を上げる猿は、ユフィーリアとショウをじっと見つめたまま動かない。観察しているのだろうか。

 ユフィーリアもまた、相手の出方を警戒して視線を外さないでいた。無理やり引きずった影響で目を回しているショウを背後で庇い、大太刀の先端を猿の天魔に突きつける。


「おいおい、どこの誰か知らねえがなァ。俺の術式が通じねえとか聞いたことねえんだけど」


 そう、聞いたことがない。

 ユフィーリアの異能力は、見えてさえいれば距離を飛び越える。硬度も空間も関係ない。切ったら再生するという性質でも持っていなければ、切断術は通じるはずだ。

 それなのに。


「――お前、なんで死んでねえんだよ?」


 ユフィーリアの問いに答えることはない。

 猿の天魔は夜空に咆哮を轟かせると、勢いよくユフィーリアに突進してきた。鋭い爪を振り上げて、ユフィーリアを傷つけようとしてくる。

 振り下ろされた鋭い爪を大太刀で受け止め、ユフィーリアは猿に足払いを仕掛ける。あっさりと体勢を崩した猿は地面を転がるが、赤く輝く瞳はなおもユフィーリアを睨みつけたままだ。


「ショウ坊!!」

「了解した」


 赤い回転式拳銃に祈りを捧げるように持ち直したショウの周りに、ごうッと紅蓮の炎が溢れ出す。

 紅蓮の炎は巨大な蛇の様相を取ると、大きな口を開けて猿に飛びかかった。


「ぐるるああああッ!!」


 猿は鋭い爪をぐるんと振り回して、飛びかかってきた炎の蛇の首を掻き切る。

 少し触れただけでも生きている相手を燃やし尽くすショウの炎だが、猿を燃やすことはできなかった。爪によって炎は掻き消され、僅かな熱が残るだけとなった。


「おいおい、嘘だろ……?」

「なんだと……」


 ユフィーリアとショウは呆然と呟く。

 異能力が通用しない天魔など初めてだった。切断したところから再生する天魔であればいざ知らず、ショウの炎すら無効化してしまうこの天魔は危険だ。あまりにも危険すぎる。

 猿の天魔はギラギラと輝く赤い瞳でユフィーリアとショウを睥睨へいげいし、


「――きゃきゃッ」


 この程度なのか、と言っているようだった。

 嘲笑されてもおかしくはない。攻撃をしても、相手を殺せないのだから。


「ショウ坊」

「ユフィーリア」


 互いの名前を呼んだユフィーリアとショウの考えることは、すでに決まっていた。

 ユフィーリアはショウを俵担ぎにし、ショウはユフィーリアに身を委ねる。


「「逃げるぞ!!」」


 猿の天魔に背中を見せると、ユフィーリアは脱兎のごとく逃げ出した。

 矜持など知らん。

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