第7話【大切な息子】

 秋が過ぎて、冬が訪れて、春の桜を二人で並んで見て、夏の花火大会は二人で巡った。

 大輪の花が咲く紺碧の空に見惚れる妻のサユリの横顔を、キクガは一生忘れることはないと思う。

 烏の濡れ羽色の髪を涼しげに纏め、その髪を飾るものは見慣れた桜色のとんぼ玉がついたかんざし。自分が働いて初めて貰った給金で買ったという簪を彼女はとても気に入っているが、誕生日に藤色の花飾りがついた簪を送ったら次の日からそれをつけるようになった。少しばかり気恥ずかしくなって、カナタにニヤニヤと笑われたことは鮮明に思い出せる。


「キクガさんにはこちらを」

「……狐のお面か?」

「はい。一目惚れしちゃいまして。このツンと澄ました顔が、キクガさんそっくりだと思いませんか?」

「……君がそう言うのだから、きっとそうなのだろう」


 清々しいほどの満面の笑みで狐のお面を差し出してくるサユリに、キクガは思わず笑ってしまった。「あ、笑いました!!」と彼女はとても嬉しそうにしていた。

 それから、彼女から送られた狐のお面はキクガにとっての大切な宝物となった。いつも頭につけていたら、やはりカナタからニヤニヤとした笑いを含めて「お熱いことで」などと言われた。問答無用で殴ったが。


「そういや、お前さんとこはもうそろそろじゃねェのか?」

「そうだな。彼女にはなるべく無理はしないでほしいと言っているのだが、茶屋で働いていた時の癖が抜けずに家事に専念してしまっている」

「手伝わねえのかい?」

「洗濯と掃除と買い物は私の担当だが、いかんせん、料理だけはどうにもならない。この前、サユリに代わって料理に挑戦してみようと思ったのだが、台所が大惨事になってしまって以来、私には接近禁止令が出ている」

「……お前さん、仕事でもなんでもそつなくこなしている印象だったが、料理だけは壊滅的にできなかったんだな。長い間、お前さんと一緒に過ごしてきたが初めて知った事実だ」


 アズマ家の縁側にて、紺碧の空に瞬く星々と青白い月を見上げながら酒杯を酌み交わすキクガとカナタ。

 苦笑するカナタから、キクガはそっと視線を外す。彼は自分の妻が身篭もっている時でも、きちんと自炊するぐらいに家事能力がある。家事能力がド底辺で、妻のサユリがいなければ生きることができないキクガとは大違いだ。


「それにしても、キクガよ」

「なんだ」

「お前さん、変わったな」

「なにが? どこが変わったと?」

「雰囲気が柔らかくなった。笑うことが増えて、お前さんの知り得ない部分が知ることができた。それに――」


 顔を覆い隠す黒い布の下から酒杯に注がれた清酒を飲むカナタは、


「サユリ嬢のことを呼び捨てで呼ぶようになった。――以前のお前さんなら考えられんことだよ」

「自分の妻を呼び捨てにしてなにが悪い? いつまでも嬢をつけて呼ぶと他人行儀な気がしてならないだろう」


 結婚をしてからわざわざ「サユリ嬢」などと呼べば、他人であることが強調されてしまう。家族となったのだから、他人行儀な振る舞いは避けるべきだろう。

 しれっとそんなことを言うキクガに、カナタは「ふーん?」とニヤニヤとした笑みで言う。


「だってよ、サユリ嬢。よかったなァ、思った以上に愛されてるぞ。ご馳走さん」

「なッ――」


 カナタがどこかに向かって言うので、キクガは思わず部屋へ振り返った。

 そこには酒のおかわりをお盆に載せて、こちらにやってこようとしている妻――サユリの姿があった。いつものように小豆色の着物を纏い、その上から割烹着を身につけ、髪を飾るのはキクガが送った藤色の花飾りがついた簪。いつもなら嫋やかな笑みを浮かべる彼女だが、今この時に限っては恥ずかしそうに顔を赤らめていた。

 そんな彼女の腹部は、大きく膨らんでいた。もうすぐでキクガとサユリの子供が生まれるのだ。


「え、あの、その、き、聞こえちゃいまして……ご、ごめんなさい……?」


 えへへ、とはにかむ彼女にキクガは細々とした声で訴える。


「…………忘れてほしいのだが」

「嫌です、絶対に忘れません、お父さんとお母さんに報告に行かなきゃ」

「ああああ…………絶対に墓参りへ行った時にお義母様がからかってくる……!!」


 あまりの恥ずかしさに、キクガはこんな時でも身につけている狐のお面で顔を覆い隠したのだった。


 ☆


 キクガは走っていた。

 目指す場所は病院――妻のサユリが担ぎ込まれたワノクニで一番大きな病院である。

 父について仕事に回っている最中、カナタがわざわざ術式まで使って駆け込んできて伝えてくれたことだ。ちょうどカナタの奥方と歓談しているところだったらしいが、唐突にお腹を押さえて苦しみ始めたらしい。

 非番だったカナタが急いで病院に駆け込んで、さらにキクガまで妻の異常事態を知らせにきてくれたのだ。感謝しても足りないぐらいだ。


「キクガよ、妻でありこれより母親となる彼女の元へ行きなさい。四神家しじんけの仕事など、私一人でどうとでもなる」

「そうそう。一生に一度しかない立ち会いなんだから、行くべきだ。お前さんの仕事は俺が代わりに手伝っておく。これでもナンブ家当主だぜ?」


 父のレンジとカナタに送り出され、キクガは妻の待つ病院へと急いだ。

 他の患者に気をつけながら病院に駆け込み、看護師を捕まえて「ここに妻のサユリが運び込まれたと聞いたが!?」と詰め寄れば、看護師は「たった今、元気なお子さんが生まれましたよ」とにこやかに伝えてくれる。


「母子共に健康です。安心してください」


 看護師の言葉に、キクガは膝から崩れ落ちそうになった。

 これでサユリの身になにかあれば、もし生まれてくる赤子の命が危うい状況にあったら、と考えると吐きそうになる。だが、どちらも健康に異常がないようでよかった。

 安堵の息を吐くキクガを、看護師はサユリが運ばれた病室に案内してくれる。今度は別の意味で緊張してきた。


「お母さん、お父さんがいらっしゃいましたよ」


 病室の扉を開きながら、看護師が部屋の中にいるサユリに呼びかける。

 そうか、もうキクガは父親となったのだ。レンジと同じ、父親の立場に。

 病室の中を覗き込むと、清潔感のある白を基調とした室内に母親となったサユリがいた。病院の服を纏い、やや疲れた様子の彼女は、白い布の塊を抱えている。病室を覗き込むキクガの存在に気づいた彼女は、微笑みながらキクガに手招きをしてきた。


「ほら、見てくださいな。あなたの息子ですよ」

「…………ああ」


 手招きされるがままにサユリへ近づき、彼女が抱える白い布の塊を見下ろす。

 布を掻き分ければ、自分とサユリの子供が規則正しい寝息を立てていた。キクガとサユリの息子である。


「君に似てほしいものだ。君に似て、朗らかで笑顔が似合う息子になってほしい」

「あら、私はキクガさんに似てほしいと思っています。キクガさんのように真面目で誠実で、他の人を悲しませないような子に育ってほしいです」


 キクガとサユリがそう話し合っていると、二人の会話を微笑ましそうに眺めていた看護師が「いいですね」と同意してくる。


「お名前はもうお決めですか?」

「――ええ、そうですね」


 どこまでも自由に羽ばたいていけるように、家にも文化にも縛られずに、自分の意思でこの世界を歩いて行けるように。

 二人で話し合って決めた、生まれたばかりの我が子に送る最初の贈り物。


「ショウ、生まれてきてくれたことに最大限の感謝と祝福を」

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