第8話【当主の座】

「キクガ」


 顔全体を黒い布で覆い隠した男が、いつもとは違って硬い声音でキクガの名前を呼ぶ。

 キクガは幼馴染みでありナンブ家の当主である男――カナタ・ナンブへ振り返り、


「どうした、カナタ」

「お前さん、本当にいいのかい? 天魔憑きは永遠に歳を取らない人でなしだ。特にお前さんの場合、事情が今までと違うだろう」


 通例であれば、アズマ家はサイオンジ家の女と結婚して子を成せばよかった。内部で完結した方が、余計な不安を抱かせないで済む。

 しかし、キクガはこの通例を破り、一般人であるサユリと結婚した。キクガにとっては当たり前のことだと思っていたが、サユリにとっては非常に悲しい未来を迎えることになってしまう。

 天魔憑きの最期は魂さえも消滅し、輪廻転生などない終わり方だ。歴代の契約者を覚えているのは、契約した天魔ぐらいのものだろう。キクガもいずれは、息子であるショウが成長したら彼に当主を引き継がせると同時に、この世から永久に消滅することとなる。


「君は優しいな、カナタ」

「……これが一般的な思考だろうに」

「だが、当主の道は私が自分で選んだものだ。後悔もないし、サユリも承認してくれている」


 いつか自分が人でなしとなり、魂が永久に消滅する未来が決定されていても、その僅かな時間を隣で過ごしてほしいとキクガは願った。サユリも、それを承認した。

 だから、キクガは後悔などしていない。恐怖も、悲観もしない。

 これは、自分で選んだ未来なのだから。


「私がいずれ消えたとしても、私は妻と息子の記憶の中で生き続ける。そう考えた方が、いっそ楽な気がしてきた」

「……お前さんは、本当に変わったな」

「そうだろうか? 父親になってから、少しばかり落ち着いたのかもしれないな」


 息子のショウが生まれてから、キクガは彼にとって恥にならないような父親になろうと決心した。

 今までは気に入らないことや理不尽なことがあれば拳で黙らせようとしていたが、サユリと出会い、彼女と結婚し、息子が生まれてから本当に変わったと思う。過去の自分が今の自分を見れば驚くだろう。

 自嘲するように笑うと、キクガは「カナタ」と幼馴染みの男の名を呼ぶ。


「天魔憑きになったとしても、たまには共に酒を飲むことは許されるだろうか?」

「……当たり前だろ。何もかもが化け物になる訳じゃねえ。人の輪から外れちまったとしても、根っこはやっぱり人間なんだよ」

「そうか。君は聞き上手だから、サユリにはあまり聞かせたくない弱音が吐ける」


 キクガはそう言うと、カナタに背を向けた。

 視線の先には、僅かな光さえも差さない完全な闇がどこまでも続いていた。夜の闇よりもなお暗く、黒く、静かで恐ろしい世界が広がっている。

 キクガの格好も、いつもと違っていた。喪服を想起させる黒い着物ではなく、その逆――さながら死者と同じような白装束である。艶のある黒い髪は完全に解いた状態で、キクガの背中を流れている。

 これより行われるのは、当主となる儀式――すなわち、天魔の契約の引き継ぎである。


「それでは、カナタ。行ってくる」

「――おう、天魔に舐められんじゃねえぞ」


 カナタに背中を押され、キクガは「舐められるような発言はしないさ」と返して闇の中に足を踏み入れた。


 ――とぷん。


 さながら水の中に沈むような感覚に包まれ、あらゆる雑音が消える。

 心臓の音さえ聞こえてきそうな静謐せいひつに満たされた闇の中を掻き分けるようにして進むと、キクガの両脇に石灯籠が出現する。その石灯籠には人の名前が刻み込まれ、その内側ではゆらゆらと小さな炎が闇を照らす明かりを落とす。

 キクガは石灯籠に刻まれた人名に視線を走らせる。誰も彼も、アズマ家の歴代当主の名前だった。


「きたか」

「――父上」


 八三にも及ぶ石灯籠による道を通ってきたキクガは、その奥で待ち構える巨大な石灯籠の前に立っていた父――レンジと対面する。

 巨大な石灯籠を背負うレンジは、闇の中でも色鮮やかさを失わない赤い瞳を音もなくすがめて笑う。


「逃げずにくるとは、全く立派に成長したものだ」

「アズマ家当主を引き継ぐことは、私自身が決めたことです。妻も承認してくれています」

「お前の最期が決していいものではないと言うのに、あの娘は本当にいい娘だ」


 レンジは、ゆっくりと右手を差し出す。

 その手のひらに紅蓮の炎が灯り、瞬く間に紅蓮の炎は赤い回転式拳銃リボルバーを形成した。手の中でレンジは回転式拳銃をくるりと回すと、銃把をキクガに突き出してくる。

 キクガは説明されるより先に、レンジが差し出した赤い回転式拳銃を受け取った。炎から作られただけあって、その赤い回転式拳銃は燃えるような熱を持っていた。


【――ほう、レンジよ。此奴こやつが新たな当主か?】

「そうだとも」


 どこからともなく聞こえてきた嗄れ声に、キクガは顔を上げる。

 声の主はレンジが背負う巨大な石灯籠の上――喪服を想起させる黒い着物と赤いかすり模様が特徴の羽織を肩からかけた格好の青年が腰かけていた。若々しい見た目とは対照的に、まるで老爺のようなしゃがれ声で【ふぅん】などと言う。

 いつのまに、そこにいたのだろうか。それとも、最初からそこにいたのか。


【歴代の契約者とは違い、貴様の魂はなかなかに上質なものではないか。レンジの奴も晩年は気高い魂を持っていたが、いやはやここにきてようやく儂にも運が回ってきたか】


 石灯籠の上に腰かける青年は、鮮烈な印象を持つ赤い瞳を煌めかせる。じっと高みからキクガを見下ろし、それから引き結ばれていた口元をゆっくりと開いた。

 そこから漏れたのは、紅蓮の炎。なるほど、アズマ家が口元を黒い布で覆い隠すのは、彼が口から炎を吐くことになぞらえているのか。口から吐く炎を覆い隠す為、黒い布で口元を隠すのだ。


「キクガ、アズマ家をよろしく頼むぞ」

「はい、父上」

「それと」

「なんでしょう」


 赤い回転式拳銃を構えたキクガを真っ直ぐに見据えて、レンジは微笑んだ。


「孫の顔を見せてくれて、感謝する。――長くもあり、短くもあるお前の人生に、幸多からんことを」

「――ええ、父上。私を育て、当主としての教えを授けてくれたこと、ありがたく思います。今までお疲れ様でした。アズマ家はこれより、私に任せていただきたい」


 キクガは、迷わず赤い回転式拳銃の引き金を引く。

 カチンと撃鉄が落ちる音。だが、銃口からは銃弾は放たれず、代わりにレンジの全身が紅蓮の炎に包まれる。レンジは苦しまず、断末魔すら上げずに炎の中に消えた。

 父の姿が完全に燃え尽きると、レンジと名前が刻まれた石灯籠にポッと小さな炎が灯る。それと同時に、レンジの名が刻まれた石灯籠の対面に新たな石灯籠が出現した。

 キクガ。

 その石灯籠には、自分の名前が刻まれていた。


【これで貴様は八四代目当主――そして儂の契約者だ。その気高き魂を潰さぬよう、せいぜいこのしがらみだらけの世界を生きるがいい】

「ああ。よろしく頼むぞ、【火神ヒジン】」


 ところで、とキクガは赤い回転式拳銃を掲げ、


「武器の変更は可能か?」

【あん? 綺風アヤカゼの形状が気に入らないと? 他の葬儀屋一族も同じような重火器の形だがな】

「非常に恥ずかしい話ではあるが、私は射撃の能力が全くなくてね。父から手解きは受けているが、あまりの能力の低さに匙を投げられたほどだ」


 キクガは申し訳なさそうに、


「せめて前衛武器であればいいのだが」


 青年――【火神】はやれやれとばかりに肩を竦めた。


 ☆


「お帰りなさい。お疲れ様でした」

「ああ、ただいま」


 少しだけ広くなった自宅に帰ると、妻のサユリがすぐに出迎えてくれた。

 彼女は「お義父様は無事に逝かれました?」と問いかけてきて、キクガはなにも言わずに首肯で応じる。


「君はなにも変わりはないか?」

「ええ。ショウも今はぐっすり眠っていまして……あの子は本当によく眠る子ですよ」


 くすくすと笑うサユリはいつもと変わらない雰囲気だ。

 人の輪から外れ、ついに天魔憑きとなった自分を前にしても、怖気付くことなく彼女は笑ってくれている。その事実に、キクガはひどく安堵した。


「……あら?」

「どうかしたのかね」

「キクガさんの瞳、お義父様と同じように赤いですね」


 キクガの目を覗き込むサユリは小さく微笑むと、


「とても綺麗です」


 父であるレンジの跡を引き継ぎ、天魔憑きとなったキクガは黒い瞳から赤い瞳に変貌を遂げた。瞳だけではなく、舌に炎の刺青も刻まれている。これからは口元を隠して生活しなければならないのだろう。

 しかし、それでも彼女は気にしないでいてくれる。――表面上であったとしても、それでもいい。


「君がそう言うなら、そうなのだろうな」


 キクガがそう言うと、サユリは綺麗に微笑んだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る