序章【傀儡の王は亡国に君臨する】

 平和だった。

 それが落ちてくるまで、確かにこの世は平和だった。

 いきなりそれが落ちてきて、平和は瞬く間に崩れ去ったのだ。

 すなわち。


 天魔てんま


 鉄錆てつさびの臭いが充満している。

 壮麗な玉座の間は血が飛び散っていて赤く染まり、その中で生きながら化け物と対峙しているのは一人だけだ。

 国を治めていた若き王である。宝石は鮮血を浴びて輝きを失い、その顔にもべっとりと誰かの血を付着している。懸命に恐怖を押し殺し、彼は震える手で女性を抱きしめていた。

 血に沈む金の髪。美しい面立ちは女神のようであるが、顔色が果てしなく悪い。豊満な肢体に纏ったドレスは血に染まり、その腹は食い破られていた。


「おお、おお。まだ心が死なないとは驚いた。国民だけではなく、家臣や御前の家族まで殺してやったというのに」


 玉座の間にやってきた悪魔は、両手に付着した血を舐め取りながら言う。


「なんとも情けない顔よなぁ。王としての威厳など、ないようなものではないか」

「…………」


 女性を抱きしめる王様は、悪魔を睨みつけることしかできない。

 ふー、ふー、と荒々しい息を吐き出して、憎しみと怒りと悲しみと恐怖を押し殺す。それでも恐怖だけは表面に出てきてしまうのか、ガタガタと震える体だけはどうにもならない。


「さあ、その玉座を明け渡せ。御前にその椅子は似合わない、そこは我輩にこそ相応しい場所だ」

「…………姿形などない亡霊如きが、国王の椅子に座ると? どうやって座るつもりだ」


 ようやく、国王は悪魔に言い返すことができた。

 両手は血で染まり、愉悦の表情を浮かべているものの、全体的に黒いもやのような存在なのだ。目の前の悪魔は、とても血濡れの椅子に座るなどできるだろうか。

 爛々らんらんと輝く悪魔の赤い瞳を真っ向から睨みつけ、国王は毅然と言い放つ。


「国王の椅子などくれてやる。交換条件だ。――我が妻と娘を蘇らせろ!!」


 悪魔はその交換条件に、ニィと歪んだ笑みを見せた。


「いいだろう。この【傀儡王クグツオウ】を従えると言うのか、面白い」


 ただし、と悪魔は国王に詰め寄ると、


「元通りに生き返ると思うなよ、愚か者。天魔に常識や良心など、これっぽっちもないからな」

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