第5話【記憶の回廊・上】

 ――それは誰の記憶だったか。

 気がつけばショウは、真っ暗な中に立っていた。上を見ても下を見ても左右どこを見ても、一寸先が見えないほどの闇が広がっている。

 これほどの深淵が広がっていると、思い出してしまうのは実家での『調教』だった。痛くて寂しくて苦しくて、思い出したくない記憶がよみがえってしまう。

 膝をつきたくなる恐怖が忍び寄ってくるショウの前に、一枚の鏡が出現する。その鏡は姿を映す為のものではなく、どこかの世界がすでに投影されていた。


「――ここは」


 ショウは鏡の中を覗き込んでみる。

 そこは、森の中だった。背の高い木々が生えている森であるが、陽の光が適度に差し込んで明るく照らしている。爽やかな風が吹き、散歩でもすればいい気分になれるだろう。

 そんな森の中を、疾走する少年が一人。

 年の瀬は一〇歳にも満たない子供で、艶のない黒髪をなびかせて懸命に走っている。その手には竹刀が握られていて、少年は長い前髪の隙間から見える黒い瞳でどこかを睨みつけた。玉のような汗が浮かんでいるが、それらを気にした様子もなく睨んだ先に竹刀の先端を突きつける。

 しかし、


『おっせえぞ、馬鹿弟子ィ!!』

『いっだァ!!』


 木の上から飛来したなにかが、黒髪の少年の脳天を竹刀で打ち据える。バッシイイイン!! と明らかに痛いと分かる音がした。

 思わず鏡の向こうから傍観しているショウも、顔をしかめてしまう。頭に痛みを感じたような気がして、ひっそりと頭を押さえてしまった。


『なーにすんだ、この腐れジジイ!!』

『だーれが腐れジジイだ!! 師匠と呼べって言ったろうがィ、馬鹿弟子ィ!!』


 空から飛来してきたのは、少年が言うほど年老いた人間ではない。三〇代から、多く見積もっても四〇代前半ぐらいの男だろう。

 白金色の髪に褐色の肌、その瞳は琥珀色をしている。体つきはしなやかであり、適度に筋肉もつけられた戦闘の為に徹底的に鍛えられている。何故か甚平じんべいをまとった彼は、竹刀でパシンパシンと肩を叩きながら頭を押さえてうずくまる少年に歩み寄る。


『なに座り込んでんでィ、とっとと立て。オメェ、こんなところでつまづいてどうすんでィ』

『ッざけんなよ!! 手加減とかねえのか!? 俺のこと何歳だと思ってる!?』

『えーと、何歳だったっけ?』

『八歳だよ馬鹿野郎!! ついに弟子の年齢まで言えねえぐらいにボケたか、この耄碌もうろくジジイめ!!』


 少年は、大人相手に負けじと噛みつくように叫んだ。なかなか度胸のある少年のようである。

 黒曜石の瞳に涙を滲ませた少年は、やはり諦めることはしないようだ。竹刀を握りしめると、褐色肌の男と向き合う。


『クソッタレ。どうせここで諦めんなとか言うんだろ』

『分かってんじゃねえかィ、馬鹿弟子』


 褐色肌の男もまた、竹刀を握り直した。その表情は嬉しそうであり、どこか見覚えのある笑い方だった。

 獰猛な肉食獣を想起させる笑みは、ユフィーリアがよく戦場で敵を目の前にすると見せるもので。


「まさか、ここに映っているのは……」


 少年と男の竹刀の打ち合いを見せる鏡に顔を近づけ、食い入るようにその世界を観察する。

 言動こそ違うものがあるが、少年のつたない刀の使い方に見覚えがある。あれは、ユフィーリアの戦い方ではないだろうか。


……?」


 すると、唐突に鏡が消え失せる。

 前につんのめりそうになったショウはなんとか体勢を立て直し、消えた鏡を探して視線を彷徨わせる。

 どこまでも深い深淵の中に、再び鏡が浮かび上がる。鏡へ駆け寄ると、先程とは別の光景が映し出されていた。


『師匠、しーしょーおー。――おいコラ馬鹿師匠!! お前が飯作れって言ったんだろうが!! さっさと起きやがれ!!』

『う、うあー……飲み過ぎたィ……水……水をくれェ……』

『また飲んできたのかこの馬鹿!! 今度はどこで飲んできやがった!?』


 鏡の向こうに広がっているのは、どこかの小屋のようであった。温かみのある部屋には必要最低限の家具しか置かれておらず、少しだけ成長したらしい黒髪の少年がソファで寝転がる褐色肌の男を叱りつけているところだった。

 八歳の時の少年とは違って、髪も身長も伸びた。長めの黒髪を粗雑な材料で編んだらしい髪紐で結い、黒曜石の瞳を吊り上げて少年は怒りを露わにする。起きようとしない褐色肌の男にとうとう我慢の限界が訪れたらしい少年は、男の耳を乱暴に掴んで引っ張った。


『いだだだだだだだ!? な、なにすんでィ馬鹿弟子!! お師匠様の耳を大切にしろィ!!』

『だったら師匠らしくしろよ。修行以外だと酒飲んでぐうたらしてるだけじゃねえか』

『ンだとォ? オイラはこれでも多忙の身でィ。今日はたまたま……』

『言い訳してる暇があるんだったら飯を食えって言ったろうが。食器が片付かねえんだよ。誰が片付けると思ってんだ』


 無理やり褐色肌の男を叩き起こして、少年はため息を吐いた。

 ボサボサになった白金色の髪を掻いた褐色肌の男は、仕方なしに食卓へ向かう。小さな木製のテーブルに並べられた白い深皿には、なにやら白い液体のようなもので満たされていた。一緒に野菜も溶けていて、見ているだけで食欲を唆られる。

 褐色肌の男は、食卓に並べられた料理を眺めて『へえ』と感心そうに頷いた。


『上達したじゃねえかィ』

『毎日作らされてりゃ嫌でも上達するっての』


 褐色肌の男の向かいに悪態を吐きながら座った少年は、両手を合わせて『いただきます』と言う。

 意外だ、とでも言いたげな表情で固まる褐色肌の男に、少年はジロリと睨みつけた。


『…………なんだよ』

『いや、一緒に食うんだなって』

『どうせ一人で食ったら「お師匠様を一人にするんじゃねえやィ」とか文句言うんだろうなって思っただけだ。勘違いしてんじゃねえぞ、お花畑師匠』


 そう言う少年の深皿に入れられた白いスープの量は少ない。まるで、一度食事をしたあとにもう一度同じ食事を摂るかのように。

 少年の気遣いか、はたまたそうしなきゃ食事が美味しく感じなかったか。平然と量の少ない二度目の食事をし始める少年に、褐色肌の男は噴き出した。


『オメェは本当に馬鹿だな、馬鹿弟子』

『うるせえぞ、馬鹿師匠。黙って食え』


 どうせ師匠には見透かされているのに、少年はそれを感づかれないようにしている。その姿がなんともいじらしい。

 思わず傍観しているショウも微笑んでしまったほどだ。この少年がユフィーリアだと仮定すると、随分と可愛い時期もあったものだ。

 再び鏡が闇の中に消えると、また別の場所に出現する。覗き込んでみると、今度は傷だらけになった少年と褐色肌の男が向かい合っていた。


『…………オメェよ、喧嘩するのはいいけど相手を見極めろィ。お貴族様のせがれをボコボコに殴ったらしいじゃねえかィ』

『……………………』

『なんか理由があんなら聞いてやらァ。とっとと話せ。オメェの監督不行届きってんで、オイラも街の連中から怒られんでィ』


 褐色肌の男も不機嫌そうだった。弟子である少年の後始末を、師匠である自分がしなければならないと思っているのだろう。心底面倒くさいという顔をしている。

 ぶすっとした表情でそっぽを向いていた少年だが、師匠である褐色肌の男の視線に気圧されてボソボソと話し出す。


『…………が、言ったんだ』

『あ? 聞こえねえよ腹から声出せィ』

『あいつらが、師匠のことを悪く言ってたんだ。許せるかよ』


 少年の思いがけない喧嘩の理由に、褐色肌の男は言葉を失ったようだ。


『あいつら、師匠のことを飲んだくれだの酔っ払いだの……挙句には剣を持ってるけど弱いんだろうとか言いやがる。あいつらに師匠のなにが分かるってんだ』


 少年がそっぽを向いていたのは、なにも反抗している訳ではなかった。ただ、喧嘩の理由を言うのが恥ずかしかっただけなのだ。

 師匠である男の正しさを証明する為の、無意味な喧嘩。ただしそれは、弟子である少年にとってはなによりも許せないことだったのだ。


『……うははッ』

『うわ、ちょ、やめろ師匠!!』


 唐突に笑った男が、少年の頭を乱暴に撫でる。ぐわんぐわんと頭を揺さぶられて、黒い髪も容赦なく乱される。

 しばらく好き勝手に少年を撫で回していたが、彼の『やめろ!!』という絶叫と共に触れ合いは終わった。少年は男を睨みつけ、乱された髪を整える。


『馬鹿弟子、オメェは気にすんな。言わせたい奴には言わせておけばいい。オメェが気に病む必要なんざ、なに一つねえんでィ』

『でも、親を馬鹿にされて無視できる子供がいるかよ』

『それもそうか。――じゃあ、あれだ。


 褐色肌の男は腰からいた白鞘の太刀を見せつけると、


『ちょっとそのクソガキどもをボコボコにしてくらァ』

『やめ、やめろ師匠、俺が病院送りにしちゃったから、とどめはやめてあげろって師匠聞けよ!!』

『止めんじゃねえやい馬鹿弟子ィ!! 我が子がボコられて黙って見てる親があるかァ!!』


 どたんばたん、と激しいやり取りの末、師弟による取っ組み合いは収まった。何故か喧嘩した時よりも少年はボロボロになっていた。

 そのやり取りが微笑ましく、ショウも真剣に成り行きを見守った。

 鏡が消えて、別の鏡へ。主役である少年はさらに成長を遂げ、ついにはショウと同い年ぐらいになった。剣術大会で優勝したようで、表彰台の一番高い場所に立っている。

 二位にいる少年が一位の少年を悔しそうに睨みつけるが、少年はそんな彼へあかんべーをしていた。たくさんの称賛を浴びる少年に、どこからか『ばーかーでーしィ!!』とやはり聞き覚えのある声が届く。


『見ろよ師匠、優勝ぶげえッ』


 一位の少年が、褐色肌の男に飛び蹴りされて吹っ飛ぶ。

 二回転半ほどして地面に顔面から落ちた少年は、鼻から垂れる血をそのままに師匠たる男に噛みつく。


『なーにすんだ馬鹿師匠!! 蹴り飛ばす奴がいるか!?』

『ばーかーでーしィ!!』

『ぎゃあああああ!!』


 褐色肌の男は少年を追いかけ回し、何故追いかけられるのか見当もつかないらしい少年は絶叫を上げて逃げ出す。

 追いかけている男は何故か楽しそうなので、あれでも祝っているつもりなのだろうか。周辺がざわめく中で、少年は逃げずに師匠へと立ち向かうことを決意する。黒曜石の瞳をキッと吊り上げて、


『ばーかーでーしィ』

『いい加減にしろ馬鹿師匠!!』


 助走をつけた少年の飛び蹴りが、褐色肌の男の顔面に炸裂する。衝撃で背筋を大きく仰け反らせた男は、そのままバッタリと倒れてしまった。

 しかし、蹴飛ばされたというのに男は笑っていた。盛大な笑い声を響かせる。


『うはははは!! うはははははははははははッ!!』

『飲んでんのかよ師匠』

『バッキャロー、まだほんの三杯ぐらいしか飲んでねえよィ』

『十分飲んでんじゃねえか酔っ払い!!』


 少年が肩を落とし、地面に転がったまま男は笑っている。弟子である少年も、もうこの男にはなにを言っても無駄だと諦めているのだろう。

 寝転がったままの男を置いてどこかへ歩き去る少年を、男が慌てて追いかける。『どちら様ですか』『師匠に対して冷てえ弟子だなァ!?』というやり取りが遠くの方で聞こえた。


「賑やかなものだな」


 ショウは羨ましく思った。

 子供の頃の記憶はうろ覚えで、これほど賑やかではなかった。ただ暗くて冷たい記憶しかなくて、だから少年がひどく羨ましい。

 鏡が消えて、別の鏡へ。今度は最初に見た森の中で、先程とは随分と成長した少年がまきを割っているところだった。鍛えられた肉体を惜しげもなく晒し、少年は器用に薪を割っていく。


「次はどのような話だろうか」


 少年の軌跡を辿るショウは、鏡の中を覗き込む。

 その鏡に映された世界は、それまでの世界と一変して悲劇となることも知らずに。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る