第3話【ゼルム雪原】

 ひやりとした空気が肌を撫で、ユフィーリアは微睡まどろみから目覚める。

 思った以上に馬車での移動が快適で、ユフィーリアはいつのまにか眠ってしまったようだ。音もなく、振動もそれほどないので、眠るのに最適な環境だったのだ。


「…………?」


 座った状態で眠っていたはずが、何故か今は横に倒れている。そしてついでに、なんか頭の下に柔らかいような、弾力のあるなにかが敷かれていた。適度に温かく、再び微睡みの中へ引きずり込まれそうな温もりがある。

 頭の下に敷かれているなにかを試しに揉んでみると、それはもぞりと動いた。はて、これは動くのか。さらに揉んでみると、くすぐったそうに身じろぎすると同時に、涼やかな声が起き抜けのユフィーリアの耳朶に触れた。


「……あまり揉まれると、その、くすぐったいのだが」


 視線を上へやれば、ユフィーリアの顔を覗き込んでいる赤い瞳と目が合った。鮮烈な印象を与える赤い瞳とユフィーリアの青い瞳が交錯し、そしてようやくユフィーリアは状況を飲み込んだ。

 正座をしているショウの膝の上で、ユフィーリアは眠っていたようだ。そしてこれはぴちぴちの一五歳の少年の膝枕であり、あとなんかちょっといい匂いもした。ついでに能面のような無表情とはいえ、ほんの少しだけ恥ずかしそうにしている僅かな表情変化のおまけつきだ。

 ――わあお、眼福。

 いや、そうではなく。


「……あー、悪い」

「問題ない」


 むくりと上体を起こし、ユフィーリアはボサボサの銀髪を掻く。それから目覚めの一服だと外套の内側から煙草の箱を取り出して、黒い煙草を咥えた。

 ようやく買えた真新しいマッチで火を灯すと、薬品めいた匂いを孕んだ紫煙をゆっくりとくゆらせた。味覚障害を引き起こすほどの苦味を舌の上で転がしていると、ショウがなんとはなしに質問を投げかけてくる。


「その煙草は、美味しいのか?」

「不味い」


 断言した。

 そして即答だった。

 ユフィーリアは、なるべくショウに毒素を含む副流煙がかからないようにとそっぽを向きながら、


「お前は吸うモンじゃねえぞ。味覚が馬鹿になる」

「それなら、貴様の味覚はすでに麻痺しているのか?」

「そこまで壊れちゃいねえけど、薄味は分かんねえな。高級料亭の料理とか、もうなーんにも感じねえ」


 やれやれと肩を竦めるユフィーリアに、ショウは続けてきた。


「マッチは常に買っているのか?」

「まあな。確か人間様が『ライター』ってのを開発したみてえなんだけど、あれ値段が目ん玉飛び出るぐらいに高かったなァ。あんなの買うぐらいなら賭博に金をかけるわ」


 特にオイルライターには大変興味があったのだが、ものすごく値段が高かった。給金三ヶ月分は余裕でした。

 そんなものを買う為の余裕などユフィーリアにはなく、安価なマッチでいいやという結論に至った。そもそも天魔憑てんまつきの喫煙者の中ではいまだにマッチが主流であり、人間様が開発した全てのものは高尚すぎると割と捻くれた受け止め方をしている。

 ショウはなにを考えたのか、ポツリと「……なるほど、ライターか」と呟いていたのだが、彼がなにを考えているのかユフィーリアが知る由もなかった。


【お二人さーん、もうそろそろ到着するッスよ】

「もうゼルム雪原の付近かよ。早いなァ」


 黒い煙草を咥えたユフィーリアが、馬車の荷台を覆うほろを持ち上げて景色を確認する。

 王都付近のほのぼのとした見慣れた風景はどこへやら、雪が積もる霊峰がいくつも連なる荘厳な雰囲気をまとう世界と変わっていた。肌を撫でるひやりとした空気はここが永久凍土と呼ばれる世界だからか、それともユフィーリアとショウを乗せた馬車が高高度を悠々と飛んでいるのが原因か。

 ――このスレイプニルという使い魔、どうやら空を飛ぶことができたようで、王都からゼルム雪原まで普通に馬車を飛ばせば一週間以上はかかるとされているのに、数時間程度で到着してしまうのはそれが原因だろう。


【ここがゼルム雪原ッスよ。グローリアの出身地ッス】

「え、あいつこんなクソ寒いところで生まれたの?」

【そーッスよ。だからやたらとゼルム雪原に詳しいんスよ】


 八本足の馬――スレイプニルを介して、スカイの気の抜けるような声が寒空に響く。

 スレイプニルは主人の言葉に反して元気ないななきを上げたが、それでも彼の言葉は続いていた。


【なんか知らねーッスけど、やたらと思い入れがあるみてーなんスよね。前に一度だけ話題を出したことがあるけど、出身地以外のことは語らなかったッス。アイツと一緒の出身地なんて早々にいねーんで、詳しくは聞けなかったッスけど】

「…………ふーん」


 少しだけ間を置いてから、ユフィーリアは適当に返事をして話題を切り上げた。

 グローリアの出身地。

 この極寒の地が、まさかあの天才と呼ばれる司令官の根幹となっているとは思わなかった。どこからどう見ても雪と氷しかない白銀の世界で、彼はどうやって生まれ育ったのか。

 いつのまにかユフィーリアの隣から純白の霊峰を覗き込んでいたショウが、


「……この世界に捨て去られた、という可能性もある」

「それなら納得できるな」


 聞きたいことは多々あるが、それでも時間は進んでいく。

 虚空を悠々と駆けていくスレイプニルは、第零遊撃隊の二人を極寒の地へ下ろす為に高度を下げていくのだった。


 ☆


【到着ッス】

「…………春?」


 馬車の荷台から降りたユフィーリアとショウが目の当たりにした世界は、雪が完全に溶けて短い雑草が生えた大地が露出したゼルム雪原だった。

 雪原と呼ばれているぐらいだから多少は雪が残っているのかと思いきや、雪など全く残っていなかった。全て溶けて消えたおかげで地面はぬかるみ、歩くたびにぴちゃぴちゃと水の音が聞こえてくる。

 足場の悪い大地に美しい顔立ちを顰めさせたユフィーリアは、今まさに飛び立とうとしているスレイプニルを引き止める。


「乗せてって」

【調査だって言ってたッスよね。馬車に乗ったまま調査とか聞いたことないッス】


 じゃ、と八本足の馬の使い魔を介してスカイが断り、颯爽と馬は青空へと飛び立っていった。再び自由に大空を駆け回る馬の後ろ姿を見送ったユフィーリアは、ポツリと「切断術でも叩き込んでやればよかったかな」と呟いた。スカイの使い魔を殺してやろうと決めた時には、すでに馬の姿は見えなくなっていたが。

 革靴がびちゃびちゃに濡れた地面に浸潤していくことに嫌悪感を示したのか、ショウの美貌も僅かに歪められている。不機嫌そうな彼はふと空を見上げて、


「ユフィーリア、大変だ」

「なにが」

「天魔が降ってきている」

「それはいつものことだろ。……まあゼルム雪原だと考えられねえか」


 今までは猛吹雪によって、空から降ってくる天魔は寒さに耐性がない個体以外は凍り付いてしまうほどだった。まさしく永久凍土の名を冠するだけはある。

 しかし、現状では雪が溶けた状態であり、加えて寒さもそれほど感じない。永遠に続くはずの極寒の地に春がやってきたのだ。天から降り注ぐ雑魚の天魔にとっては、これ幸いとばかりに侵略を開始するだろう。

 ユフィーリアは短くなった黒い煙草を足元に落とすと、泥と一緒に踏みつけた。水を含んだ土によって、煙草の火は一瞬にして掻き消える。


「とりあえず、今は相手をしてる暇はねえ。とっととゼルム雪原に昔からいる天魔ってのを探すぞ」

「了解した」


 ぬかるんだ地面に足を取られないように、ユフィーリアとショウは慎重に歩き始める。

 空から降ってきた天魔は「ひゃっはー」「寒くねえ!!」「あったけえなァ!!」などと歓喜の雄叫びを上げながら、ぬかるんだ地面に足を取られて盛大にすっ転んでいた。無様である。


「にしても、ゼルム雪原に昔からいるってこたァ最古の天魔の一体なのかね。どう思うよ?」

「吹雪を意図的に起こしていたのだから、きっとそれなりの実力を持っているのだろう。経験上、そういった個体は対話が可能だ」

「美人だったらいいなァ」

「……もし醜悪な天魔だったらどうするつもりなのか」


 そんな他愛ない会話を繰り広げながら、ユフィーリアとショウはゼルム雪原の奥地を目指して突き進む。極寒の地と呼ばれていた面影はなく、ただ長閑のどかな風景がどこまでも広がっているだけだ。

 ――そう思っていた。


「ぶえっくしょい!!」

「……くしゅッ」


 ユフィーリアは豪快に、ショウは随分と可愛らしく、二人揃ってほぼ同時にくしゃみをした。

 肌を撫でた冷たい空気が原因だが、ゼルム雪原の奥地へ進んでいくにつれて気温が下がっているような気がしたのだ。秋に差しかかろうとしているのに、まるで春のような麗らかな陽気とは対照的に、歩き進んでいくとひやりとした空気を感じるようになった。

 身震いをしたユフィーリアは外套の襟を引っ張り上げて、少しでも暖を取ろうとする。寒暖差には多少の耐性があったはずだが、まさかこの寒さこそがゼルム雪原の本来の気温なのか。


「ショウ坊、大丈夫か?」

「問題ない」


 一方のショウは、シャツに細身のズボンという防寒具もクソもない、どこからどう見ても極寒の地にはふさわしくない格好をしているのだが、けろっとした様子だった。

 ユフィーリアの怪しむような視線を受けて、ショウは薄い胸板を自信ありげに叩く。


「俺には【火神ヒジン】がいる。もとより体温が高い」

「…………」


 ――そういえばこいつ、八雲やくもの爺さんのところで泊まった時に抱き枕代わりにしたけど、ものすごく暖かかったような気がする。

 神宮『斗宿ヒキツボシ』での様々なやり取りを思い出して、ユフィーリアはポンと手を叩いた。


「ショウ君ショウ君」

「……その怪しい手の動きはなんだ?」

「ちょっと暖房代わりになってくんない? 具体的に言うと抱きつかせて」

「別に構わないが、抱きついたままだと歩きにくくないか?」


 …………ん?

 まさかの返答があって、ユフィーリアは我が耳を疑った。

 抱きついてもいいかという質問に対して、ショウの回答は「別に構わない」というものだった。以前のショウなら考えられない返答だった。

 これって絶対に顔を真っ赤にして「拒否する!!」と叫ぶか、もしくはドン引きの視線と共に距離を取られるかと思ったものだが。

 予想に反してショウの反応は寛容なもので、ご丁寧にも両腕を広げて抱きつき態勢万全の状態ときた。自分で言っておいてあれだが、本気でやるのかと思うと恥ずかしくなってきた。


「…………前の時と随分反応が違くない?」

「前の時と?」

「神宮『斗宿』で抱き枕にした時」

「あの時は貴様が痴女のような格好をしていた上、同衾どうきんしようとしてきたではないか。それとこれとは違うだろう」

「マジかよ、開き直るとすげえな」


 自分の意思を持ち始めたお人形は恐ろしいものである。

 今更「冗談だ」とも切り出すことができず、ユフィーリアは仕方なしにショウの細い腰に抱きついた。きちんとこの薄い腹の中に内臓が詰まっているのかが不思議に思えてくるぐらいに、ショウの体躯は細く華奢なものだった。服越しに体の温かさが伝わってきて、抱きしめているうちに眠気が誘われてくる。

 思った抱き方ではなかったのか、それともこの状態からどうやって歩き出すのか考えているのか、ショウは不思議そうに首を傾げた。「……大丈夫か?」などと心配してくるが、全然問題ない。温かすぎて逆に眠いぐらいだ。


「……ところで」

「んー」

「後ろの奴はどうすればいい?」

「…………」


 もう少し現実逃避したかったが、ユフィーリアはゆっくりと顔を上げる。

 ショウの背後に、立派な毛皮を有する狼の天魔が佇んでいた。あれを剥ぎ取って外套にでもしたら温かそうなものだが、今はそんな問題ではない。


「逃げるぞ、ショウ坊!!」

「抱きかかえなくても逃げられるのだが」

「うるせえ、いいから抱かれてろ!! あったかい!!」

「それはなによりだ」


 ショウを俵担ぎにして、ユフィーリアは走り出した。ぬかるんだ道などなんのその、風のような速さでもって春が訪れたゼルム雪原を突っ走る。

 狼の天魔は左右に裂けた口から涎を垂らして、逃げるユフィーリアを追いかけてくる。肩に感じる確かな温かさを享受しながら走るユフィーリアは、


「ショウ坊、頼む!!」

「了解した」


 抱きかかえられた状態でも狙いを外さない卓抜した射撃の腕前を持つショウは、右手に一挺の回転式拳銃を呼び出して、追いかけてくる狼の天魔へ向けて火球を見舞った。やはり寸分の狂いもなく火球をぶち当てられた狼の天魔は、温かそうな毛皮ごと燃やし尽くされた。

 無様な断末魔からも逃げるユフィーリアは無我夢中でぬかるんだ大地を走り抜け、そして目の前に見えてきた崖から迷わず飛び降りた。天魔に見つかって交戦するより、崖から飛び降りた方が遥かにマシだった。【銀月鬼ギンゲツキ】の天魔憑きであるユフィーリアなら、崖から飛び降りたぐらいで死なない。

 崖はそれほど高いものではなく、ユフィーリアは難なく真っ白な地面に着地した。頑丈な軍靴の底が踏みつけた大地はギュッと音がして、肌で感じる空気は冷たい。


「――なんだここ」


 ショウを下ろしたユフィーリアは、踏みつける白い大地に触れてみた。

 指先ですくったものは、なんと雪である。ゼルム雪原の雪は全て溶けたと聞いたのだが、何故この場所には雪が残っているのか。


「……ユフィーリア」

「ンだよ、ショウ坊」

「あれはなんだ?」


 ショウの視線は、正面に固定されたまま動かない。

 ユフィーリアもつられて正面へと視線を投げて、思考回路が停止しかけた。


「……氷の塔?」


 崖の下にあったものは、

 蒼天を貫かんばかりに高くそびえる、氷の塔だった。

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