第10話【奪われた火神】

 火葬術を受けて体が崩壊している状態であるにもかかわらず、彼女は――菖蒲あやめは嬉しそうに、そして不気味に笑っていた。首で頭を支えることができないのか、カクンカクンと壊れた人形の如く頭を揺らしている。

 生きとし生ける全てのものを灰燼かいじんに帰す火葬術を、全身で受けてもなお生きている――その生命力に、そこはかとなく脅威を感じざるを得なかった。


「ちょ、ちょっとショウちゃん? お前さん、可愛い女の子相手だからって手加減をしたんじゃないのぉ?」

「火葬術に手加減もなにもない。生きていれば燃えることは変わらん」


 現実逃避をするエドワードに、ショウが丁寧に首を振って否定する。

 確かにユフィーリアもエドワードと同じように、ショウが菖蒲に対して手加減を舌のではないかと考えた。

 しかし、それはあり得ないのだ。

 彼女の体は、すでに生きているという範疇を超えている。下半身はすでに灰と化して骨すら存在せず、ユフィーリアが切断した左腕は木炭かと見紛うほどに焦げている。かろうじて残った右腕もボロボロに崩れ落ちそうになっていて、さらにニタニタと笑う菖蒲の顔の左半分は皮膚が剥がれ落ちて筋肉や神経が見えてしまっている状態だ。中には骨が見えている部分さえある。

 あの状態を見て、手加減という考えは思いつかない。

 ショウは確かに菖蒲を殺した。殺して、火葬した。――それなのに、生きている彼女が異常なのだ。


「うふふ、うふふ。みつけた、みつけた、みつけたました……ああ、わたくしの、


 ――あ? と割と本気でその場にいる全員が、菖蒲の突拍子のない台詞に固まった。

 彼女の視線をゆっくりと辿っていくと、そこには立ち上がるまでに回復したショウがいた。ショウも菖蒲が自分を見ていることに疑問を感じたようで、不思議そうに首を傾げている。

 それからその場の全員の視線を受けていることを認識した彼は、即座に首を振って否定した。


「違う」

「いや、でもあいつあんなこと言ってるし」

「違うと言っているだろう」

「痛めつけられて愛に目覚めちゃったとか」

「それは貴様にも当てはまるだろう。腹を刺していたではないか。あと腕や足も切断した」

「程度が違ったんだよ。お前は全身に大火傷を負わせたじゃねえか。あれを火傷と処理していいのか分かんねえけど」


 ショウは頑なに無実であることを主張し、さらにユフィーリアも巻き込んでこようとする。だが相手のご指名はショウただ一人であり、ユフィーリアのような屑と馬鹿を掛け合わせてそのまま熟成させたような奴には一瞥すらくれることはなかった。

 菖蒲は長きに渡って思い続けた恋人にようやく巡り会えたような、うっとりとした表情で優雅にショウへ近寄っていく。虚空に漂う彼女は、ゆったりとした速度で滑るように移動してくる。


「ああ、ああ、とても熱かった、とても痛かった――とても、とても愛おしく思いました。ああ、わたくしの旦那様……その熱いかいなで、を抱きしめてあげてくださいな……」


 ユフィーリアの背筋に寒気が走った。

 嫌な予感がしたのだ。なにかとんでもない悍ましい気配が、ユフィーリアの神経を逆撫でした。弾かれたように菖蒲へ飛びかかろうとしたが、

 もうすでに、悪魔はそこにいた。



「この子の父親になってくださいな。――ねえ、【火神ヒジン】様」



 そう言って。

 菖蒲は、ショウの胸元に炭のように焦げた右腕を


「――――ぁ」


 それは、誰の言葉だっただろう。

 唖然としたその言葉は、誰のものだっただろう。


「――――ああああああああああああ!?!!」


 ショウの絶叫が耳朶を打つ。

 なにが起きたのか分からず立ち尽くしていたユフィーリアは、ショウの絶叫によって我に返る。弾かれたように菖蒲に飛びかかり、その崩壊した顔面めがけて拳を叩き込んだ。拳に伝わったぐしゃ、という感触が気持ち悪い。

 顔を半壊させた菖蒲だが、彼女は痛がるそぶりを見せることなく笑っていた。それが幸せで堪らないとでも言うかのように、ケタケタと狂気に満ちた哄笑をひび割れた空に響かせる。蒼海に浮かぶ鋼鉄の島を守護するように命じられたあの狙撃手の少女の方が、まだマシな笑い方だっただろう。


「あはは、あはははははは!! やったわ!! やってやりました!! これが、これさえあれば、孵化はできたも同然です!!」


 炭と化した細枝のような菖蒲の右手には、燃え盛る炎が握られていた。手のひらを容赦なく焼こうとしているその炎を握りしめて、彼女は哄笑と共にその炎を喉の奥に押し込んだ。

 そのまま、ごきゅりと嚥下えんげする。少女の崩壊しかけた白い喉が蠕動ぜんどうして、炎を確かに飲み込んだことを告げていた。


「クソッ、ショウ坊!! 痛みはねえか!? 異変は!?」

「問題、ない。少し体が、重いだけだ」


 菖蒲の腕が突き刺さっていたショウの胸元には傷一つなく、僅かに咳き込む彼は無事であることを告げる。

 少しよろけながらもきちんと二本の足で立つことができたショウは、右手を伸ばして軽く五指を曲げた。それは彼にとって、術式から武器を生み出す合図。

 ――しかし。


「何故、だ」


 呆然とショウが呟く。

 緩く曲げられた五指、しかしその指先には


「何故……術式が、使えない……!?」


 焦燥に満ちたショウの声。

 ユフィーリアの脳裏に、雷光の如く閃きが過ぎる。ザァ、と記憶が掘り起こされていき、ついにその瞬間が浮かび上がってくる。

 菖蒲が飲み込んだ、あの眩いばかりの炎。

 あれは、まさか。


「――――テメェ、こんのアバズレがァッッ!!!!」


 気がつけば、ユフィーリアは怒号を菖蒲へと叩きつけていた。

 彼女が飲み込んだあの炎は、ショウの術式を構成する為のなにかに違いない。それを飲み込まれた今、ショウは術式が使えなくなってしまったのだ。

 外套の内側からマスケット銃を引きずり出して、ろくに照準もしないで引き金を引く。銃口から放たれた一条の赤い光は菖蒲からほんの少しだけ外れた方向へ飛んでいき、ユフィーリアは舌打ちをすると共にマスケット銃を投げ捨てる。ガシャン、という金属が硬い地面に叩きつけられて耳障りな音を立て、ユフィーリアは構わず菖蒲へ接近する。

 怒りによって武器が思うように使えないなら、術式で対抗するしかない。

 そう――見えてさえいれば、如何なるものでも距離を飛び越え切断できる絶技によって。


「あら、よろしいのですか?」


 微笑む菖蒲は、なんでもない様子で言う。


「今のわたくしを斬れば、彼から奪った『これ』が戻ることはありませんよ」

「ッ!!」


 大太刀にかけられた手が止まる。

 動きを止めたユフィーリアを見逃すほど、菖蒲は甘くはない。黒焦げになった右腕を振るって目に見えない衝撃波を放つと、接近してきたユフィーリアを吹き飛ばす。

 胸から腹の辺りを殴られたような感覚に、ユフィーリアの喉奥から酸っぱいものがせり上がってくる。容赦なく地面に叩きつけられたユフィーリアは、背骨を通じて全身を駆け巡る鈍痛に顔を顰めた。


(――どうすりゃいい?)


 こんな経験なんて、今までなかった。

 殺せば戻るのかと思ったら、そうではない。殺せば彼女の中のあるショウの術式の元は、破壊されてしまう?


「うふふ、ふふふ。もう止められません。ああ、私の旦那様。貴方様のこの力は、この財産は、この子を育てる為だけに使わせていただきますわ」


 うっとりと恍惚の表情で菖蒲は自分の下腹部を撫でると、黒焦げでボロボロと崩れかけている体とは思えないほどの速度で飛んでいく。

 その行き先は決まっている。

 悪夢の繭。

 神宮『斗宿ヒキツボシ』にいる狐巫女総出で調伏に当たっているあの得体の知れない巨大な怪物に、菖蒲は突撃していく。


「誰か、誰か奴を止めろ!! 菖蒲を止めろぉ!!」


 八雲神やくもがみの絶叫が劈く。

 しかし、時すでに遅し。

 悪夢の繭めがけて突撃した菖蒲は、そのぽっこりと膨れ上がった木の幹に体当たりした。それから抱きつくようにその肉感を残した黒い幹に頬を寄せて、愛おしそうに呟く。


「ああ、愛しい我が子。今、母様が行きますからね……?」


 その彼女の言葉に、悪夢の繭が呼応するように鳴く。

 ――大地を揺るがすような、おおおおお、おおおおおお、という悍ましい声が『斗宿』全体を席巻する。

 八雲神たちによる祝詞のおかげで大人しくなっていたはずなのに、菖蒲の言葉を受けて母親を求める子のように再び活発に暴れ始めてしまう。木の根もビタンビタンと地面を何度も打ち、それから何本かの根が膨れ上がった部分に抱きつく菖蒲を包み込んだ。


「あ、あああ、あああああ、熱い、熱い、いいわ……いいのです、そのまま、わたくしを飲み込んで……!!」


 ずぶずぶと菖蒲は悪夢の繭に飲み込まれていき、艶めいた声を残して彼女の姿は悪夢の繭の中に消えた。

 シン、と水を打ったように静まり返る。

 緊張感が漂う中、次の瞬間、黒と赤の光の奔流がユフィーリアたちの網膜を容赦なく焼いた。


「なんッ、なにが起きた!?」

「悪夢の繭が活性化するのじゃ!! 早う逃げるぞ!!」


 八雲神は早々に悪夢の繭を調伏することを諦めて、他の狐巫女にも逃げるように指示をした。

 グラグラと揺れる足場でもユフィーリアは驚異的な身体能力でもって活性化した悪夢の繭から逃げ出すが、その隣に相棒が追いついていないことに気づいて振り返る。見れば、地震並みに揺れる足場に辟易して、思うように逃げることができずにいた。

 めきめき、めきめき、と暴れ回る悪夢の繭の根が社を次々と薙ぎ倒して、飲み込んで、逃げ惑う狐巫女にも追いすがろうとする。


「チッ、面倒くせえなおい!!」


 盛大に舌打ちをしたユフィーリアは、瓦礫を踏んづけてすっ転んだショウの元へ駆けつける。ショウの襟首を引っ掴むと、すぐそばまで迫ってきていた悪夢の繭から為す術もなく逃げ出す。

 敵前逃亡とかどうとか言っている場合ではない。

 目の前の敵には、そういう常識が通用しないのだ。


「ユフィーリア、その」

「うるせえ舌噛むぞ!!」


 引っ掴んだショウを小脇に抱えて走るユフィーリアは、背後から聞こえてきた菖蒲の言葉を無視する。



 ――ああ、ああ、もう世界は終わりです。

 ――貴女様も終わりです。

 ――この世界は、わたくしと、我が子の手によって破壊され尽くすのです。

 ――旦那様。貴方様の熱い腕に抱かれて、この子は大層喜んでおいでですよ?



 そうして。

 成長した悪夢の繭は、ついに『斗宿』を覆っていた結界を内側から押し破った。

 パリィン!! というガラスが割れた音と共に、白銀の星々が散らばる紺碧の空さえも飲み込んでやろうと、悪夢の繭はその枝葉を広げて侵食していく。


 世界に絶望が広まり始めていた。

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