第21話【希望の蛍】

「――――がああああああああああッ!?!!」


魔道獣マドウジュウ】から絶叫が迸った。

 しゅうしゅうと右目からしゅうしゅうと黒い煙を噴き出しているが、黄金色の瞳が再生される様子はない。どうやら眼球の修繕には絶望を使えないようだ。

 遠くから飛来してきた銀色の弾丸が正確に【魔道獣】の瞳を射抜いた瞬間を目の当たりにしたユフィーリアは、自然と笑みを漏らしていた。


「ははッ、どこにいるんだか分からねえがすげえな」

「…………悔しいが、認めざるを得んな」


 ショウも不本意そうだが、彼女の実力を認めたようだ。マスケット銃をくるりと回してから、空いた左手に薄紅色の回転式拳銃リボルバーを生み出す。今回はガス欠級の術式を使っていない為、まだ戦う余力は残っているらしい。

 いきなりの援護射撃に、グローリアは訝しげに首を傾げる。


「誰だか知らないけど、こんな正確に狙撃できる子なんて奪還軍にいたかなぁ」

「いねえと思うぜ」


 なにせ、彼女は奪還軍に所属していない狙撃手だ。

 シズク・ルナーティア。

 近接戦闘が一切できない狙撃手であるが、敵との距離があればあるほどその実力を発揮する天才。数日しか行動を共にしていないが、背中を任せる相手としてはこれ以上ない逸材だ。

 ユフィーリアは薄青の刃を黒鞘に納めると、隣に突っ立っているショウの脇腹を軽く小突いた。


「負けてられねえな」

「当然だ。狙撃手如きに見せ場を持っていかれてたまるか」


 何故かシズクを敵視しているショウは、回転式拳銃の銃口を【魔道獣】へ向けた。

 攻略方法もなんとなくだが理解した。

 絶望を食らってその体を維持するのであれば、反対の『希望』の感情が強くなれば弱体化するのではなかろうか。絶望に抗い、その身を切り刻んで燃やし尽くしてやれば、いつしかあんな巨躯ではなくなってしまう。

 正確無比な狙撃などできやしないが、こちらには粘り強さと戦場で培った根性がある。


「行くぞ、ショウ坊。最強の底力をあの子猫ちゃんに見せてやろうじゃねえか!!」

「了解した」


 嬉々として吠えたユフィーリアは、強く床を踏み込んで前進する。風をまとって【魔道獣】に肉薄した銀髪碧眼の天魔憑てんまつきは、憎たらしい顔から尻尾まで横に切断する。上下に分断された【魔道獣】は切断面からしゅうしゅうと黒い煙を噴き出して、見事に切り口が溶接されてしまった。

 しかし、回復したのもつかの間のこと。今度は回転式拳銃を突きつけたショウが、高く空を舞う。重力を感じさせない軽業師のような身のこなしに誰もが見惚れ、赤い瞳が睨みつけた先にいる一回りほど小さくなった黒い猫の怪物めがけて火球をぶっ放す。回転式拳銃の銃口が文字通り火を噴き、撃鉄が落ちると同時に拳大の火球が射出された。

 生きてさえいれば、どんな形状の生物であっても焼き尽くして灰燼かいじんに帰す火葬術の炎は、黒い猫の怪物の全身を紅蓮で包み込んだ。嗄れ声の絶叫が夜空に轟くが、その全身を二回りほど削っただけで消し炭にまでは至らなかった。


「やはり効かん!!」

「ゼロ距離でぶっ放してみろよ!!」

「だったら装填されたマスケット銃を寄越せ!!」

「悪い、ストックない!!」


 そもそもあのマスケット銃は、ユフィーリアが特殊な方法で生み出しているのだ。【毒婦姫ドクフヒメ】との戦いで補充することをすっかり失念していたツケが、まさかここで回ってくるとは。

 ユフィーリアが水平に構えた大太刀に、ショウが軽やかに着地してくる。羽のように軽い少年は「えッ」と驚いた様子で、


「……ないのか?」

「ねえな。残念だが諦めてくれ」

「…………あのかっこいいマスケット銃はもう使えないのか?」

「いや、俺が補充し忘れてただけで――つーかお前、あのマスケット銃やたら気に入ってんのな?」


 ユフィーリアが問うと、ショウはそっと視線を逸らして「そんなことはない。実用性を重視しているだけだ」と答えた。言い訳のように聞こえたのは気のせいだろうか。

 最初よりやや小さくなった【魔道獣】は、喉の奥から唸り声を発する。黄金色の瞳はいまだ回復の兆しが見えないのか、しゅうしゅうと黒い煙を噴き出したままだ。


「おのれ……おのれ、羽虫どもが!! 絶望にひれ伏せ!! 恐れよ!! 我が名は【魔道獣】――絶望より生まれ、絶望と共に生き、絶望を生み出す天魔なるぞ!!」


 高らかに咆哮を轟かせた【魔道獣】は、長い尻尾から成る黒い槍でユフィーリアとショウを狙う。

 ユフィーリアは大太刀に乗ったショウを夜空へ向かってぶん投げ、天空から落ちてきた黒い槍を回避する。床に突き刺さった黒い槍は逃げるユフィーリアを追いかけて、展望台の床を穴ぼこだらけにしていく。

 投げ飛ばされたショウは軽々と宙を舞い、さらに火球を見舞おうと回転式拳銃を構えるが、


「――ッ!! ユフィーリア!!」

「なんだショウ坊!!」

!!」


 ショウの絶叫に、ユフィーリアは「ああ!?」と破落戸ゴロツキのような声で応じてしまう。

 尻尾がないのは当然だろう。なにせ、今はユフィーリアを串刺しにしようと振り回されているのだから。彼は今のユフィーリアが見えないのだろうか。

 ところが、状況はそんな軽いものではなかった。

【魔道獣】へ火葬術を浴びせながら、ショウは気迫に満ちた表情で簡潔に説明する。


「【魔道獣】の尻尾は二本あったはずだ!! 一本は貴様が相手をしているが、!?」

「!?」


 ユフィーリアは絶句した。

 確かに【魔道獣】の尻尾は二本あった。二本とも相手をしているかと思いきや、乱暴に振り回されているのはユフィーリアが相手にしている一本だけだ。残りの一本は、


「まずいッ!! グローリア、そこから逃げ――ッ!!」

「もう遅いわッ!!」


 一部の床が隆起する。

 硬い材質の床を突き破って黒い槍が出現し、グローリアを狙う。ユフィーリアはすぐさま方向転換し、神速の居合をグローリアの頭上から落ちようとする黒い槍めがけて放った。薄青の刃が閃いて、ざっくりと切断された黒い槍が霧散する。

 しかし、槍はもう一本存在する。――今までユフィーリアが相手をしていた槍が。

 ヒュッと空気を引き裂いて飛来する槍を、ユフィーリアは大太刀で弾いて方向を逸らす。グローリアに直撃することは免れたが、はて、展望台にはもう一人か二人残されていなかったか?


「――――ッ!!」

「ナツキ!!」


 一瞬のできごとに声すら上げる暇もなかったナツキは、その場から逃げ出すことができなかった。ガクガクと震える足がその証拠だ。

 グローリアの『時間静止クロノグラフ』も間に合わない。最終手段であるユフィーリアの『絶刀空閃ぜっとうくうせん』を使えば、ユフィーリアは行動ができなくなってしまう!

 向かってくる黒い槍の恐怖から目を逸らすように、ナツキは黒曜石の瞳を固く閉ざした。震える体をなるべく縮こまらせて、黒い槍の衝撃に耐えようとして――。



 その声は、緊迫した絶望を解くような優しさを孕んでいた。

 黒い槍の動きが止まる。どちゅ、と柔らかいなにかを貫いて、その動きを止める。


「なッ――」

「嘘だろう」

「そんな――ッ」


 ユフィーリアは息を飲んだ。

 ショウは瞳を見開いた。

 グローリアは驚愕した。

 黒い槍の殺意に晒された少女を守ったのは、他でもない、この場に残った唯一の一般人だった。


 生温かい鮮血が、黒い槍の穂先を伝う。

 柔らかい肉を抉られ、内臓を貫かれ、槍の先端を背中から飛び出させた少年は、背後に庇った自らの姉へと振り返って笑った。


「よかった――ねえちゃん、ぶじだ」


 黒い槍が乱暴に引き抜かれる。

 胸に風穴を開けた少年は、その衝撃に耐えることができずに膝からくずおれた。


「――――いやああああああああああああああああああああああああああああああああああああッッ!!!!」


 ナツキの絶望に満ちた悲鳴が、夜空に響き渡った。


 ☆


「テメェ、よくも!!」

「魂まで消し炭にしてやる!!」


 スバルの願いを叶える為に、ナツキを助けにきてくれたのだと言った二人の天魔憑きは、弟を刺し殺した憎き天魔に吠える。赤と青の瞳にそれぞれ殺意を漲らせて、彼らはとびきり甘美な絶望を食らって笑う【魔道獣】へ飛びかかった。

 ナツキはそれどころではなかった。

 最愛の弟が刺されてしまったのだ。

 胸から流れる鮮血は止まらず、穴ぼこだらけの床を汚していく。ピクリとも動かないスバルの温かさが失われていく体を抱きしめて、ナツキは懸命に弟を呼び起こした。


「スバル、スバル!! いやッ……お願い、死なないで!! スバル!!」


 スバルの瞳は閉ざされたままだ。揺さぶるナツキの両手は弟の血によって赤く染まり、ぬるりと滑る。

 ナツキはスバルを抱きしめて、苦悶の表情で立ち尽くす黒髪紫眼の青年に助けを求めた。彼は時間を操っていた。だからきっと、弟が傷つく前の時間まで戻せるはずだ。


「お願い、あなたなら弟を助けられるでしょう……? だって時間を戻していた……弟を助けて……!! お願い!! 私はどうなってもいいから!! 弟を助けて!!」


 必死に助けを求めるナツキに対して、青年は静かに首を横に振った。


「確かに僕の術式には時間を巻き戻すものもある。……けれど、それが適用されるのは無機物だけ。弟君の傷口を治すことは、僕にはできないよ」


 絶望の淵に叩き落されたような気がした。

 ナツキは目の前が真っ暗になったかのような感覚に陥った。抱きしめているはずのスバルの重みが、絶望に打ちひしがれる少女に現実を突きつけてくる。それがさらに【魔道獣】を喜ばせる餌となる。


「ふは、ふはははは!! 愉快、愉快!! なにもせずとも、甘美な絶望が流れてきよるわ!!」


【魔道獣】は銀髪の女性に罵声と共に切り刻まれ、黒髪の少年に燃やし尽くされてもなお生きている。その身を幾千の刃で刻んでも、幾度となく焼いても、戦況は変わらない。

 守れなかった。

 守れなかった!!

 スバルを守る為に、スバルを助ける為に必死になったあの時は、全て無駄だったのだ!!


「う、うぅ……」


 ナツキは背筋を丸めて、嗚咽を漏らす。涙も流れる。

 透明な滴が青褪めていく弟の顔を濡らしていく。



「――ねえ、ちゃん」



 細々とした声が、耳朶を打つ。

 雑音に紛れようとした少年の声は、確かにナツキの心を揺り動かすものだった。

 血に濡れた左手が、ナツキの涙で濡れた頬に触れる。筋張った指先が、ナツキの頬を伝う涙を拭った。


「――わら、って」


 焦点の合わない黒曜石の瞳でナツキを見上げて、スバルがほんの少しだけ笑う。


「――おれ、ねえちゃん、の、えがおが、すきなんだ。ねえちゃん、には、わらって、ほし、いん、だ」


 笑えないよ。

 笑いたくても、あなたがいないと笑えないよ。


「――あいしてる、よ、ねえちゃん」


 いかないで。

 ひとりにしないで。


「――でも、さいごに、しずく、あいたかった、な」


 消えないで。

 お願いだから。


 少年の手が、ついに落ちた。

 力なくだらりと垂れ落ちた弟の左手を握りしめて、ナツキはひたすら涙を流した。

 どうすれば正解だった。

 どうすればスバルは死ななかった。

 どうすればスバルは生きてくれる?


(――?)


 本当に救えないのか?

 腕に抱いた少年を救う方法は、まだあるのではないか?


(――うん、それでいい。そうしよう)


 ナツキは頷いた。

 自分の胸を――ちょうど心臓の位置を服の上からギュッと握りしめて、自分の腹の中にとぐろを巻く蟲に向かって囁いた。


「ねえ、あなたとの契約を誰かに譲渡することってできるの?」


 腹の内側がざわついた。

感染蟲カンセンチュウ】からすれば、寝耳に水の提案だ。いきなり契約を解くと言うのだから、抗議もしたくなるだろう。

 すると、脳裏に子供特有の甲高い声が響いた。誰の声だろうか。


『そんなことをすれば、君の魂が消滅してしまう!! 君はもう二度と、君の弟とは会えなくなるよ!!』

「それでも」


 怖くはない。

 会えなくなるのは、今の条件でも同じだ。

 スバルが死んでしまうなんて考えたくない。優しい彼にはずっとずっと、この陽だまりの世界で生きていてもらいたい。

 それがたとえ、自分勝手な願いだとしても。

 ナツキは決意を黒曜石の瞳に宿らせて、凛とした声で宣言する。


「私は、あなたとの契約を弟に全て明け渡す」


 ☆


 これで何度切り刻んだことだろうか。

 ユフィーリアは顎を伝い落ちていく汗を乱暴に拭って、悪態を吐き捨てた。


「クッソ、キリがねえ……ッ!!」

「どうする、ユフィーリア。俺もそろそろ腹が減ってきたのだが」


 緊張感のないショウがやや空腹を訴えてくる腹をさすりながら訴えてくるが、そんなボケに付き合っている余裕がユフィーリアにはなかった。疲れの見えない人形めいた顔立ちめがけて携帯食料レーションでも叩きつけてやりたい衝動に駆られたが、理性で捩じ伏せる。

 どれだけ切り刻んでも、どれだけ燃やし尽くしても、目の前の敵は小さくなる気配がない。むしろ消耗していくユフィーリアとショウをニヤニヤとした嘲笑で見下ろしている。それがしゃくに障り、拳が通用するんだったら一〇〇発は殴っていたのにと胸中で悪態を吐いた。


「ん? どうした。もう終わりか? 愛撫にしてはいささか物足りないが」

「おう、獣のくせに下ネタも嗜むんだな。随分とお育ちがよろしくねえようで」


 嫌味に棘を交えても、【魔道獣】はからからと笑っているだけだ。怒りで我を忘れて突っ込んでくれれば、まだ勝機は見えたと思ったのに。

 ――いや、どうだろうか。

 どれだけ攻撃しても再生してしまう敵を相手に、攻略方法などあるのだろうか。

【毒婦姫】の時は三度の交戦を経て、ようやく討伐に至った。目の前の【魔道獣】は絶望さえあれば何度でも再生してしまう。絶望をこの世から駆逐することなんて、果たして可能なのか。

 ユフィーリアは歯噛みした。これでは分が悪い。どう足掻いたって勝てなければ、ユフィーリアとて絶望の念すら抱いてしまう。


「もう終わりだというなら、その命も終わりにしてやろう。なに、痛みに耐性ぐらいはあるだろう?」


 余裕綽々の態度を見せる【魔道獣】は、ゆらりと尻尾の黒い槍を掲げる。片方の先端には赤い血がべっとりと付着していて、それを見るだけでユフィーリアの中に怒りの衝動が湧いてくる。

 奥の手を使うべきか。

 いや、あれを使えばユフィーリアは動けなくなってしまう。ここで戦力を欠落させるのは惜しい。

 あれこれと思考を巡らせるユフィーリアは、その時、背後で朝日にも似たを見た。


「――――なに?」


【魔道獣】は訝しげに片方しかない黄金色の瞳を眇める。

 振り返ったユフィーリアが見たものは、全身を金色の粒子に変えていくナツキの姿だった。柔らかな風がどこからともなく吹きつけ、少女の明るい茶色の髪を乱れさせる。少女は祈るように瞳を閉じ、自分の体を構成する金色の粒子を眠る弟へと移し渡す。

 すると、どうだろうか。

【魔道獣】に刺し貫かれたはずの胸の風穴が、見る間に再生していくではないか。


「君、なにしてるの!? そんなことをしたら君が!!」

「小娘、なにをしている!?」


 グローリアと【魔道獣】が揃って驚愕に満ちた声を上げた。

 紫眼を見開いて驚きを露わにする上官へ、ユフィーリアは問いかける。


「おい、あれなにしてんだ?」

「天魔の契約を彼に明け渡すみたい!!」


 へえ、そんなことができるのか。

 ユフィーリアが感心したのもつかの間、グローリアは「そんないいものじゃないよ!!」と叫ぶ。


「だって天魔との契約を解くと、!!」

「消滅だァ?」

「魂の消滅はつまり、輪廻転成ができなくなってしまうってことだよ!! もう二度と、彼女はこの世に生まれ落ちることはない!!」


 青い瞳を見開いたユフィーリアは、構えた大太刀を取り落としそうになる。

 少女にとっては苦渋の決断だっただろう。それでも彼女は、弟がこの世に生きていくことを望んだ。

 己が命を――輪廻転成して弟に再び巡り会う権利さえも捨て去って、彼女はただ弟の明日を願ったのだ。

 金色の粒子によって胸の風穴を塞がれたスバルは、ゆっくりと瞼を持ち上げていく。その先にある黒曜石の瞳が姉の姿を認識すると、彼は不思議そうに首を傾げていた。


「――ねえちゃん?」

「スバル、もう痛いところはない?」


 ナツキはスバルの髪を撫でながら、柔らかな笑みを浮かべる。

 つられて微笑んだスバルは「平気だよ、姉ちゃん」と答えると、彼はようやく【魔道獣】の存在に気がついた。黒曜石の瞳を瞬かせた彼は、なにか恐ろしいものを見たかのように表情を引き攣らせる。


「姉ちゃん、あれなに。なんかお化けみたいなの見える」

「あれは、私の敵。――私がずっと、ずっと苦しんでた敵」


 ナツキは怯えを振り切るようにして、スバルの手を握った。


「ねえ、スバル。あれを一緒に倒してくれる? あなたとなら、どんな敵でも怖くないわ」

「うん。姉ちゃんを苦しめる奴はおれの敵だから、一緒に倒すよ」


 スバルの瞳には、もう【魔道獣】に対する怯えはなかった。半透明になったナツキの手を握り返し、姉を長い間に渡って苦しめた怨敵を睨みつける。

 どこからともなく風が吹き、展望台を眩いばかりの金色の光が埋め尽くす。目が眩むほどの光を間近で浴びたことで、ユフィーリアは思わず「うぎゃあ!!」と情けない悲鳴を上げた。

 風に吹かれて金色の粒子が、徐々に紫色へ変わっていく明け方の空へ舞い上がる。瞬いていた白銀の星々は姿を消し、水平線の向こうから煌々と輝く太陽が顔を覗かせる。幻想的な光景に誰もが息を飲む中、絶望の化身としてこの世に生を受けた【魔道獣】だけは焦燥に満ちた絶叫を轟かせる。


「なにを……なにをするつもりだ……!? なにが起きている!?」


 ナツキを構成する金色の粒子は腕を伝ってスバルへと到達し、スバルを介して朝日に照らされるアクティエラ全体に雪の如く降り注ぐ。

 二人の姉弟は繋いだ手を空へと掲げ、迷いのない声で告げる。


「「――大量寄生虫ワーム希望流布ホープ感情型蟲ワーム」」


 ――それは、朝日に煌めく大量のだった。

 風に乗り、蒼海に浮かぶ鋼鉄の島全体を覆うように蛍が飛んでいく。空より降り注ぐ異形の怪物を恐れ、明日に絶望を抱く一般人に取り憑いて感情を塗り替えていく。

 その名の通り、希望へと。


「あ、あああ、ああああああああ」


【魔道獣】から情けない声が漏れた。

 見れば、徐々にその体が縮んでいくではないか。他人からの絶望によって生き長らえていた異形の怪物は、供給源の感情が希望に塗り替えられていくにつれて弱体化が始まったのだ。

 希望に抗う絶望の怪物は、希望を振り撒く二人の姉弟へと絶叫した。


「やめろ、やめろやめろ、やめろおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおッッッッ!!!!」


 長い尻尾が閃いて、ナツキとスバルの両方へ飛んでいく。

 しかし、彼らに尖った尻尾の先端は触れることはなく、その根元から切断されてしまう。希望に満ちてしまった為に尻尾の再生はもう望めず、サラサラと砂のようなものに変貌して風に吹かれて飛んでいってしまう。

 即座に切断術を発動させたユフィーリアは、不敵な笑みと共に大太刀を黒鞘へ納めた。


「おいおい、おかしいな。焦りが見えるぜ」

「おのれ……おのれ、小娘が!! ――ぎゃあああ!!」


 残されていた【魔道獣】の黄金色の瞳が、飛来してきた銀色の弾丸によって潰されてしまう。断末魔を朝焼けの空へ響かせた【魔道獣】は、忌々しげに舌打ちをした。


「チィッ!! このままでは分が悪い、一度撤退させてもらおう!!」


 小さく縮んだ【魔道獣】は、展望台の高さなど物ともせずに空中へその身を踊らせる。

 しかし、


「ッ!? 何故、何故だ。何故、体が動かない!!」


【魔道獣】の体は空中で動きを静止させていた。それはさながら、そこだけ時が止まったかのように。


「勝手に逃げられると困るんだよねぇ」


 懐中時計が埋め込まれた死神の鎌を【魔道獣】へピタリと照準して、グローリアが朗らかに微笑んだ。

 適用『時間静止』――グローリアが行使する術式による、時を止める絶技だ。展望台から逃げようとしたその瞬間に、グローリアは【魔道獣】の体の時間を止めたのだ。

 喉の奥から「おのれェ……!!」と憎悪に満ちた声を発する【魔道獣】だが、その下から包み込むようにして現れた炎の手に驚愕する。


「――紅蓮葬送歌グレンソウソウカ


 マスケット銃を構えたショウが、冷酷に告げる。

 大量の炎が噴き出して、巨大な骸骨の両手が空中で動きを止めた【魔道獣】を握りしめる。【魔道獣】は握り潰されることはなく、しかし容赦なくその身を焼かれた。

 嗄れ声が断末魔を奏で、【魔道獣】はさらに縮まり、ショウの火葬術でも燃やすことができなかったものだけが残る。

 それは【魔道獣】の核だった。

 黄金色に輝く宝石のような【魔道獣】の核は、ややひび割れてしまっている。傷ついた【魔道獣】は、チカチカと核を明滅させて憎悪がこれでもかと孕む嗄れ声を紡いだ。


「おのれ……これで、これで終わると思うな……!! 我は何度でも蘇る、人類が絶望したその時!! また我は蘇るのだ!! その時は真っ先に貴様らを――!!」

「いいや、お前はここで終わるんだよ」


【魔道獣】の核にユフィーリアが肉薄する。

 時を止められ、外殻も削がれて、これだけお膳立てされればユフィーリアの刃は必ず届く。

 黒鞘から抜き放たれた薄青の刃は、朝日を浴びて幻想的に輝く。冴え冴えとした刃は距離を飛び越えて、虚空に静止する【魔道獣】の核を両断する。


「じゃあな、【魔道獣】」


 おのれ、おのれ。

 砕け散る寸前で、恨みの言葉を残して【魔道獣】は消え去った。両断された【魔道獣】の核は光を失い、時の呪縛からも解放されて海へと落ちていく。

 これで終わり。

 これでアクティエラは【魔道獣】の支配から解放されたのだ。


「――姉ちゃん? なんで透明になってるの?」


 水を打ったように静まり返った荒れ果てた展望台に、スバルの呆然とした声が落ちる。

 金色の粒子をほとんど放出してしまったナツキは、その体が完全に助けていた。すでに両足で立っているのかすら分からず、徐々に消えていっている状態なのに、少女は綺麗な笑顔のままだった。

 僅かに残った金色の粒子をまとう柔らかな手でスバルの頬を撫で、ナツキは優しい声音で囁く。


「スバル、あなたは一人じゃない。私も、ずっとあなたのそばにいるから」

「……そんな、いやだ……消えないで!! 姉ちゃん!!」


 黒曜石の瞳から涙を流して姉の消滅を拒むスバルは、透明なナツキの腕に縋りつこうとした。が、その腕はすでに崩壊しかけていて、スバルが触れると同時に金色の粒子となって消えていく。

【魔道獣】が生存していれば絶望しそうな表情で、スバルは笑顔を浮かべたままのナツキを見上げた。

 明け方の空に解けて消えていく少女は、そっとスバルの消失したままの右腕に頬を寄せた。消えていく寂しさからか、ほんの少しだけ美しい黒い瞳を涙で滲ませて、



「スバル、だいすき」



 そうして。

 ナツキ・ハルシーナは、金色の粒子となって消えた。

 冷たい風に舞い上がった金色の粒子は一つになり、スバルの欠落した右腕に収束する。金色の粒子はスバルの欠落した右腕を形成し、それから僅かな温かさを残して消えた。

 遠くで波の音が聞こえる。それに混じるように、勝利を喜ぶ雄叫びも。

 そして、それらを掻き消すようにして、たった一人の家族を失った少年の号哭ごうこくが轟く。


「――――ああああああああああああああああああああッ!!!!」


 膝から崩れ落ちて、背筋を丸めたスバルはただ泣き叫んだ。再生した右腕で砂塵に塗れた展望台の床を叩き、声が枯れるまで叫びに叫んだ。

 ユフィーリアはなにも言わなかった。ショウも、グローリアも口を噤んだ。

 ナツキ・ハルシーナの覚悟は並々ならぬ愛によるものだ。弟のスバルに、この残酷な世の中を生きていてほしいという願い。

 しかし、残された側はどうだ。

 姉を助けてと願っておきながら、愛する家族を失った少年の気持ちは如何程だろうか。


「――なんで、なんでだよ、なんで姉ちゃんが消えなきゃいけねえんだよ!!」


 スバルは振り返り、姉を助けてと願ったユフィーリアに向かって叫ぶ。


「助けてって言ったのに!! 姉ちゃんを、助けてって言ったのに!! どうして!!」

「だったらお前もナツキ嬢の立場になって考えてみろ」


 外套の内側から煙草の箱を引っ張り出したユフィーリアは、姉が消えた責任をなすりつけてこようとするスバルの言葉を跳ね除ける。


「ナツキ嬢は、お前を生かす為に天魔の契約を解いて消滅した。お前だったらどうよ。自分の代わりに死にゆく姉ちゃんを助ける為に、なにができる?」

「――――」


 スバルは息を飲んだ。

 もう少年は、なにも言い返すことができなかった。詭弁きべんだとも、屁理屈だとも叫ぶことはなかった。

 何故ならそれがだからだ。

 もしスバルが天魔憑きとなり、姉が【魔道獣】に貫かれて今にも死にそうなその瞬間、天魔の契約を解けば相手は助かると言われれば迷わず契約を解除する。なにも言い返さないというのが、その証左とも言えた。

 スバルは顔を俯かせて、絞り出すようなか細い声で訴える。


「――でも、おれ、一人になっちゃった。家族は姉ちゃんだけだし、寂しいよ……」

「どうだかな」


 咥えた煙草の先端に火を灯して、ユフィーリアは薬品めいた匂いのする紫煙を燻らせる。苦味を舌全体で味わいながら、唖然とするスバルに言ってやる。


「お前は姉ちゃんを助けてと願った。だけど、


 それから、すぐにその喧しい声は朝焼けの空に響く。

 潮風に青い髪を靡かせて、見たこともない軍用ゴーグルを首にかけ、銀色の狙撃銃を抱えた少女が膝をつくスバルに駆け寄ってきた。


「スバル!! 大丈夫!? どっか怪我してない!?」

「…………シズク」


 静かに涙を流すスバルに怪我がないことを確かめると、少女――シズクは安堵したように息を吐いた。それから取り繕うようにして笑う。


「えっと、だいぶ遅れちゃったけど助けにきたよ!! 近接戦闘苦手だから、その、協力してもらっちゃったけど……格好悪いな、ほんと」

「……………………しずくぅ…………ッ!!」

「おっとォ!? どしたどした、やっぱりどっか怪我してたん!?」


 ギロリとシズクの紺碧の瞳がユフィーリアとショウを睨みつけ、なに一つ言葉を発していないはずなのに「どういうことじゃワレェ」というドスの効いた声の幻聴が聞こえてきた。ショウは負けじと睨み返して、ユフィーリアは「知らねえっての」と紫煙と共に吐き捨てた。

 スバルはシズクに縋りついて、金色の粒子が塞いだ胸に爪を立てる。


「姉ちゃん、いなくなっちゃった……おれ、おれに、天魔の契約を、移して、消えちゃった……!! おれ、一人だ、一人になっちゃったよぉ……!!」

「……………………」


 シズクの白い喉が蠕動する。紺碧の瞳にじんわりと涙が浮かぶ瞬間を見たが、彼女はスバルの肩をがっしりと掴むと励ますように言った。


「スバル、笑おう!!」

「わらう……?」

「ナツキお姉様もスバルの笑顔が好きだったんだよ!! だから笑おう、じゃないとナツキお姉様がスバルを助けてくれたのに、報われないよ!!」


 でも、とスバルの言葉が続くはずだったが、シズクが勢いよくスバルに抱きついたことによって、台詞が少年の喉の奥に消えていく。


「……でも、今は泣こう。泣いて泣いて、いっぱい泣いて、たくさん泣いて、明日から笑おう。ウチも一緒に泣くよ、だってウチもナツキお姉様が大好きなんだから」


 シズクの声は震えていた。

 見た目こそ気丈に振る舞っているものの、彼女もまたナツキ・ハルシーナのことを愛していたのだ。そんな彼女との別れの言葉すらなく、シズクはスバルの体を強く抱きしめて声を押し殺して涙する。

 スバルもまた、シズクの華奢な肩に手を回した。止めどなく溢れていた涙はだんだんと勢いを増していき、ついには子供のように声を上げて泣いた。


「…………うああ、ああああああああああああああああああ、ああああああああああああああああ!!」


 二人分の号哭は、冴え渡るような蒼穹に響いて消えた。

 抱き合い、互いが愛した少女の面影を思って、ただ泣いた。




「あっちは一件落着って感じかな」


 子供のように泣くシズクとスバルの二人へ微笑ましいものでも見るかのような視線をくれるグローリアの顔面へ、ユフィーリアとショウの裏拳が炸裂する。

 見事に鼻っ面をぶん殴られたグローリアは「ぶけぇッ!?」と情けない悲鳴を上げてひっくり返りそうになるが、なんとか両足を踏ん張って耐えた。亀のようにひっくり返ればその腹を踏みつけてやったのに、惜しかった。


「な、なにするの!?」

「おう、お前が俺らにやった所業を忘れたとは言わせねえぞ?」


 別の意味で涙を流すグローリアはユフィーリアとショウに訴えるが、スパーと紫煙を吐き出すユフィーリアから漂う並々ならぬ雰囲気に彼は押し黙った。

 そう、彼はアクティエラに第零遊撃隊であるユフィーリアとショウを送り込む時に高高度から容赦なく叩き落としたのだ。「大丈夫」だと謳いながら、実は全然大丈夫じゃなかったのだ。

 ユフィーリアはあの時しっかりと叫んだ。――殺すと。

 しかし、最高総司令官を殺害するという愚行はさすがに犯さない。そうすれば喜ぶのは天魔だけだ。

 なので、


「グローリア、お前に罪を償う好機チャンスを与えてやろう」

「ええ……罪って、人聞きの悪いなぁ」

「文句があるなら飛び降りるか? おい、ショウ坊。そのベルトって伸縮自在だっけ? こいつの足に括りつけてここから突き落としてやろうぜ」

「いいだろう。喜んで協力しよう」

「あれ!? 真面目なはずのショウ君も乗ってきちゃった!? ごめんって分かった罪を償いますどんな償いがお望みですかーッ!?」


 珍しくグローリアの所業にショウもお怒りだったことに対してさすがに危機を感じ取ったのか、グローリアは土下座しない勢いで叫んだ。

 ユフィーリアとショウは互いに顔を見合わせて、グローリアを展望台から突き落とすことをやめて彼らを指で示す。


シズクとスバルあいつらをどうにかしてやれ」

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