第12話【弟の為に】

 暗闇の中で、少女は唇を噛み締めてひたすら耐え抜いていた。

 恐怖や痛みではなく、少女が耐えているのは屈辱だった。容赦なく上から押さえつけてくる相手に対して抱く屈辱を必死に隠して耐え抜き、嘲笑するそれに思いつく限りの悪罵あくばを心の中で並べ立てる。


「ふは、ふはは、ふはははは。全く、全く、愚かだな。そんなことをしても、彼奴きゃつらは追い返せやしないのに」


 嗄れ声が響く闇の中で、それがうごめく。

 もぞもぞと胎動する闇は、唇を噛み締める少女をただ嘲った。


「彼奴らは我々の敵であるぞ。正義などあるものか。ありとあらゆる非道の限りを尽くして、彼奴らは我々を排除すべく動くのだ」

「……………………分かってる。だから、私も容赦はしないつもり」

「分かってる?」


 胎動する闇は、再び「ふは、ふはは」と少女を嘲った。


「なにも分かっていない、貴様はなにも分かっていない!! だからそんな愚かな真似ができるのだ。だからそんな愚かな天魔てんまに好かれるのだ!! 自ら手を汚すことなく他者を辱めて殺すことができる術を得た小娘が、愚かな小娘が、果たしてなにを分かっていると!?」


 哄笑こうしょうを響かせる闇は、少女の発する言葉の全てが愚かであり、面白くてたまらないとばかりに笑い転げた。馬鹿にされているのは目に見えている。

 しかし、少女は逆上などしなかった。相手にどんな反論しても無駄であり、無意味であり、抵抗などしようにも彼女が目の前の闇に対抗できるだけの実力を持っていなかった。

 だから耐える。ひたすら耐えて、耐えて、耐え抜いて、いつかこの嘲笑う闇が隙を見せたその瞬間に喉元を食い破ってやるのだ。少女はその時を虎視眈々と狙って、今日まで必死に耐えてきたのだ。


(――絶対に、絶対に助けてあげるから。だから、待っててね)


 脳裏に浮かんだ最愛の弟は、朗らかな笑みを浮かべていた。弟が笑ってこの残酷な世界を生きていけるのであれば、少女はどんな罪だって背負える。

 噛み締めすぎてついに口の端から血が滲み始め、舌の上に鉄の味が広がっていく。それでもこんな些細な痛みなど、弟が受けた傷に比べればどうということはない。彼には、一生をかけても償いきれないぐらいの罪を背負わせてしまったのだから。

 少女は自分に「耐えろ」と何度も何度も言い聞かせるが、次の瞬間、闇の中で蠢く何某が嘲笑と共に放った言葉に足元が崩れ落ちるような感覚が襲ってきた。


「――――ああ、愉快だ愉快。あの愚かな怪物どもが、貴様の弟を蹂躙じゅうりんしているぞ?」


 少女は息を飲む。

 振り返った先の巨大な窓に齧りつき、全ての明かりが消えた摩天楼を高みから見下ろした。冷たいガラスを叩き、自分がこの場から動けないことをただ悔いる。


「……スバルッ!!」


 少女は堪らず弟の名を叫んでいた。

 闇に潜む何某は、少女が弟を想って嘆く様が非常に愉快な行動に思えたようで「ふは、ふははは」と意味もなく笑っていた。

 やめて、彼を傷つけないで。

 少女は窓ガラスに縋りついて、涙を流した。

 大切な弟、たった一人の家族なのだ。本当はこんな危険な目に遭わせたくないのに、どうしてこうなってしまったのか。


「お姉ちゃんが……お姉ちゃんが弱いせいだ……」

「そうだ。そうだとも。貴様が弱く、そして愚かなせいだ」


 蠢く暗闇が「ふは、ふははは」と嘆く少女を嘲った。

 少女は否定できず、ずるずるとその場に膝をついてしまう。冷たい材質で作られた床が、現実を容赦なく突きつけてくる。

 弟が傷つけられてしまう。大切な弟を守れずに、少女はただ遠く安全な場所で涙を流すしかできないのだ。


「……もう嫌だ……いや……だれか、誰か助けて……」

「助けなどくる訳がなかろう」


 ざわざわと暗闇が蠢いて、嘆く少女の首を締め上げる。

 希望を持つことなど許さないとばかりに、暗闇が少女の細い首を圧迫してくる。酸素を求めて少女は喘ぎ、苦悶の表情を浮かべる。ギリギリ床につく爪先で宙を掻くが、少女の首に巻きついた暗闇は取れない。

 やがて、息絶える寸前で暗闇が少女を解放する。床に崩れ落ちた少女は激しく咳き込み、そして恨みのこもった瞳で暗闇を睨みつけた。その眼光すらも、おそらく相手には最高のでしかないのだ。


「ふは、ふはは。絶望せよ、愚かな娘よ。貴様を助けてくれる者などいない。貴様は永遠にこの街で、我の為に絶望を生み出し続けるのだ。ふは、ふはははは、ふははははははははは!!」


 少女は膝上で拳を握りしめる。

 ギリ、と爪が手のひらの薄い皮にめり込んで、温かい血を流した。

 無力な自分が愚かしい。こんな怪物に従うしかできない弱い自分が、本当に嫌になる。


(……スバル、お願い。無事でいて……!!)


 ☆


 仮の住まいにしている宿屋の隣は、常に騒がしい。

 薄い壁一枚を通り越して、楽しそうな笑い声が聞こえてくるのだ。


(……楽しそうだな)


 分厚いカーテンを閉じて、完全に真っ暗にした部屋に膝を抱えて、スバルはふと隣室に羨望の眼差しを送った。

 元々この宿にはスバルしか泊まっていないはずだったのだが、最近になって三人ほど宿泊してきたらしい。彼らがやってきた時からこうして騒がしくて、今日も壁の向こうから聞こえてくるドタバタとしたやり取りが微笑ましい。

 だからこそ。

 そのやり取りを聞いていると、スバルは自分が虚しく思えてしまう。


(……姉ちゃん、なんで会えないんだろう)


 たった一人の姉は、仕事が忙しくてなかなか会えなかった。

 この前だってようやく会えたと思ったら、すぐに「帰って」と言われてしまった。その直後から記憶がなくて、いつのまにか仮住まいにしている宿まで戻ってきて、部屋で膝を抱えていた。なんで部屋まで戻れたんだろう、と自分でも不思議の思ったが、おそらく無意識のうちに戻ってきていたのだ。

 姉が心配で仕方がない。

 なにか危ないことをしていなければいいけど。


(……おれ、いつも守られてばかりだ)


 思い返せば、いつも姉には守られていた。

 たった一人の家族。降り注ぐ天魔から両親は命からがらスバルと姉を守ってくれて、姉は親代わりとしてスバルを守って愛してくれた。姉には感謝してもしきれないぐらいだ。

 だからこそ。

 スバルは姉が心配なのだ。彼女がいなくなれば、この世にスバルは一人ぼっちになってしまう。そんな寂しい想いはしたくない。


(……だから、助けてくれるでしょ?)


 隣室に宿泊していたのは、綺麗な女の人だった。

 銀髪碧眼で、息を飲むほど美しい。スバルも思わず見惚れてしまったほどだが、軽薄な口調は男の人のようだった。見た目が美人なのに男の人のような言葉遣いなんて、ちぐはぐでひどくおかしな印象を与えるが、何故か彼女に似合っているような気さえした。

 そんな女の人は「『助けて』って叫べよ。聞こえてたら助けてやる」と言ってくれた。その前に悪漢に襲われていたら、という言葉がついたのだが、スバルには天啓にも聞こえたのだ。

 彼女なら助けてくれるかもしれない。

 確証はないけれど、それでも一縷の望みに縋ってみる価値はあるだろう。


(おれは、できの悪い弟だから……だからきっと、助けてあげられないから……)


 傷つけてしまった。

 また知らない人を傷つけてしまった。

 スバルの記憶にないうちに、また誰かを傷つけて殺してしまった。

 できが悪くて、こんなことをしてしまうから、きっと助けてあげられない。


「…………た、すけ、てぇ……」


 スバルは、助けを求めた。

 助けてくれると言ってくれた、あの銀髪の隣人に。

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