第13話【そして少女は真実を叫ぶ】

 少年は、涙を流して助けを乞うた。

 その両手を自らが害した他人の鮮血で染め上げて、救いなどある訳がないのに、彼は立ち尽くすユフィーリアに助けを求めた。


「たす、け、て、たすけ、て、助けて、助けて……たの、む、よ。お願い……」


 壊れた蓄音機のように何度も同じ言葉を繰り返す少年は、あろうことか自分の救済を望まなかった。


「ねえ、……


 少年の震える唇からはその言葉を最後に、途切れてしまう。

 ぶつん、と少年の意識が切り替わる。それまで弱々しい光を宿していたはずの黒曜石の瞳には、唐突に明かりが消えた『二の島ツヴァイ』と同様にふつりと生気が消え失せた。そこに存在しているのは無機質なガラス玉であり、さながら操り人形のように少年はゆらりと馬乗りになっていた男の死体から立ち上がる。

 ひたりと踏み出してくるその姿は幽鬼のようであるが、次の瞬間、石畳を踏み抜かんばかりに強く地面を蹴り出して少年がユフィーリアに迫ってくる。


「ッ!!」


 少年の『助けてねがい』を自分の中でどう処理するべきか考えあぐねていたユフィーリアは、少年の人ならざる速度に反応が遅れてしまった。回避行動を取ったがすでに遅く、ユフィーリアの華奢な喉元に少年の真っ赤な右手が差し迫る。

 ひたりと冷たい指先がユフィーリアの白磁の肌に触れたその時、ぐるんと世界が唐突に一回転する。後ろに流れていく世界に、ユフィーリアは自分が背後に引き倒されたのだと気づいた。

 ならば、それをやったのは一体誰だ?

 ユフィーリアに変わって前の進み出る黒い影。黒い髪を翻して少年と相対を果たした相棒は、少年が伸ばしてきた右腕に左手を掴まれてしまう。

 そして。

 力任せに、


「が、あああああああああああああああああッ!?!!」


 ショウの口から絶叫が迸る。

 無残に引き千切られた左腕は肘から下がなく、ぼとぼとと真っ赤な血液を流し続けている。残響となって夜の闇に沈む『二の島』に相棒の絶叫が消えていき、ユフィーリアはようやく目の前の現実を受け入れることができた。

 考えあぐねている場合ではない。

 彼は敵だ――自分たちを、相棒を害したのだから敵なのだ。

 相棒を傷つけられたことで冷静な判断を下すことができなくなったユフィーリアは、激情に身を任せて立ち上がる。ショウの肘から下だけとなった左腕をまじまじと見下ろした少年は、用は済んだとばかりに左腕を捨てた。

 千切られた跡を押さえてうずくまるショウを守るように少年との間に割って入ったユフィーリアは、腰からいた大太刀の鯉口こいくちを切った。それだけで思考回路が切り替わり、神経が徐々に研ぎ澄まされていく。

 少年は頭をぐらぐらと揺らして、それから能面のように恐ろしい無表情をユフィーリアに向けてくる。笑うことは一切ない。生気のない瞳で真っ直ぐにユフィーリアを見据えて、それから彼女の腹を引き裂こうと襲いかかってくる。

 飛びかかってきた少年の懐に潜り込み、ユフィーリアは月光に晒された少年の右腕めがけて切断術を発動させた。音もなく黒鞘から滑り出てくる薄青の刃。美しい軌道を描いて、刃は鮮やかに少年の腕を肩から切断する。

 綺麗に切り落とされた右腕からは鮮血が零れ落ち、少年は何故右腕がないのだろうかとばかりに動きを止めて首を傾げる。なくなった片腕をじっと観察して、それから落ちた自分の右腕を見下ろして、それでもなにが起きたのか分かっていない様子だった。


「おいおい、自分がこれから殺されるってのを理解してねえようだな


 すらりと少年の喉元に薄青の刃の切っ先を突きつけて、ユフィーリアは口の端を持ち上げて笑う。――ただしその気品のある碧眼だけは、全く笑っていなかったが。


「なあ、おい。俺は今、猛烈に気分が悪い。むしゃくしゃしてる。そもそも任務の内容にすら不満だったし、いつのまにか色々なモンが複雑に絡むし、挙げ句の果てに相棒の腕まで引き千切られるときた。ここでお前を細切れにして海の魚どもの餌にしたって、俺の気分は晴れねえだろうよ」


 ぐつぐつと煮えたぎる怒りの感情は収まらず、ユフィーリアは犬歯を剥き出しにして少年へと怒号を叩きつけた。


「助けてだなんだと言って俺を騙そうってか――そうは問屋が卸さねえぞクソガキ。テメェを蹂躙し尽くして殺してやる!!」


 強く踏み込み、その喉を刺し貫く。

 殺そうと思えば殺すことができた。実際、ユフィーリアはそうするつもりだったのだ。

 彼女の殺意を阻害してきたのは、意識の外から飛んできただった。

 空気を引き裂いて飛んできた銀の弾丸は、寸分の狂いもなくユフィーリアの持つ大太刀の中子を撃ち抜いた。狙撃を受けても薄青の刀身は傷一つなく、相当な強度があると知らしめさせる。

 突き出したはずの大太刀は狙撃のせいで狙いが逸れ、少年の喉をほんの僅かに掠めただけに留めた。少年はぼとぼとと絶えず血を流し続ける右腕を庇いながら、ユフィーリアから二歩、三歩と距離を取る。

 手がジンと痺れる感覚に、ユフィーリアの殺意は掻き乱される。視線だけ弾丸が飛んできた方向を見やると、銀色の狙撃銃を抱えた少女がこちらを睨んでいた。その銃口は真っ直ぐにユフィーリアへと向けられていて、僅かに震えているようだった。


「いや、だ……やめて。その子を殺さないで……」


 少女――シズク・ルナーティアは唇を引き結び、今度は銃口を蹲るショウへと向ける。


「じゃないと、その子を、狂わせる。前も、後ろも、なにも分からなくなるぐらいに」

「……テメェ、それを誰に向けたのか分かってんのか?」


 自分でも驚くほどに、滑り出てきた声は低いものだ。熱を帯びた思考回路が徐々に温度を下げていき、逆に冷静さを取り戻させてくる。

 煮え滾る怒りは波のように引いていき、代わりに出てきたのは恐ろしいほどの殺意だ。全てを敵だと改めて認識したユフィーリアは、力なく笑って「なんだ」と納得する。


「最初からお前は敵だったって訳か。なあ、そうだろ。そうでなきゃお前はその玩具おもちゃを俺に向ける勇気はねえよな? 悪いがその距離からでも、俺の攻撃は当たるぜ」

「違う、ウチは敵じゃない!!」

「だったら邪魔した理由はなんだ!!」


 ユフィーリアの怒号を受けて、シズクが怯えたように肩を震わせる。「それは……」と口を噤む彼女に、構うものかと傷ついた少年の方へと振り返った。

 しかし、どういうことだろう。

 確かにそこにいた右腕を失ったはずの少年は、忽然と姿を消していた。


「チッ、どこ行きやがったァ!!」


 ユフィーリアは叫び、憎悪のこもった碧眼で周辺を見渡す。人影は見当たらない。負傷しているというのにもかかわらず、彼はどうやら常識外れな身体能力を持っているようだった。

 再び極大の舌打ちをすると、ユフィーリアは抜き放ったままの大太刀を黒鞘に納めた。それから蹲って痛みに歯を食いしばって耐えるショウを支える。


「しっかりしろ、ショウ坊。どっか安全な場所に連れてく」

「すま、ない……ユフィーリア……」

「いや、謝るのは俺の方だ。相手の言葉に惑わされてなけりゃ、すぐに迎撃だってできたはずだ」


 迎撃のやりようはいくらだってあった。それをほんの少し躊躇ってしまったのは、少年が発した『助けて』だった。


 ――姉ちゃんを助けて。


 確かに少年の声帯を震わせて紡がれた言葉は、ユフィーリアを突き動かす為の魔法の言葉助けてだった。それでも、次の瞬間には彼はユフィーリアに襲いかかってくる敵と成り果ててしまったが。

 少年の『助けて』は果たして嘘なのか。それを判断するには時間が惜しい。今はとにかく、負傷した相棒の治療が先だ。


「おい、グローリア。いるんだろ!! ちったァ援護にでもきたらどうだ!!」


 機嫌悪くユフィーリアが怒鳴りつけると、どこからか赤い鼠が走り寄ってきた。そういえば、ショウが髪を結んだ時にはいなかったか。

 赤い鼠はユフィーリアの服をよじ登って肩までやってくると、尖った鼻先をユフィーリアの耳元まで近づけさせた。そこから聞こえてきた青年の声は、どこか焦りに満ちたものだった。


【大変だ、ユフィーリア!! 今すぐそこから逃げて!!】

「ああ!? まずはショウ坊の治療が先だろうがよ!!」

【それどころじゃないよ!!】


 普段から戦場で焦りなど見せやしないグローリアがここまでの慌てぶりを見せるぐらいだ、異変を感じ取ったユフィーリアはショウの体を支えながら改めて状況の確認をする。

 いまだ怯えた様子のままのシズクと一瞬だけ視線が交錯し、それからなにも言わずにユフィーリアの方から視線を逸らした。彼女は敵を助けたのだ。そして彼女の目的はアクティエラに侵入することであって、それ以降の行動を共にするようにはお願いされていない。今までは彼女が好き勝手にユフィーリアたちへつきまとっていただけであって、これ以上は助ける義理などない。

 ぐるりと首だけで戦場を再確認すれば、建物の隙間からのたりと人が姿を現した。見た目こそは一般人のようにも見えるが、どうにも様子がおかしい。


「うが、あ、ああ、あああああ」


 月明かりに照らされてふらりふらりとやってきたのは、中年の男だった。どこにでもいそうな草臥れた様子のある男は、さながら幽鬼のように覚束ない足取りで歩いてくる。その瞳に生気はなく、だらしなく開いた口からは涎が垂れてしまっている。

 明らかに様子のおかしい中年の男に続いて、真夜中の『二の島』で遊んでいたらしい若者や二四時間経営の店を放り出したらしい店員の少女など、あらゆる人がやはりふらふらと押し寄せてくる。全員して生気がなく、まるで意識のないまま誰かに操られているようだった。

 この状態に、ユフィーリアは既視感があった。――初めてアクティエラを訪れた時、宿屋の看板娘を襲いかかった男や看板を抱えた給仕服の少女が襲いかかってきたあの状況と似ているのだ。

 あの時は二人だけだったが、今度は数え切れないほどの人数がいる。恐怖映像に勝るとも劣らない現状に、ユフィーリアは軽く絶望を覚えた。


「クッソ。とりあえず宿屋まで退くぞ、ショウ坊。グローリア、暇ならこの状況を打開する作戦の一つでも考えろできなけりゃお前のあだ名は明日から『無能司令官』な!!」

【不名誉なあだ名をつけるのはやめてくれるかな!? あともうできる限りは援軍を送ったから、足の速い子だったらもう到着してるかも!!】

「お前が空から落ちてきてくれればいいだろうがよ。受け止めてやらねえから」

【僕が死んじゃうよね!? それって僕が死んじゃうよね!?】


 赤い鼠をショウの頭の中に紛れ込ませて、ユフィーリアは建物の屋根めがけて跳躍した。【銀月鬼ギンゲツキ】の身体能力をもってすれば、屋根までひとっ飛びである。

 足場の悪い屋根に跳躍一つで飛び乗ると、すぐ隣にすとんという着地する音を聞いた。見ればそこには銀色の狙撃銃を抱えたシズクが膝をついていて、ユフィーリアの視線を受けた彼女はふいと顔を逸らした。

 ユフィーリアは顔を逸らした少女に一瞥だけくれてやると、背の高い建物の屋上を次々と経由して『三の島ドライ』にある自分たちの宿へと急ぐ。何度目か分からない跳躍を繰り返して『二の島』の端までやってきたユフィーリアとショウは、眼下に広がる光景に揃って息を飲んだ。


「……なんだこりゃ」

「……夢かなにかか」


 ユフィーリアならともかく、ショウまで現実逃避をするとはさすがに精神が参っている証左である。

 それもそのはず、暗い夜の海を渡す鉄橋は。橋には大量の正気を失った一般人が椅子や机や鈍器を片手に彷徨っていて、おそらくあれらで橋を叩いて落としたのだろう。鉄橋が消失しているということは、その向こうにある『三の島』でも同じ現象が起きたか。

 ショウを抱えて波の高い海を泳ぐ自信はないし、できたとしても大量の一般人に押し潰されて冥府行きだ。泳いでいる最中に攻撃されても反応することができないし、必然的に『二の島』に留まって治療をするのが最良となってくる。


「とにかく空き部屋を探す。ショウ坊、掴まれ」

「すまない」

「謝るのは俺の方だって言ったろ。【閉ざされた理想郷クローディア】に帰ったら美味い飯でも奢ってやるよ……財布に優しい範囲で頼む」


 奢ってやる、とは言ったものの基本的に賭博や飲酒などで散財するユフィーリアである。先ほど擬似戦闘遊戯ファイトゲームで稼いだ金があるが、それだけでは大食いのショウを満足させることはできないだろう。

 いざとなったら店主に土下座して料金分は働かせて貰うかと考えた矢先のこと、ショウの頭の中に仕込んだ赤い鼠がもぞもぞと這い出してきて【まずいよユフィーリア!!】と叫ぶ。


「橋を落とされた以上にまずい状況ってあるのか?」

【スカイの使い魔が出てきちゃったんだ!!】

「ああ? おい、スカイ。なに乗っ取られてんだよ馬鹿じゃねえの?」

【つーかアンタ、ボクの話を聞いてなかったんスか。このアクティエラを調査した際にボクの使い魔が何匹か乗っ取られたって。きっとお相手もそれを出してきたんスね】


 グローリアの悲鳴から切り替わって、スカイのやる気のない声が流れてくる。

 ほんの少しだけ苛立ちを覚えたユフィーリアは赤い鼠を握り潰してやろうかと思ったが、理性でなんとか抑えた。ここで暴力を振るえば負けだと思った。

 ユフィーリアはショウを横抱きにして、どこか治療ができそうな空き部屋を探すべく『二の島』へ引き返そうとする。

 すると、背後の方で翼がはためくバサリという音を聞いた。ぞっとするほどの冷たい殺気が背筋を伝い落ちていき、ユフィーリアはほぼ反射的に振り返った。

 空気を引き裂いて飛んできたのは、鋭い鳥類のくちばしだった。槍の穂先の如く突き出された嘴を飛び退って回避すると、夜の闇の解ける黒い巨大なからすがユフィーリアとショウを睥睨へいげいしていた。鋭い爪が月光を受けて輝き、翼をはためかせて滞空するその様は空の王者を想起させる。鴉のくせに、今は空から攻撃してくる天魔以上に厄介な相手だった。


「嘘だろ、こっちにもきたぞ!?」

【ソイツだけじゃねーッスよ、上空に注意!!】


 スカイの警告に、ユフィーリアは弾かれたように夜空を見上げた。

 月夜を背にして翼をはためかせる巨大な鴉が二羽、ユフィーリアとショウの上空を旋回している。すぐそばで相対する一羽の援護に入ろうかとしているようで、あれらが襲いかかってきたらひとたまりもない。


「おい、他に乗っ取られた使い魔はどれぐらいだ!?」

【鴉が五羽と残りは鼠と猫ッス。こっちは鴉が二羽いるんで、あー、ちょ、やば、一般人はなるべく攻撃しねーでどーにかしてああああやばいなんスかこの量はあああああ】


 スカイの悲鳴らしき声で通信はぶつりと途絶えた。通信の向こう側でなにかが起きたことを伝えていたのだが、なにが起きたのかを察することができなかった。

 ユフィーリアが問いかけるより先に、敵に操られた鴉が攻撃を仕掛けてくる。一度空高く飛び上がったと思ったら、ぐるんと空中で華麗に旋回して弾丸のような速度でもってユフィーリアめがけて突っ込んでくる。


「クソが!!」


 悪態を吐いたユフィーリアは、突っ込んできた鴉を飛び退って回避。嘴が硬い屋上の床を貫いて瓦礫が飛んできて、ユフィーリアは早々に逃げることにした。こちらはショウを抱えている以上、攻撃することができないのだ。

 一羽が逃したことで、残りの空を飛んでいた二羽も同じように空から急降下して攻撃を仕掛けてくる。足場の悪い屋上で動きが制限される上に、ユフィーリアは両腕が使えない状態にある。今の状況は圧倒的に不利だ。

 なに間抜けにも敵に使い魔を乗っ取られてんだよ、とユフィーリアは絶叫と共に上官のスカイへ苦情を言おうかと思ったのだが、彼からしてみれば手駒が減らされた状態だ。攻撃の手段が減ったと考えれば、同情の余地もほんの少しはあるだろうか。

 すると、飛んでくる鴉の眉間に銀色の弾丸が突き刺さった。「ぐぎゃあああ!!」と鴉があろうことか絶叫を上げて墜落し、地面に叩きつけられる轟音がユフィーリアの耳を劈く。見れば銀色の狙撃銃を構えたシズクが次の獲物を狙っていて、彼女は寸分の狂いもなく二羽目の鴉を墜落させる。さすが狙撃手といったところか。

 何故、敵の位置に立ったはずなのに助けるのか。彼女は一体なにがしたい?

 ユフィーリアは構わず空き部屋を探すことにする。三度目の銃声が背後で聞こえてきて、しかしなにかを撃ち抜くような感覚はなかった。おそらく外したのだろう。


「ユフィーリア、背後にッ!!」

「あ、だッ!?」


 シズクの銃弾を避けたらしい鴉が、ユフィーリアの背中めがけて突進してくる。

 かろうじて回避したユフィーリアだが、巨大な鴉が生み出す衝撃は凄まじいものがあり、足場の悪い屋根の上ということもあってバランスを崩してしまう。ぐらりと体が傾き、ユフィーリアは空中に投げ出された。

 簡単に反撃ができないその隙を、巨大な鴉が見逃すはずがない。素早く急旋回してユフィーリアめがけて突進してきた鴉の攻撃からショウを守る為、ユフィーリアは彼を強く抱きしめて鴉に背中を向ける。鋭い嘴は運良く回避できたものの、突進をまともに受けた為にすぐ近くの建物に転がり込んだ。


「げっふぇッ、あだッ」


 埃臭く狭い部屋に押し込まれたユフィーリアは、木製の床の上を転がった。壁にぶつかって動きを停止させたが、ぽっかりと開いた大きい穴から再び鴉が旋回して飛び込んでこようとする姿が見えた。

 ユフィーリアは口に入った埃を唾と共に吐き出して、抱きかかえていたショウを壁に寄りかからせる。「すぐに終わらせる」とユフィーリアが言うと、彼は小さく頷いて送り出す。

 散々辛酸を舐めさせられたことに我慢の限界がきているのだ。ユフィーリアは青い瞳に殺意を漲らせて、突進してこようとする鴉を真正面から睨みつけた。

 腰から佩いた大太刀の鯉口を切り、標的を視界に捉える。ユフィーリアは短く息を吸い、深く吐き出して思考回路を戦闘用のものへと切り替えた。それだけで神経が研ぎ澄まされて、周辺の雑音が消えていく。

 切り札の『絶刀空閃ぜっとうくうせん』を使うことも考えられたが、やはりここは普通にぶった切ってやるのが一番だ。

 嘴を大きく開けてぽっかりと開いた穴に突っ込もうとした鴉の顔面めがけて、ユフィーリアは切断術を見舞った。視界に存在するものであるならば、硬度や距離など関係なしに斬ることができる絶技を。

 薄青の刀身は、巨大な鴉に届くことはなかった。しかし物理的に届かない距離にいても、切断術は確かに鴉の命を刈り取った。


「――、ぎゃ、ああ」


 断末魔にも似たしゃがれ声を嘴から漏らして、脳天を切り開かれた鴉は墜落していった。頭蓋骨をご開帳されて死んでいった鴉は、脳味噌を丸ごと地面にぶち撒けて死んでいた。その有様は酷いもので、一般人であれば目を覆いたくなるほどだ。

 フンとつまらなさそうに鼻を鳴らしたユフィーリアは、ショウの治療をしてやるべく室内に取って返す。壁に寄りかかったショウは苦悶の表情を浮かべて、千切られた左腕を押さえていた。血の流れは少量になったが、比例するようにショウの顔色も悪くなっている。このままでは失血死してしまう。


「ショウ坊、意識をしっかり持て。今治療してやるからな」

「もん、だい、ない……治療は、必要ない」

「必要ねえ訳ねえだろうがよ。ッと、まずは止血……患部を縛って縫合でもしとくべきか?」


 外套の内側を漁って、患部を止血する為の縄と布と薬品などを詰めた木箱を順に取り出していった。ショウは首を振って必要ないことを告げているが、それでもまずは血を止めなければショウの命が危ないのだ。

 無残に千切られた左腕の傷跡を見やって、ユフィーリアは歯を噛み締める。自分がぼんやりと突っ立っていなければ、ショウだって腕を引き千切られることはなかったはずだ。これは完璧に自分の落ち度である、彼に責められたって文句は言えない。

 傷跡を縄で圧迫して血の流れをき止め、次いで医療品を大量に詰めた木箱を乱暴に開ける。中身は包帯や清潔な手巾や消毒液があるだけで、ユフィーリアが望むような医療器具はない。そもそもユフィーリアは最低限の医療知識は持ち合わせているものの、専門の器具はそれなりに資格を持っていなければ購入することすらままならない。


「クソッタレ。グローリア、医者をこっちまで呼べねえのかよ」

【無理な相談だね。衛生部隊に所属する子は、全員こっちに出張って貰ってるから】

「贔屓かテメェ。帰還したらその腕もぎ取ってやろうか」


 ショウの頭で存在を主張する赤い鼠に向かって悪態を吐くと、ユフィーリアは仕方なしに包帯をショウの左腕の傷跡に巻きつけた。こんなものは気休め程度にしかならないが、やらないだけマシだ。

 丁寧に包帯を巻きつけてやると、ショウは細々とした声で言う。その視線はユフィーリアの背後へと向けられていた。


「…………ユフィーリア、あれを」

「…………ああ、分かってる」


 トン、という軽い足音。

 部屋に生まれた第三者の気配に、ユフィーリアはゆっくりと振り返る。

 ぽっかりと開く大穴から差し込む月光を背負って、青い髪の少女がそこに立っていた。銀色の狙撃銃は月明かりを受けて鈍く輝き、少女は――シズクは、キュッと桜色の唇を引き結んだ。なにかを伝えようとしたいようだが、どう伝えればいいのか分からない――そんな雰囲気があった。

 だから、ユフィーリアから切り出してやることにした。最大限の敵意を込めて。


「――今更なにしにきやがったんだ?」


 シズクは怯えたようにビクリと肩を震わせて、それから「えっと……」と言葉を探すように視線を彷徨わせる。彼女は銀色の狙撃銃を抱きしめて、


「あの、オニーサン大丈夫かなって」

「そうだな。お前が庇った少年にやられた傷は、医者にでも見せなきゃいけねえんだけどな。一応止血はしたけど」


 苛立っているせいか、吐き出す言葉の一つ一つにも棘が混じっている。

 本当は彼女にも少年を庇う理由があるのだろうが、その理由をシズクは話そうとしない。口を噤んだまま、本心を明かさない。

 それが、ユフィーリアを余計に苛立たせた。


「…………だったらあの少年を殺しにいくか」

「ッ!!」


 ポツリと呟いた言葉を素早く拾ったシズクが、弾かれたように顔を上げる。その可愛らしい表情は絶望のあまり強張っていて、それでも少年を殺させるものかと気丈に自らの意思を奮い立たせる。


「させない」

「なんで?」

「ウチがさせない。あの子は、そういうことをする子じゃない」

「現実を見ろよ。あの少年はショウ坊の左腕を引き千切ったんだぞ。これ見てまだンな寝惚けたことが言えんのか」

「あの子はそういうことをする子じゃない!!」


 シズクの絶叫が部屋にこだまする。現実を見ているだろうが、頑なにあの少年がショウを害するような子ではないと主張する彼女に、ユフィーリアは舌打ちをくれてやった。

 少女が誰を庇おうが、ユフィーリアには興味すらなかった。どんな理由があろうと、どんな事情を抱えていようと、それを話そうと黙秘しようと、敵の位置に立たなければ容認しようと思っていた。目的を達成して雲隠れをしようと、追いかけることすらしないだろう。

 しかし、敵の位置に立ってしまえば話は別だ。ショウを害した少年を、理由もなく庇うのであればユフィーリアの敵だ。


「いつまでもそこに立ち続けんなら、お前は俺の敵だ。遠慮なくお前をぶった斬らせて貰うぜ」

「ウチはキミの敵じゃない……それだけは信じて。お願い」

「だったら少年を庇い続ける理由を言え」

「ッ」


 シズクは唇を引き結んだ。銀色の狙撃銃を抱きしめる腕が一瞬だけ強張るが、それでも彼女は首を横に振って理由を話すことを拒否した。

 業を煮やしたユフィーリアは、乱暴に銀髪を掻き毟る。敵じゃないとは言いつつ、敵を庇い続けるシズクの所業に苛立ちは臨界点に達した。壁に寄りかかったままのショウに「悪いがちょっと行ってくる」とだけ告げると、ユフィーリアはぽっかりと開いた大穴にずかずかと遠慮のない足取りで歩み寄った。棒立ちするシズクを押し退けて、ユフィーリアは混沌とした戦場となりつつある『二の島』を見下ろす。


「全部喋んねえなら、もういい」


 夜風に銀髪をなびかせて、ユフィーリアは狙撃手の少女を一瞥した。


「探し出して殺してくる。一本ずつ両手両足をもいでいけば、お前との関係性も喋るだろ」

「ッ!! ダメ、やらせない!!」


 銀色の狙撃銃を驚くべき速さで構えたシズクは、その銃口をユフィーリアの心臓に照準する。

 彼女の弾丸では何者をも殺すことはできない。だがその弾丸は精神に干渉するものであり、きっと想像もつかないような幻覚や悪夢が待ち受けていることだろう。

 それでも、ユフィーリアの態度は変わらなかった。どっちつかずではっきりしない、加害者側に立ちたいのか被害者側に立ちたいのか分からないままでいるシズクにうんざりしていた。シズクに銃口を向けられたところで両手を挙げて「話し合おうぜ」など弱気な姿勢は見せることなく、彼女はピンと背筋を伸ばして胸を張り、狙撃銃の銃口を掴んで心臓のある位置で固定させた。


「――――」


 シズクは息を飲んだ。

 銃口はほとんどゼロ距離である。引き金を引けば一瞬でユフィーリアの精神は狂ってしまうことは間違いない。

 それでもユフィーリアには勝算があった。たとえここで引き金を引かれようとも、撃鉄が落ちて弾丸が射出されるより前にユフィーリアはシズクを蹴飛ばすことができる。切り札である『おり空・絶刀空閃』を使うまでもなく、彼女を無力化することなど容易い。


「銃口を向けてくるってこたァ、意地でも少年を庇うってことだろ。だったらねじ伏せてでも阻止してみろよ」

「やらせない……ッ!! 絶対に、スバルは殺させない!!」


 シズクは絶叫して、引き金にかけた指を屈伸させる。

 その直前にユフィーリアは、掴んでいた銃口を天井へと跳ね上げた。ゼロ距離でユフィーリアの胸に触れていた銃口は狙いを逸れて、天井をガツン!! と穿つ。パラと天井の木片が落ちてきた程度で、崩壊する気配はない。

 深海色の瞳を見開いて固まるシズクに次手を打たせない為に、ユフィーリアは彼女の鳩尾を蹴り飛ばした。一体彼女の華奢な足のどこにそんな脚力があったのか、シズクは部屋の奥にあった玄関の扉を吹き飛ばして廊下に転がる。すかさず彼女は狙撃銃を構えて次の弾丸を撃ってくるが、ろくに狙いも定めていない為に回避はあらぬ方向へ弾丸は飛んでいく。

 壁に寄りかかったままのショウは、ユフィーリアを見上げて首を横に振った。「奴は殺すな」と赤い瞳は物語っているが、ユフィーリアはひらひらと手を振っただけで答えとする。

 蹴飛ばされた鳩尾が相当な打撃となったのか、シズクは堪らず口から胃液を吐き出していた。消化しかけの食べ物も一緒に出てきて、えた臭いが部屋から出てきたユフィーリアの鼻孔を掠める。無様に床を這う青い髪の狙撃手を、追い討ちをかけるように回し蹴りを叩き込んだ。


「いッ、だ」


 横に吹っ飛ばされたシズクは、かろうじて掴む狙撃銃で威嚇の射撃を放ってくる。弾丸はユフィーリアの頬を掠めて背後に飛んでいき、遠くの方で壁かなにかを穿つ音を聞いた。

 ユフィーリアは強く床を踏み込んで、シズクへ肉薄する。瞳を見開いたシズクの顔を絶対零度の目で見下ろして、胸倉を掴んで隣の部屋の扉めがけて叩きつけた。扉を破壊して部屋の中を転がる少女を追いかけて、ユフィーリアは埃臭い部屋の中へと足を踏み入れる。

 そこはどうやら倉庫のような場所のようで、たくさんの木箱が積み重ねられていた。狙撃手の少女にとって、遮蔽物があるということは絶好の戦場である。存在感を限りなく薄くすれば、のこのこやってきた獲物を狙い撃つなど容易い。

 しかし、相手は『最強』ユフィーリア・エイクトベルである。天魔最強とも名高い【銀月鬼】と契約を果たした、規格外の天魔憑きだ。

 ユフィーリアは積み重ねられた木箱をぐるりと一瞥して、適当な木箱を渾身の力で蹴飛ばした。


「が、ぁああッ!!」


 蹴飛ばした木箱は薄い壁を突き破り、木箱と共に隠れていたはずのシズクも同様にさらに隣の部屋へ吹き飛ばされた。次の部屋は空き部屋のようで、窓が一つあるのみだ。埃を被った床の上を仰向けで滑っていき、ちょうど部屋の真ん中で彼女は止まった。

 ユフィーリアは仰向けに倒れたシズクを見下ろす。彼女はまだユフィーリアをあの少年の元へ行かせまいとしているようだが、その手から相棒である銀色の狙撃銃は離れて部屋の隅を転がっている。全身を埃塗れにしてシズクは匍匐前進で狙撃銃に手を伸ばすが、真っ白な少女の手の甲をユフィーリアは踏みつけて床に縫い止めた。


「うぐッ」

「これで終わりか?」


 ぐりぐりと靴底でさらに圧力をかけてやると、シズクは苦悶の表情を浮かべて「うぎッ」と悲鳴を上げた。


「お前がここで倒れりゃ、俺はあの少年を狙いに行くぜ」

「い、やだ……!!」


 手の甲を踏み潰さんばかりに力を込められて、それでも彼女は歯を食いしばって拒否の姿勢を示した。

 強情な少女に、ユフィーリアはつまらなさそうに鼻を鳴らした。踏みつけている手の甲を解放し、シズクを蹴飛ばして仰向けに転がす。痛みに歪む愛嬌のある顔の横に、ユフィーリアは黒鞘からゆっくりと引き抜いた薄青の大太刀を突き刺した。

 柔らかな床板を貫通して、薄青の刀身がシズクの長い髪を床に縫い止める。狙撃手としての命といっても過言ではない眼球からほんの少しずれた位置に突き刺さった青い刀身を視線だけで追って、彼女は真っ直ぐに自分を見下ろしてくる銀髪碧眼の鬼を見た。

 かすかに震えているのが分かる。手元に武器はなく、ユフィーリアには今すぐシズクを無力化――いや、殺害できるだけの実力がある。状況的にも優位に立っているのはユフィーリアだ。シズク・ルナーティアという少女に残された選択肢は、ここで抗ってその首を折られるか、少年のことは諦めて命乞いをするかの二択である。


「どうしたよ。もう終わりなら、死にたくないとでも叫べばいいじゃねえか。そうすりゃ俺はあの少年を探し出して殺しにいくからよ」

「ッい、やだ……絶対に、行かせないッ!!」

「まだ言ってんのかお前は」

「それは、こっちの台詞だよ!!」


 シズクは深海色の瞳を吊り上げて、声音に怒りの色を滲ませて叫ぶ。


「あの子は悪くないって、なにも悪くないって言ってるのに!! どうして狙うの!? どうして殺そうとするの!? 話し合いとか、平和的な解決は望まないの!?」

「そうか。平和的な解決がお望みなら、お前は腕千切られても同じことが言えんだな?」


 ユフィーリアはシズクの顔の横にひたりと添えた大太刀を引き抜くと、その切っ先をシズクの喉元に突きつけた。目前に迫る殺気にシズクの白い喉が蠕動ぜんどうし、怒りの表情は一瞬で掻き消えてしまう。


「相棒はあの少年に腕を引き千切られたんだぞ。話も聞かねえような状態のあいつに、なんて話しかけてやめてもらうんだ? 『もうやめて』? 『私たちは敵じゃない』? 本気であの少年に言葉が届くと思ってんなら、そのお花畑の脳味噌を取り出して魚の餌にしてやろうか?」

「ちが……だって、あの子はそんなことをするはずない……!!」

「まだ言ってんのか!! いい加減に現実を見ろって言っただろうが!!」


 ユフィーリアから怒鳴りつけられて、シズクはとうとう深海色の瞳から大粒の涙を流し始める。

 彼女だって、あの場にいたのであれば見たはずだ。シズクが庇う少年がユフィーリアたちを襲い、ショウの腕を引き千切った瞬間を。心の中で「そんなはずがない」と何度も言い聞かせ続けていたのだろうが、それもこれだけボロボロにされて現実を突きつけられれば、気丈に振る舞おうとその精神は脆く崩れる。

 ユフィーリアは大太刀を黒鞘に納めて、静かに涙を流すシズクに問う。


「ボコボコに打ちのめされて、殺されそうになって、そうまでしてあの少年を庇う理由は一体なんだ」



「――――!!!!」



 涙声のシズクは、本当に悔しそうに叫んだ。


「あの子が好きなの、スバルが好きなの!! ずっと昔からあの子が好きで、アクティエラに侵入したかったのだってあの子を助ける為だったんだもん!! 好きな人が殺されそうになったら、体張ってでも止めるのが当たり前でしょ!?」


 ほとんど逆上した状態で、シズクは叫び続ける。

 あの子が好きだと。

 スバルというあの少年が好きなのだと。

 恥もなにもかもを捨てて、シズクは泣きながら絶叫した。


「あの子は優しんだ、誰かを苦しませて殺すような子じゃない!! 優しくて、正義感があって、誰かが苦しんでるところなんて見たくない子なんだよ!! ウチは知ってるもん、スバルがそんなことをする子じゃないって知ってるんだもん!!」


 泣き喚いて少年の正しさを説くシズクに、ユフィーリアもさすがに罪悪感を覚えてきた。

 シズクがなにかを隠していたことは分かった、それがあの少年を救出したいが為であることも理解した。

 そしてその救出したい理由が、まさか少年のことを愛しているからだとは誰が思うだろうか。

 次第に嗚咽おえつを漏らし始めるシズクは、悔しそうに――本当に悔しそうに言う。


「ウチは弱いから……所詮は狙撃手だもん。接近戦は苦手だし、スバルを助けることができないって分かってるもん……それでも助けたくて強くなろうとしたのに……やっぱりウチは弱いなぁ……」


 どれだけ努力をしようと、少女が望むような力は身につかなかった。

 自分の手で愛する者を助けることができないのであれば、逆立ちしても状況は変わらないのであれば。

 手を伸ばして縋りつく相手は、決まっている。


「お願い……キミにとっては敵かもしれないけど……こんなことを頼むのは……本当に本当に、苦しいけれど……」


 そして、シズクは絞り出すような声で懇願した。



「――――スバルを助けて……ッ!!」



 ユフィーリアは埃塗れの床に寝転がったまま咽び泣くシズクを引き上げて起こし、ぼさぼさになった彼女の青い髪をさらに掻き乱す。ぐっしゃぐっしゃになった髪を押さえて涙で頰を濡らした少女は、呆気に取られた様子でユフィーリアを見上げた。


「ようやく、本当の『助けてねがい』を言ったな」


 少女が託した『助けて』は、確かに届いた。


「任せろ」

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