序章【契約は密かに交わされた】

「私と契約をしないか」


 緊張感の漂う中、先に口を開いたのは異形の怪物だった。

 かろうじて人の姿は保っているものの、泥と血に塗れた銀の髪は乱れに乱れて、白磁を通り越してもはや紙の如く白く変化してしまっている顔の中心では、血走った青い瞳が輝いている。だが青い瞳の片方は潰れてしまっていて、隻眼の状態にあった。

 着物のような衣装をまとっているが、白い布地は無残にも引き裂かれてしまい、生気を失った肌が垣間見えている。そこかしこに裂傷を刻まれているどころか、華奢な手足もあらぬ方向に折れ曲がってしまっていて、滑らかな口調で喋ること自体がもはや奇跡に近い。

 まさしく満身創痍である異形の怪物は、死の淵に立たされてもなお朗々と語りかける。


「悪い話ではないと思うのだけど」


 異形の怪物と相対しているのは、黒い髪の青年だった。

 前髪だけが長く後ろ髪は短いという特殊な髪型以外は、人間ならばどこにでもいそうな普通の青年である。端正な顔立ちに黒曜石の瞳、引き結ばれた唇は異性の注目を集めそうなものだが、この場には異性どころか人の気配すらない。――それもそのはず、この場は戦場だからだ。

 陽光を受けて輝く薄青の刀身を持つ大太刀を異形の怪物へ突きつけたまま動かない青年は、少し考えるそぶりを見せてからゆっくりと口を開く。


「内容による」

「君にとっても悪い話ではない――むしろ君にしか得はない契約だ。話を聞く気になってくれたことに感謝しよう」


 異形の怪物は感謝の意を示して、青年へ向かって頭を下げた。その際にかろうじてまとっているだけに過ぎない無残な布地がずれてしまい、豊かな双丘が青年の眼前に晒されることとなる。

 ひゅう、という青年の口笛を聞こえていないのかあえて聞き流したのか、異形の怪物は「さて」と続けた。


「君に私の全てを託そう。私の異能力、私の戦闘力、全てを君に」

「随分と大盤振る舞いだな。なにか裏がありそうだ」


 突きつけていた薄青の大太刀を黒鞘に納めた青年は、苦笑を浮かべると共に肩を竦めた。異形の怪物は「当たり前だろう?」と呆れた様子で言う。


「これはだ。私は私の全てを君に託す代わりに、君には私の憎悪も引き継いでもらいたい」

「憎悪ね。いまいちピンとこない」

「私の全てを託すのだから、私の感情、私の記憶を引き継いで然りだろうに」

「なるほど、俺の体を乗っ取ろうって訳か。どこに得があるってんだ」

「うん分かった。話を変えよう」


 見るからに瀕死の重傷を負っているはずの異形の怪物は、言葉を探して青い瞳を虚空に彷徨さまよわせる。だんだんと異形の怪物が提示してくる契約とやらが信用できなくなっていた青年は、どうやってこの異形の怪物にトドメを刺すべきか考えていると、


「――そうだ、復讐だ。私の代わりに、君には

「復讐ね。それだけ元気なら寝てりゃ治りそうな予感はするけど」

「馬鹿言え。片目を潰されて、腕も足もこれだけ折られていて、私はもう戦えない。こうして会話することだけで精一杯だ」

「そうは見えねえけどな」

「意外と頑丈なのだよ、私は」


 青年は自前の黒髪をガシガシと掻いて、


「つまり、それは『助けてほしい』っていう願いでいいんだな?」


 青年にとってはまさにそこが重要だった。

 それが「助けて」という言葉に値するか否か。それが青年の行動原理だった。

 異形の怪物は青い瞳を瞬かせ、それから「ああ」と一度だけ頷いた。


「私を助けてほしい。それが契約だ」

「ああ、任せろ」


 青年の右手が差し出される。それに応じるようにして、異形の怪物は折れ曲がってしまった右腕を同じように差し出した。

 心の底から嬉しそうに異形の怪物は微笑んで、


「契約は成立した。これより私は君の一部となる。存分に使って私の願いを果たしてくれ――ユフィーリア・エイクトベル」

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