第二十幕 佞臣の企み

 数日後の夜。


 ラン=リムは未だにマリウス達に失望したショックで塞ぎ込んで、部屋に籠っていた。その夜も彼女は寝台に腰掛けて独り打ち沈んでいた。


『マリウス殿……ヴィオレッタ殿……。何故じゃ』


 1人なので拘根国語で呟く。マリウスは現トランキア王にして、『夫』であるガレスも認めた傑物。ヴィオレッタもその覇道を支える軍師として極めて聡明であるという印象を彼女は抱いていた。


 彼等になら後事・・を託せる。そう思っていたのだ。しかしそれは見せかけだけの事だったのだろうか。自分達の目が節穴だったのか。


 そんな風に悲しみと悔しさから自己の想念に沈んでいた彼女は気付くのが遅れた・・・・・・・・


 部屋の扉がゆっくりと音を立てずに開いた事に。



『ふふふ……鍵も掛けぬとは不用心な事ですなぁ、女王陛下?』

『……っ!?』


 突然聞こえてきた耳慣れた母国語にラン=リムはギョッとして顔を上げる。今の声には勿論聞き覚えがあった。そもそも今この国で自分以外で拘根国語を話す人間と言えば……


『き、貴様……シン=エイ!? 何のつもりじゃ!?』


 動揺して寝台から立ち上がる。シン=エイは数日前にマリウスの執務室で会った時のような嘘くさい笑顔ではなく、悪意に満ちた歪んだ笑みで彼女を睥睨していた。


 ラン=リムの肌が粟立つ。やはりこの男は何か良からぬ事を企んでいたのだ。彼女は身の危険から咄嗟に大声を上げようとして……


『――グ=ザン!』


 押し殺したシン=エイの声と共に、何か巨大な物が風圧を伴う程の速度で部屋を横切った。グ=ザンだ。奴は驚いて硬直するラン=リムの首筋に、その巨大な手で手刀を打ち込む。


『……っ!』


 その巨体からは考えられない程の素早さだ。ラン=リムは何ら能動的な動作を行う事も出来ずに、手刀を打ち据えられて意識を失った。その身体はそのままグ=ザンに抱き留められる。


『……よし。誰にも気づかれていないな? ラン=リムを担げ。さっさとズラかるぞっ!』


 今の一瞬の暴挙が衛兵に気付かれた様子はない。周囲の様子を窺うシン=エイは小声で鋭くグ=ザンを促して、そのまま事前に調べておいた逃走ルート・・・・・を伝ってディムロスの宮殿を抜け出し、遂に街からも脱出する事に成功した。ディムロスは現在大掛かりな都市拡張計画の真っ最中で、城門や城壁が開放されていた事が彼等にとっては・・・・・・・幸いした。


 そして事前に外に繋いであった馬に騎乗すると、一路イスパーダ州を目指して駆け出していった。捕えたラン=リムは未だに意識を失ったままだが、グ=ザンが軽々と抱え上げて自らの馬に相乗りさせるような形で跨らせていた。




『ふ……くく……はははは! やったぞ! 成功した! この女さえ手に入れればもう用はない。誰がこんな戦乱だらけの野蛮な大陸に居残るか!』


 馬を走らせ会心の笑いを浮かべながらも吐き捨てるシン=エイ。彼等は元々この為だけにマリウス軍に潜入・・したのだ。


『くくく……あのマリウスとかいう若造。トランキア王だか何だか知らんがとんだ凡愚よな!』


 彼等の企みを見抜けずにシン=エイの方便を額面通りに受け入れて、結果まんまとこうしてラン=リムを攫われたのだから間抜けとしか言いようがない。


 明日になれば彼等と共にラン=リムの姿も消えている事から大騒ぎになって、誘拐と結びつける者も出てくるだろうが、その時には彼等はもう遥か彼方だ。絶対に追いつけないし、他の街の衛兵への伝達も間に合わない。


 そしてそのままマリウスの領土を抜けてイスパーダ州に入ってしまえばもうこっちの物だ。道中の安全はグ=ザンがいるから問題ないし、後は港町でゆっくりシャンバラ行きの船を見つけて乗り込むだけだ。



『う……うぅ……はっ!?』


 その時苦し気な呻き声と共に、ラン=リムが覚醒した。そして自分の現状を確認するとその顔が青ざめる。シン=エイはグ=ザンの馬に並走するようにしてラン=リムに声を掛ける。


『おやおや、お目覚めですか、女王陛下? ま、今更手遅れですがねぇ』


『き、貴様ら……これは何のつもりじゃ! 妾をどうするつもりじゃ!?』


 本能的に暴れようとするラン=リム。シン=エイはそれを嘲笑いながら忠告する。


『おっと、余り暴れない方が身の為……いや、御子・・の為ですぞ? 落馬してその衝撃で流産でもしたいのであれば別ですが』


『……っ!!』


 その言葉の効果は覿面で、ラン=リムは一瞬で硬直したように全ての動きを止めて大人しくなった。


『くくく、それでいいんですよ。しかし悲観する事はありませんぞ? お喜び下さい。あなたはこれから拘根国の女王に返り咲くのですから!』


『……!? な……何を言っておるのじゃ、お主は!?』


 気でも違ったかという風に彼を見やるラン=リム。しかしシン=エイには確信があった。


『あなたはご自分の影響力という物を過小評価されておいでだ。あなたが国に戻れば民はすぐさま受け入れるでしょう。勿論、あなた達が勝手に逃がした妹君も喜んであなたに玉座を返上するでしょうな』


『……! 何を馬鹿な……! 妾はもう拘根国には戻れん! 戻るつもりもない! それに仮に戻ったとしても、誰がお主等のような佞臣に側仕えを許すか!』


 ラン=リムの怒りは当然の物だ。だがシン=エイは嫌らしい笑みを浮かべてその怒りを受け流した。


『くく、その時は再びあなたの妹君を預からせて・・・・・もらうだけですよ。いや、今度はもっと大切な客人・・・・・をお預かりする事が出来るかも知れませんな?』


 シン=エイの目線はラン=リムの大きく膨らんだお腹に向く。彼が何を示唆しているかは明白だ。


『……っ! お、お主等は……どこまで腐っておるのじゃ……!』


 ラン=リムが怒りに顔を歪めながら吐き捨てる。だが当然そんな悪罵は露ほどもシン=エイ達の心を乱させる事はない。むしろ怒りと屈辱に震えるラン=リムの顔を見やって楽し気に嗤う。


『くははは、さあ、お喋りはここまでです。今夜の内に出来るだけ距離を稼いでおきたいのでね。もう少し速度を上げますよ?』


『……! く……い、嫌じゃ! 妾は…………ガ、ガレスッ!』


 このまま連れ去られればもう戻れない。それを解っていてもお腹の子を盾に取られ暴れる事も出来ない。ラン=リムに出来る事はただ悲嘆に暮れて、無意識に死んだ『夫』の名を呼ぶ事だけであった。


『ははははははは――――っ!』


 そしてそんな彼女をシン=エイは調子に乗って嘲笑う。そのまま2騎の騎馬は速度を上げてディムロスから遠ざかり、闇の中へと消えていく……はずだった。




「――そこまでにしてもらおうかな?」




『……っ!!?』

 突然前方・・から聞こえてきた声に、シン=エイもグ=ザンも、そして勿論ラン=リムも……一様に驚愕して馬の手綱を引いて停止した。


 彼等の視界の先、まるで行く手を塞ぐように街道の真ん中に佇んでいるのは……立派な青鹿毛の愛馬ブラムドに跨った、マリウス軍の君主にしてトランキア王マリウス・シン・ノールズその人であった!

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る