【KAC8】結婚三周年そして派遣社員入社三周年

五三六P・二四三・渡

第1話

 仕事を止めることになりそうだ。

 実際に何か言われたわけではないが、切られる、と言う予感があった。

 私は派遣社員なので、三年で任期が切れる。働きぶりによっては、契約社員として雇ってもらい、持続して働けるのだが、私は雇い主の眼鏡にかなっていないという実感があった。

 残念であったが、仕方ないという気持ちもあった。結局のところ私の実力不足である。その仕方がないという気持ちが、直接雇用に至れなかった原因でもあるとは自覚してはいた。自覚はしているが、これまで直せなかったのだし、これからも直せないのだろう。

 それに職場の人間関係も良好ではなかったので、これでリセットできると考えると清々した。

 人間関係。宇宙一嫌いな言葉だ。いくら嫌っていても、自分はそれに甘えざるを得ないというところが一番嫌いだった。

 ため息をつく。吐いた白い息が、ゆっくりと溶けていった。それを見て、初めて寒さを自覚した。行き交う通行人も、皆身を震わせていた。

 そういえば妻と出会ったのもこんな季節だった。

 その妻に仕事のことについて話さなければならないと思うと、気がさらに重くなった。だがそうもいっていられない。私は携帯電話を取り出し、妻に連絡した。

「家の近くのファミレスで話しましょう」

 用件を伝えると、妻は事務的にそう言った。

 安心感さえ覚える口調だ。

 

 店内には、学生客と家族連れで埋まっていた。流行りのポップソングがかかっている。

 妻は先に席についていたが、注文はまだしていないようだ。

「とりあえず、お疲れさま。と、いいましょうか」

 私が席に着くなり、彼女はそう切り出した。

「お疲れさま?」私は水を飲んだ「確かにそうかもしれないが、今ふさわしい単語ではないように思えます」

「そうかもしれません。しかしわたしにだって労う気持ちはありますよ」

「私はこれからのことで頭がいっぱいですよ」半分嘘だった。仕事を探さねば、と言う気持ちはあったが、あまり焦りは感じなかった「あなたは恨みつらみを吐き出してもいいんだすよ」

「まさか。仕事の大変さはわたしもわかっていますよ」

「有り難くて涙が出ますね」

 私はとりあえずコーヒーと、ステーキセットを頼もうとしたが、妻がせっかくだからと、アルコールを頼もうと言う。重要な話をするのにいいのかと尋ねたが、こんな時だからこそですよ、と妻は言った。

「ではビールを」私は言った。妻はそれに倣った。

 料理と飲み物が運ばれてきて、二人で乾杯をする。

「この世で最も嫌いなものがあります」妻はビールを口に含んだ「飲み会において、食べ物もほとんどなくなったのに、グダグダと話している時間のことです。コミュニケーションをとるという点から見れば必要な時間なのはわかりますが、嫌いなものは嫌いでした」

「それは同意しますが。あなた酔っています?」

「いいえ。ただ二人だけだと気が楽ですね。食べ物がなくなって、こちらが黙ってしまえば、何かを待っているのでなければ、そのまま帰るしかない」

「わかります」

 私が答えると、妻は微笑んだ。

「普通はそこでわかる、とは答えませんよ。流石に咎めないと」

 私は肉を頬張る。

「私にはそんな資格はありません。しかし、そういうところが、仕事で直接雇用にに至れなかった原因なんでしょうかね」

 妻はオムライスを、口に運んだ。

「どうでしょうね。そういうところはあなたの美徳でもあると思いますが」

 まさか本気ではあるまい。

「何の役にも立たないどころか、他人に害をなすことが、美徳かと言われれば疑問しか感じませんね」

 彼女は初めて会ったとき「わたし、コミュニケーションが苦手なんです」と言ってきた。私は思わず、私もです、と同意したが、私と彼女では嫌いの種類が違うことが、結婚してすぐにわかった。

 私はコミュニケーションが苦手で嫌いだったが、妻はコミュニケーションが得意で嫌いだった。彼女は友人も多く、会話もそつなくこなす。しかし人と話すことが極端に不快なのだそうだ。私とて例外ではなく、今も多くのストレスを感じていることだろう。

 それを察してと言うわけではないが、私は本題に入るべく、鞄の中から書類を取り出した。

 妻はわざとらしく、書類をまじまじと見た。そして目を瞑る。

 書類には『離婚届』と書かれてるはずだった。

「話が速くていいですね」妻は眉をひそめた「といいたところですが、酒の席で向いているものとは思えませんね」

「申し訳ありません、ここで書くのを促しているのではなく、一応忘れないうちに渡しておこうと思ったのです」

「しかし、何も今じゃなくても」

 妻は困惑を少しだけ、表面に出した。

「これ以上冗談にしろ褒めてもらうと、この関係を続けられるのではと、期待してしまいそうになるからです」

「成る程、そういうことでしたら今書きましょう」

 まさか本当にこの場で書くとは思わなかったが、止める理由はなかった。たまたま通りかかったOLが一瞬だけこちらのテーブルを見て、ぎょっとした後、目をそらして、その場から速足で去っていった。

 これで一旦一区切り。

 私は妻のことが嫌いだったのだろうか。

 よくわからない。

 同族嫌悪のようなものは感じたが、似てるようで私の彼女は別の人間だった。何を考えているのかよくわからない、と言うのは私にとって、大多数の人間がそうなので、マイナス要素には全くならないが、妻のそれは他人と比べても異質だった。しかしながら妻も私に対して同じ感情を抱いているという可能性も忘れてはならない。だからなんだという気がするが、結局のところ人と人とは分かり合えないものなのだろう。

「そういえば」と妻は筆をおき、ビールを口にした「今日は結婚三周年ですね。記念品はないのですか?」

 私はむせそうになった。

「悪趣味なジョークですね」

「ないのですか」

 私は困惑顔をさらに前に出してみる。しかし妻の表情は本気に見えた。本気で表情を作っているように見えた。

 私はやれやれ、と呟き、鞄から先ほど買った饅頭の詰め合わせを送る。

「これはこれはご丁寧に。ありがとうございます」

 妻は満面の笑顔でそれを受け取る。

「記念品、というよりは、お世話になったお土産として買ったのですけどね」

「そういえば、あなたは仕事と妻、両方失うのですね」

「そうなりますね」

「わたしは夫しか失いません」

「よかったですね」

「よくありません。新しい夫を探さなくてはありませんか」

「大変ですね」

 ここで続けて夫になりましょうか、と言えるほどうぬぼれてはいなかった。

「あなたの派遣元に新しい人を紹介していただけないでしょうか?」

 私は少し考え

「それは直接派遣会社へ連絡してください。私の領分ではないです」

 と言った。

「融通が利きませんね」

 ため息をついた妻はオムライスを口に運ぼうとしたが、すでに空であった。

 窓の外を見つめると、雪が降り始めていた。


 ◆ ◆ ◆


 結婚派遣会社。

 その名の通り結婚相手を派遣する会社だが、もちろんのこと違法の存在である。 三年前に会社の事務所の扉を叩いた、たった今目の前にいる女性は、「自分はアロマンティックなのだが、両親がうるさいので、性的関係を持たない結婚をしたい」と依頼をしてきた。

 セックスはなし。マンションの一室を区切り、生活を遮断、家事は互いに別々にやる。私は選択はコインランドリーを使い、風呂は銭湯を使う。ただし料金は彼女が持った。ヒモに見えないように、毎日派遣会社の事務所には通った。この仕事で一番大変だったのは、彼女の両親の相手だろうか。

 だがそれも今日で終わりだ。今日で三年、任期が切れ、彼女ともお別れだった。

「フィクションにおいて偽装結婚だったつもりが、本気の恋愛になる話って意外に多いですよね。あれ胸糞悪いですよね」

 妻が時計を見ながら言った。一応離婚届を提出するまではまだ妻だった。

 すでに閉店間際で、残りの客はかなり少なくなっていた。

「職場恋愛の変形と考えれば、私はそうは思いませんが、アロマンティックの方から見ればそうなのかもしれませんね」

「あなたは期待していないですよね」

「してないですけど、期待させるような言動が多いのはどうかと思いますね。恋愛方面ではなく直接雇用を臭わせることとか」

 私は頼んだコーヒーを揺らし、斑に広がるミルクを見つめた。

 彼女はフフッと声に出した。

「試してたんですよ」


 それからも我々は閉店間際まで話し合った。既に食べ物がなくなったというのに。店員に店じまいを知らされ、私達は外に出る。あたりはすっかり暗くなり、雪が軽く吹雪いていた。

「実を言うと私の方は少し期待していました」妻は両手をひらげ、その場で少女のようにくるくると回った。「もしかしたらあなたを好きになれるんじゃないかって」

「結果は?」

「駄目でした。今日も自分の嫌いな『飲み会において、食べ物もほとんどなくなったのに、グダグダと話す』と言うのをやってみましたが、不快なだけでした」

「実を言うと私もそうでした。結局のところ無理はしない方がいい。人を好きになれないのなら無理に好きになる必要なんてないんです」

「やりたくない仕事は、やらなくていいのと同じように?」

「ひそかにそう思っていますが、その二つを並べると前者の価値が下がるのでやめた方がいいでしょう」

「そうかもしれませんね」

「では、書類の手続きはこちらでやっておきますので、ここでお別れとしましょうか」

「……お世話になりました」

 妻が右手を差し伸べてきた。私も同じように右手を差し出したが、妻は手を引っ込めた。

 私が困惑していると今度は悪戯っぽく笑い拳を前に出した。私は微笑み彼女の拳と私の拳を合せる。

「では、もう会うこともないでしょうが。ご利用いただきありがとうございました」

「ええ、さようなら」

 私達は互いに背を向け、別々の道を歩み始めた。

 視界を覆い尽くすようなネオンに、目がくらむ。雪雲のわずかな隙間から、月が覗いていた。

 襟を正し、顔に雪がかからないようにうつむきながら歩いた。

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【KAC8】結婚三周年そして派遣社員入社三周年 五三六P・二四三・渡 @doubutugawa

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