2020.5.16~2020.5.31

 あなたに“いい子”と思われたくて、聞き分けの良いふりをした。何をされても、笑って許した。別れ話を切り出された時も、あなたが望むならと頷いた。

 いま、部屋で独りコーヒーを飲む。あなたからもらったマグカップ。縁を噛む歯が軋んで、唇から血が滴る。それは自分に嘘をつき続けた罰。

(2020.5.16)



 定時で上がれた週末。電車に揺られてきみを思う。

「……乾杯したいな」

 駅前のスーパーでビールを買った。ちょっといいやつ。玄関前で、同じように帰って来たきみと鉢合わせ。その手にはビニール袋が。

「乾杯したくなっちゃって」

 ぺろりと笑うきみに、僕も嬉しくなる。さ、乾杯しよう。

(2020.5.17)



 ただの空気の振動、それがあなたの唇に湿されれば、芳しき独奏曲に姿を変える。音というかたちをとって、あなたが私を侵していく……えも云われぬ悦びに蝸牛は悶え、鼓膜は喘ぐ。想いびとよ、今は私だけのために声を紡いでおくれ。たとえ一秒後には、他の女と言葉を交わしているとしても。

(2020.5.18)



 思春期の頃、母が憎くて堪らなかった。夜な夜な包丁を握って寝室に忍び込んだ。覚悟は決めたはずなのに、穏やかな寝顔を見ると気が削がれた。そんな日が一年続いた。

 二十歳になり、母が死病に倒れた。臨終を前に母は、

「あの時な、起きてたんやで」

 血の気が引いた。母は笑って逝った。

(2020.5.19)



 故郷に残る、廃れたローカル線の駅。僕は夜明け前のホームに佇んで、錆び付いた線路の先を眺める。 幼い頃、果てに待つ未来を想った。しかしそこに未来はなかった。積み重ねた現実に潰されて、ここへ戻ってきた。

 地平線を拓き、朝日が線路を滑ってくる。僕はもう一度歩き出そうと思う。

(2020.5.20)



 二人で湯槽に浸かりながら、貴方は私の洗い髪を指で梳いてくれた。お互いが擦れて鳴いて、肌を許すよりもっといけないことをしている気がした。

 だけど貴方はもういない。さよなら、愛しい日々。けじめは私自身の手で。


 数分後、鏡の中で、ベリーショートの女が泣き腫らした目を擦った。

(2020.5.21)



 忘れたくないから何度も思い出す。記憶を繋ぎ留めようとする。だけど、いつしかデートで行った水族館からイルカが消え、青く照らされたきみの顔はぼんやりと滲み出している。引き裂かれた想いすら、かくも無力なのだ。だから僕は先に逝くことにする。まだ、きみがきみだと分かるうちに。

(2020.5.22)



 涼やかな団地の朝。聞こえてくるのはぽろぽろと響く鳥のさえずりと、ご機嫌ななめの子どもの声だけ。青空は音もなく澄み切っている。その背後には高層ビルが建ち並ぶ。高度経済成長期の象徴は迫り来る新時代に肩身が狭そうだが、それでも自らの職務を黙々とこなしている。嗚呼、日本哉。

(2020.5.23)



 独裁国家を賛美する作風で批判を浴びた、とある作曲家。死後、研究者が作中に反体制的な意味合いを見出だしたことから、評価は一転した。しかし、

(そんなはずはない。お祖父ちゃんは国を愛していたもの)

 呟くのは、作曲家の孫娘だ。

(私が証明してみせる)

 少女の孤独な戦いが始まった。

(2020.5.24)



 初物の西瓜すいかを買ってきた。丸々と太った玉に、子供たちの喚声が響く。包丁を入れると、真っ赤な果肉が目にも鮮やかだ。大胆にかぶりつき、爽やかな甘味を口いっぱいに楽しむ。

「パパ、食べるの速い!」

「もうひとついっちゃうぞ」

「私のなくなっちゃうー!」

 今年も、夏がやって来た。

(2020.5.25)



 夜空を分厚い雲の一群が隠している。本日も地球は曇天なり。貴方からは、見えているだろうか。

 暗く冷たい旅路に恐れはなく、さりとて喜びも悲しみもない。金色の円盤は、まだ貴方の体温を残しているだろうか。

 ボイジャー、定められし航海者よ。私は貴方を想う、この淡く青い点の上で。

(2020.5.26)



 人魚の葬式には大勢の魚たちが駆けつけ、生前を偲び涙を流した。読経を終えて、魚たちは最後の別れを惜しんだ。両足を押し開き、あらわになった性器を代わる代わる貫いた。気が済んだ参列者は三々五々引き上げていった。残された遺体は節操のない波に弄ばれて、どこかへと流されていく。

(2020.5.27)



 深海調査の一団が、海底に建つ長城を発見した。古代文明の痕跡だ。表面にはたくさんの男女の名前が刻まれている。辿ると全長は数キロに及び、地図上にある記号が浮かび上がった。


 ♡


 いつの時代でも、恋人たちは愛を遺したがる――いささか感傷的な結論だが、異議を唱える者はいなかった。

(2020.5.28)



 その日、銀河系は巨大な“手”によって、あたかもピザのように切り分けられた。嘘のような話だが、この現象は世界中の天文台で観測された事実だった。そしてさらに驚くべきことに、星々の距離が短縮され、地球時間の範囲内で移動できるようになっていたのである。

 ――『星間航路開拓史』より

(2020.5.29)



 大倉おおくらは口をあんぐりと開けた。笹木ささきが手伝いを拒むなど予想もしていなかったのだ。笹木は言った。

「俺はずっと、あんたの箒だった。あんたが散らかした跡を言われるがままに綺麗にしてきた。けどな、道具もいつかは壊れるんだ」

 立ち上がる足が玄関に向かう。

「早く新しい箒を買いなよ」

(2020.5.30)



 財閥の主が路上で変死した。私が刺しました―自供したのは妻、娘、弟、執事……。探偵が出した結論は、“全て事実”。主は度重なる襲撃に耐え、家を離れてから力尽きた。

「家人に罪を負わすまいという計らいだったのだろう」

 パイプを燻らす探偵に、検死の報告が届いた。

『海水による溺死』

(2020.5.31)

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