週末は忙しい人

月波結

3周年

 付き合い始めて3年になる。


「記念日、何する?」とスマホを片手にした彼がわたしに尋ねた。料理をしていた手を止め、後ろを振り向く。

「記念日。もうすぐだろう?」

「ああ、そうだよね。覚えてたんだけど、もう3年になるんだね」

「長いよな?」

 ごろん、と寝返りを打って彼がわたしを見上げる。手にしていたスマホはローテーブルの上に置かれた。

スミレは何したい? 何処かに行く?」

「何処に?」

「さあ、温泉とか? 海外は休暇取れないしな。まさか今さら、テーマパークとか言わないよな」

 とりあえず温泉、というのは確かにありそうな話だった。でも3年も付き合っていると、わざわざ温泉まで出かけるのも億劫な気もした。

「ゆっくり過ごすっていうのはどう?」

 キスしようと思って彼が伸ばした手が止まる。

「せっかく『記念日』なのに?」

「うん、美味しいものでも作るから、ビールでも飲んで」

「……休み取るから、せめて外出しよ? いい店探して予約しておくよ」

「ありがとう」

 下を向く。

 それ以上、何も言えない。

「よし、カレンダーに印つけないとな」

 彼は記念日に赤いペンでぐりぐりと丸をつけた。


 記念日だからと言って、何をしたらいいのかよくわからなかった。もちろん記念日は1年の時も、2年の時にもやって来た。

 1周年にはまだ気持ちが逸って、2周年までこの気持ちが真っ直ぐに続くものだと思っていた。

 2周年を迎えるとその気持ちは少し落ち着いたものとなり、思い通りにままならないことでも軽く噛み砕ける余裕ができた。

 3年……。

 今はどうだろう? 素直に喜べない。


「伊藤さん」

「はい」

 営業の佐賀さんが領収書を手にやって来た。佐賀さんはわたしの2つ上で、その身のこなしは仕事のできる人だと思わせた。

「個人的に、なんだけど、伊藤さん、今度飲みに行かない?」

「え? わたしなんかと飲みに行っても楽しいことありませんよ」

「んー、大きな声で言えないんだけどね」

 佐賀さんの顔が間近に迫る。

「伊藤さんとふたりになるだけで意味があるんだよ」


 そういうドキドキすることは最近ではもう無くて、年配の夫婦のようにマンネリ化した毎日を過ごす。週末になると彼はわたしの部屋にやって来て、くつろいでから会社に出かける。


 約束は延期していた。


 彼と二股になってしまうようなのは気が引けたし、だからと言って彼と別れるかというと、3年の月日がわたしを押し留めた。学生の時からの付き合いで職場は別々だったから、仮に別れたとしても接点は他になく、顔を合わせることもないまま日常を送ることができるだろう。そうなればその後、わたしがどんな人と付き合おうが、彼がどんな生活を送ろうが、関係なくなる……。

 そういうことを冷静に考えてしまう自分が、いやらしかった。


「いつも菫が入ってみたいって言ってたあの通りのレストラン、予約取れたから」

 ありがとう、と返事をする。そこは入口が狭く、それでいてオシャレな外装のレストランで、聞いた話では予約がいっぱいだということだった。

「こんな急によく取れたね?」

「んー、予約断る客が出るの待ってた」

「……待たされるの嫌いじゃないの?」

「記念日はその日だけだから仕方ないだろ?」

 彼はネクタイをほどきながらそう言った。普段はあまり見られないその優しさに、胸がぐっと詰まる。あわててネクタイを受け取る。


 誰かに相談したいような、したくないような。

 相談したりすれば、わたしがその話に対してどれくらい真剣なのか推し量られてしまいそうだし、相談しないでいれば秘密は心のうちに黒く沈んでただ重かった。

 佐賀さんはどれくらい本気なのかな、本当は他に彼女がいたりして、と彼のことばかり疑う。わたしは狡い。

 彼がいることをはっきり言えば済むことなのに……それはふたりで会った時でいいかもしれない、と自分を納得させる。


「今週の金曜日にどうですか?」

 すれ違いざまに廊下で呼び止められて直接的に誘われる。わたしは突然やって来た現実に頭がついて行かず、あわてた。

「金曜日、ですか……?」

「そう、週末、忙しいかな?」

 予定は空いていた。彼との約束は木曜日だった。

「えっと、スケジュール、見直します」

「見直さないといけない程、週末は忙しい人?」

 佐賀さんの声が少し大きくなって、驚く。飲みに行くくらいで、そんなに大事でもないのに。

 考えてみたら、それはわたしも同じだった。

 ただ飲みに行くだけで、そんなに事を大きく考え過ぎだったのかもしれない。

「金曜日は、ちょっとダメなんです。来週の平日でもいいですか?」

「断られなくてよかった」

 佐賀さんは笑顔を浮かべた。それは本心のようだった。

「じゃあ日にちは伊藤さんに合わせます」


 秘密というのは、雪だるま式に大きく育つ。

 記念日を迎えようとしている今、何をやっているのか、自分でもよくわからない。

 彼に大きな不満があるんだろうか……?


「支度できた?」

 仕事帰りに家まで迎えに来てくれた彼を、玄関先で迎える。

「待って、ネクタイ、曲がってるよ」

 手を伸ばして彼のネクタイを整える。結び方が悪かったのか変なところにできたシワが直らない。

「あのさ」

「うん、もうちょっと」

 彼が下を向いてしまってますます上手く結べない。

「直してあげるから、一度上がったら? 時間ないのはわかるけど、曲がってるとカッコ悪いよ」

 何も言わずに靴を脱いで彼は部屋に上がった。背の高い彼のネクタイを、できるだけ手際よく直そうと焦る。

「菫」

 焦っていた右手を掴まれて、不意にキスされる。時間が無いんじゃないのかな、と頭の隅でぼんやり考える。

「お店での方がカッコつくかな、と思ってたんだけど、これ」

 かわいらしいサイズの四角い箱が彼のポケットから出てくる。中身は開けなくてもわかる。これは……。

「――毎日、ネクタイ直してくれない? 記念日だから言うわけじゃないけど、『3周年』って、プロポーズにキリがいいだろ?」

 照れて横を向いた彼の目を、できるだけ真っ直ぐに見つめたいと思った。そうしたら、彼がわたしをどれくらい想ってくれてるのか目に見えるような気がした。

「ありがとう、って言えばいいのかな。それとも喜んでって言うべきなのかな」

「どっちでもいいよ」

 予約の時間が迫っていた。


「『付き合ってる人がいるんです、ごめんなさい』でいいじゃん。何をそんなに流されてるの?」

 いつも辛辣な同期のトモちゃんが、そう言った。

「佐賀さんかー。いい物件だとは思うけど、あの人、そこそこモテるし付き合ったら気を揉むよ? 3年付き合ってプロポーズの方がずっといいって。悩む必要なし、ロマンティックな彼氏に一票」

 お昼休憩が終わる頃、仕事に戻ろうとする佐賀さんを捕まえる。

「あの、『付き合ってる人がいるんです、ごめんなさい』」

「そうなのかなぁって思ったんだけどさ」

 佐賀さんは苦笑いを浮かべた。

「定型文だね。もしかしたら傾くかもしれないって待っちゃったんだよ。こっちこそ試すようなことしてごめん」


 金曜日には予定がある。それは彼が泊まりに来る日だから。わたしは「週末は忙しい人」だった。



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