天文3年(1534年)

天文3年(1534年)の方針

天文3年(1534年)


 正月に養父の長井新九郎とともに土岐頼芸様の元へ新年の挨拶に赴いた。今回は養父だけでなく、松尾小笠原家に臣従していた東美濃の国人領主たちも引き連れている。

 土岐頼芸様に従う国人領主たちに、東美濃を回復したことを見せ付けるためだ。

 養父が先導することで、土岐頼芸勢力の中での養父の影響力の大きさが明らかになるとともに、養祖父を失っても、長井新九郎家の勢力が衰えた訳では無いことを誇示している。

 養父は、小守護代長井家を継いだ長井景弘様と同格として扱われ、土岐頼芸勢力での権勢を確立していた。

 土岐頼芸様からは、頼芸様に従う国人領主や家臣たちが集まる中で、改めて東美濃回復の賛辞を頂き、支配下においた東美濃の領有を認めていただいている。

 また、東美濃を回復したことで、東美濃の情勢も落ち着き、岩村遠山氏も養父から土岐頼芸様に臣従を促されたことで、当主の遠山景前が新年の挨拶に出向いていた。

 土岐頼芸様は、わしに恵那郡の取り纏めを命じ、与力として岩村遠山氏を付けられることとなる。

 遠山景前は悔しそうにしていたが、その後に挨拶した時は、愛想笑いを浮かべており、東美濃の安定に寄与すると誓うこととなった。


 土岐頼芸様への新年の挨拶を終え、苗木へ移動すると、木曽氏の当主木曽左京大夫義在殿の訪問と新年の挨拶を受ける。一応、木曽氏を臣従させているからな。

 木曽氏には、臣従後に食糧の援助などをしており、東天竺屋から商人を派遣して、様々な品物の売買や木曽檜の買い付けなどを行っている。

 木曽左京大夫殿とは初めて会うが、大人しそうな人物であるものの、芯の強さを感じさせられた。

 木曽路を整備し、木材を売ることで銭を得ようとするなど、田舎大名(足利将軍から府中小笠原家と同格と認められているため)としては、かなりの傑物であると言えるだろう。

 木曽左京大夫殿を歓待したところ、当家の馳走が相当旨かったらしく、驚いていたのが印象的であった。

 木曽左京大夫殿に、土産として海産物の干物や醤油を贈ったところ、大いに喜んでいた。

 当家から派遣している木曽路奉行を通じて、当家と連携することや木曽路を拡張・整備をすることを約束してくれる。

 木曽氏と取引を始めた東天竺屋にも、出来る限りの便宜を図ってくれる様で、まずは木曽福島に東天竺屋の店と宿を建てることとなった。

 何れ、各宿場に規模の大小はあるが、東天竺屋の宿を建てるつもりだ。

 木曽左京大夫殿は、当家からの支援に感謝しつつ、木曽谷へと帰っていった。



 木曽左京大夫殿の挨拶を終え、わしは兼山に戻り、重臣たちと今年の方針について話し合う。

 信濃に送り込んだ忍衆から、府中小笠原家が今年中に松尾小笠原家を滅ぼすべく、軍を起こそうとしているとの報せを受けている。

 これは、府中小笠原家を攻める絶好の機会やもしれぬ。府中小笠原家は、松尾小笠原家攻めで手薄になっているはずだ。

 大義名分は、臣従している木曽氏が府中小笠原家を攻める援軍と言う名目で良いだろう。

 木曽氏の援軍と言う名目とは言え、府中小笠原家を攻めたら、土岐頼芸様や養父から、退くように介入されるかもしれないから、時間との勝負だな。

 府中小笠原家を滅ぼしてしまっては、土岐頼芸様や養父の介入を許してしまうだろう。

 最も望ましいのは、府中小笠原家を攻め、信濃国守護小笠原家を傀儡にすることだ。

 傀儡にした府中小笠原家から、わしは信濃国では守護小笠原家に仕える国人であると主張してもらえば、土岐頼芸様や養父からの介入を防ぐことが出来るだろう。

 高砂国から運ばせた例の物を木曽路の先にある洗馬宿に先行して運ばせておくことにする。

 取り敢えず、木曽氏に府中小笠原家を攻める準備をさせないといけないな。


 今年の内政については、奴隷労働力を使って、中山道の拡張・整備を優先し、東美濃の開墾や灌漑の整備を行う予定だ。

引き続き、農作業や工業の手伝いをさせ、生産力を上げるつもりである。

 しかし、府中小笠原家を攻めるとなると、戦力として奴隷をかき集めなければならないので、奴隷労働力の配分は難しいことになるかもしれない。

 東美濃攻略により文官の数も増えているし、府中小笠原家を攻めても領土を拡大させる訳では無いので、大丈夫だろう。


 工業については、引き続き火縄銃の生産と分業化の促進である。鍛治師などの職人を増やさなければならない。

 南蛮との取引が増えているので、様々な職人を育成するとともに、工業製品の生産量を増やしていく必要があるだろう。

 東美濃では、桑畑を作ったので、養蚕農家を増やす準備をさせる。


 交易については、倭寇狩りやポルトガル船狩りで船の数を増やしているため、南蛮交易を増やしたいと考えている。

 また、直江津の船を増やすべく、更に派遣するつもりだ。蝦夷を雇い、小樽や石狩の蝦夷たちと交流を持ったので、本格的に交易をしたいと考えている。

 年末に届いた、馬路玄蕃の報告から、オスマン帝国との交易が可能となりそうなので、そちらにも交易船を送れるようにしたい。



 軍事については、主力は東美濃に置いており、府中小笠原家との戦も可能であろう。

 ただ、願証寺内での兄弟の意見対立によって、木曽三川の河口地域が不穏な空気を漂わせているため、そちらに備えておく必要もあるだろう。

 平井宮内卿は、志摩国に置き、新兵の教育や雑兵の訓練任せ、もしもの際の兵力を確保させるつもりだ。

 府中小笠原家を攻めるとしたら、山本菅助に作戦立案をさせる必要があるだろう。



 外交では、年末に馬路玄蕃がオスマン帝国から帰国している。

 馬路玄蕃からの報告の書状は届いており、スレイマン1世は贈り物に大層喜んでくれた様だ。

 わしを日本の地方軍事政権の長として認め、外交関係を築くことを認めてくれたとのことである。

 非公式の同盟や軍事支援は、現状では困難なものの、技術支援などはしてくれるそうで、建築家、医師、科学者、工業技術者などを派遣してくれた様だ。

 また、スレイマン1世は顧問として官僚を窓口として派遣してくれている。

 スレイマン1世からより大きな支援を得ようとすれば、派遣された官僚を満足させなければならないだろう。派遣された官僚に早く会ってみたいものだ。

 馬路玄蕃からは、オスマン人たちが活動する屋敷とモスクを用意して欲しいとのことであった。

 日本で衆目に晒す訳にはいかないので、志摩国の何処かの島に出島の様な島を作る必要があるだろう。

 鳥羽湊に近い菅島は、菅島城もあるため、菅島城に屋敷やモスクを作るのが良いかもしれない。

 もし、オスマン人たちが賊に襲われても、菅島城に逃げ込めば、時間稼ぎは出来るだろう。

 住民たちが住んでいるのが問題だが、雑事をする者なども必要だ。疫病が流行ったら、真っ先に被害を受けてしまうが、仕方ないだろう。



 諜報関連では、忍衆を信濃国と願証寺周辺に集中的に配置している。

 畿内や関東の情勢も不安定なままなので、不穏な地域の情報収集が必要だろう。



 高砂国については、国奉行の山田式部少輔が諸部族を徐々に平定しており、本来なら台北の出来る湿地を埋め立てているそうだ。

 引き続き、攻略可能な部族を平定してもらうとともに、オスマン帝国から届いた作物の苗木や植物を植えて栽培する様に指示している。

 高砂国では、新型兵器の実験や新型船の建造など、頑張ってもらいたい。

 可能なら、オスマン帝国の官僚が乗ってきた大型船も見学させてもらいたいものだ。



 今年はのんびり内政に重点を置たかったが、そうもいかない様である。

 府中小笠原家攻めはともかくとして、願証寺がきな臭いのは困ったものだ。

 本願寺が分裂してしまったのは、わしのせいなので何とも言えないのだが。

 今年も大いに忙しくなりそうなので、しっかりと準備をするとしよう。

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