KuroQi on the run

oga

第一部 焼けたトタン屋根の上の猫たち

金色の猫 θυσία( スィスィア )

第1話 一なる世界

「 クロチィー いらっしゃい 」

 女性がクロチィーに呼びかける、クロチィーは真ん丸な目を更に見開きおそるおそる女性に慎重に歩み寄って行く。

「 もう 何で毎日毎日そんなに警戒してんのよ 」

 笑いながら女性はフードボールに餌をもってくれるとクロチィーは用心深く鼻を近づけひくひくと匂いを嗅ぎ餌に口をつける。彼女が優しくクロチィーの頭を撫でると一瞬ビクっとした動きを見せた後にまた無心に餌を食べ続けた。

 クロチィーにとってのこの家は自分の縄張りだった、目が覚めると縄張りのチェックを隈なく行い異常がない事を確認しなければならない、何時もと違う物があれば取り敢えず触って危険がないことを確認する、出来れば床に落っことして攻撃を加え動かない事を確認するのがベストだ。この家にはクロチィーの他に何人かの人間が住んでいる、その中のこの若い女性がいつもクロチィーの餌や水の準備をしてくれているのだ、彼女に触られるのはわるくない、彼女の手は柔らかくその動きはとても心地よい、クロチィー自ら彼女に触ってほしくて接近して行くこともある。他の人間もたまにクロチィーを触ろうとするがこれはあまり心地よくはないのでスルリと身をかわすことの方が多い。

 女性はしばらく無心に餌を食べるクロチィーを眺めてから

「 じゃあね いい子にしてるのよ 」

 クロチィーは一瞬彼女を見上げミャァと小さく声を出し食事を再開した。

 食事を済ませ水を飲んだ後、クロチィーはお気に入りの2階の出窓に登りガラス越しに外の世界を見下ろした。クロチィーにとっての外の世界とはこの窓枠に切り取られた1枚の絵にすぎない、車が時折通過したり人が歩き過ぎて行く家の前の生活道路を眺めながらゆっくりと眠りに誘われるのがクロチィーの日課の1つでもあった。クロチィーの知る世界とはこの縄張りである家の中と出窓から見える1枚の絵、それから時折キャリーケースに押し込まれ無理矢理連れて行かれる動物病院とペットショップだけである。クロチィーは自分の知る世界があればそれで十分だった、知らないものを知りようが無いんだから当たり前の話だ、クロチィーの知るクロチィーの世界、他に一体何が必要と言うんだろう。


 出窓でうとうととしていると何だか下が騒がしいようだ、どうせまた他の人間が縄張りに入って来たのだろうとクロチィーは思った、これは一応見に行っておかないといけない、ここはクロチィーの縄張りなのだから侵入者はチェックしておく必要がある。

「 クロちゃん いらっしゃい お友達が来てるわよ 」

 下の階から聞き覚えのある大きくキンキンして耳障りな女性の声が響きわたる、クロチィーは用心しながら階段を下って行き廊下からおそるおそるリビングを覗き込むとこの家の人間の中年の女性と見知らぬ女性がソファーで談笑していた、そしてその女性の膝の上には……

 一匹の金色の猫がいた。

 クロチィーは焦り階段を駆け上がる、心臓の鼓動がアラートのように激しく高鳴る。猫を見るのはこれが初めてではない、動物病院やペットショップで何度か遭遇しているしその時に軽く会話を交わした事もある。会話と言っても相手に話しかけられて曖昧な返事をしただけなのだが、しかし今の状況は違いすぎる、ここはクロチィーの縄張りだ、金色の猫はクロチィーの縄張りに入って来たのだ、人間とは訳が違う、猫の侵入など許す訳にはいかない、なのにクロチィーはブルブル震えながらお気に入りの棚の下のスペースに潜り込む、クロチィーが怖い時に1番安心出来る場所なのだ。

「 どうして隠れるの 」

 聞き慣れない声がしてクロチィーはビクリと身体を硬直させる。

「 もしかして他の猫に会ったことないの 」

「 そ そんなことない ここは僕の縄張りだ

早く出ていってよ 」

 姿の見えない声の主にクロチィーは勇気を出して言ってやった。

「 僕の名前はスィスィア 」

「 シシア? 」

「 違うけどまあそれでもいいや 君の名前は 」

「 僕はクロチィー いいから早くいなくなってよ 」

「 もしかして僕が怖いの でもそれは無理 僕の飼い主が旅行に行くんで僕をこの家に預けたんだ しばらくはここに厄介になるよ 」

「 ここは僕の縄張りだよ 早く出てけ 」

「 その前に君が出てきてよ クロチィー 」

 金色の猫スィスィアが突然薄暗い棚の下をサファイアブルーの瞳でにゅぅっと覗き込んできた。

 スィスィアはクロチィーと同じくらいのまだ成熟しきれていない若猫で美しく金色に輝く上質な毛並みを持っていた。

「 どこから来たの 」

 クロチィーはおそるおそる棚の下から這い出しスィスィアとは少し距離をとる。

「 やっぱり知らないんだ 僕はクロチィーの事をよく知っているのに 」

「 えっ 意味が分からないよ えっとぉ……シシアだったよね 」

「 向かいの家だよ 僕の縄張りは 」

「 そ そうなの 」

「 そうだよ 君が2階の出窓から外を眺めているのを僕は下の窓からいつも見上げてたんだ 気付いてさえなかったなんてショックだよ 」

 そんなこと言われてもクロチィーは困ってしまう。

「 じゃあ さっき一緒にいた人間が 」

「 僕の飼い主で向かいの家の住人さ 旅行に行くんで僕をここに預けに来たんだよ 」

「 もしかしてシシアは僕の縄張りを奪いに来たの 」

「 違う違う もうクロチィー 飼い主が居ない間だけここで面倒見てもらうだけだよ 」

「 居ない間ってどれだけ もし帰って来なかったら 」

「 帰って来るって クロチィーはそんなに僕が嫌いなの 」

 嫌いかと言われてもクロチィーにはわからない、クロチィーはクロチィーの世界さえあればそれでいいのだから、スィスィアが居なくなればクロチィーの世界は今まで通りだ、それが当たり前なのだ。スィスィアがクロチィーの縄張りに居るのは当たり前じゃない、当たり前じゃないことなんてわかる筈が無いんだから。

「 まあどっちにしろ僕の意思じゃあどうにもならない問題だよ それはクロチィーもおんなじだと思うよ 預けられた以上飼い主が帰って来るまで僕はこの家に居る事になってしまったんだからね 」

「 じゃあやっぱり僕の縄張りを奪うの 」

「 奪わないって 僕はここにいる間クロチィーと仲良くやっていきたいって思ってるんだから 」

「 仲良くって何をするの 」

「 う~ン ご飯食べたり追っかけっこしたりお昼寝したりかな 」

「 シシアと一緒に 」

「 そう 僕と一緒に クロチィーは僕のこと嫌い 」

「 わからない 」

「 じゃあ もしクロチィーが僕のこと嫌いって思ってたら僕はクロチィーの視界に入らないように心がけるよ それならいいでしょ 」

「 シシアがもし僕を嫌いな時は 」

「 僕はクロチィーをずっと窓から見上げてた 嫌いな時なんて無いよ 」

 そう言うとスィスィアはクロチィーに歩み寄り鼻先を近付けた、クロチィーはこんなに近く猫に近付かれた事は今まで無くひげがムズムズしたがわるくは無かった。






Aποκάλυψις αʹ……θυσία ❴ スィスィア ❵( ギリシャ語で生贄 或は犠牲を意味する )

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