第五章

来訪者

 夜半、居間の暖炉の炎に照らされながら、薄明かりの中で男は独り、いつもの酒を嗜んでいた。

 決して高級な酒ではなく、そこいらの酒場でも振る舞われているような大衆向けの安酒だ。


 海沿いに建てられた屋敷の窓の外からは、波の打つ音が聞こえる。

 幼少の頃より常に海と共に生きてきた男には、波の音は心休まる子守唄のようだ。


 窓の外に広がる夜の海の黒さは、慣れない者には不気味にも見えるらしいが、男にとっては平静の象徴であり、慌しい日中の喧騒から逃れて、ようやく落ち着ける安らぎの光景でもある。


 揺り椅子に身を委ねながら海を肴に酒を飲んでいて、いつの間にか寝てしまい、気づいたら朝を迎えていたということも、よくあることだった。


「旦那様、失礼いたします」


 ドアをノックする侍女の声に、男はグラスを置いた。


「お客様が参られております」


 もうとっくに日も落ちた深夜といっていい時間帯。

 こんな時間に来訪など、危急の事態でもなければ常識を疑うところだ。


 しかし、男は慣れた様子で、客を招き入れるように侍女に指示をした。


 来客だというのに男は酒を飲む手を止めるどころか、注ぎ足してあおっていた。


 ややあって、件の来客者が男のいる居間に姿を見せる。


 フードつきの外套ですっぽりと全身を覆った男だ。

 室内でも外套を脱ぐ気配はなく、ドアから少し入った場所に突っ立っている。


「どうした? また新しい情報でも入ったのか?」


 来訪者から話し出す気配がなかったので、男のほうから声をかけた。


「ああ」


 手短な返事。愛想の欠片もないとはこのことだろう。


 詰まらない返事に男は嘆息してから、グラスの酒をあおる。


「飲むか?」


「結構」


「そうか」


 一応、社交辞令として男は訊いてみたのだが、予想通りに男の返事は素っ気なかった。


 薄明かりの室内の、さらに暗がりにいて、来訪者の姿は暖炉の明かりに照らされる影のようにおぼろげだ。


「俺は昔からこの安酒を愛飲していてなぁ。値段と同じで安っぽい味で、後にも残りやすい悪酒だが、これじゃないと飲んだ気にならんのだ」


 来訪者がなにか反応を見せるかと、あえて話題を逸らしてみたが、一言たりとも乗ってくる様子はない。

 グラスに映る来訪者の朴念仁を眺めてから、男は一気に残りの酒を飲み干した。


「酔っ払いの戯言だ。気にするな。じゃあ本題に入るか」


「これを」


 来訪者が放ってきた巻き手紙を、男は酔った手で危なげに受け止めた。

 ボトルからグラスに新たな酒を注いでから、男が封代わりの紐を解く。

 内容に目を通す内に男の表情が、しかめっ面に置き換わった。


「この情報は間違いないのか?」


 男は不機嫌さも露わに、来訪者に問い質す。


「今までこちらが誤った情報を渡したことがあったかな?」


「……まあないな。つい昨日も、あんたのおかげで連中の悪巧みを未然に阻止できたんだ。一昨日も、そのまた前のことも然りだ。信頼の基本は実績だ。あんたのことは信頼しとるさ」


 にやけ顔でそう言ってから、男は巻き手紙を握り潰した。


「ってこたぁ連中、本腰入れてこっちと事構える気ってか。上等じゃねえか!」


「用事は済んだ。ではさらばだ」


「ちょい待ちな」


 さっさと踵を返し、来訪者が居間から退室しようとするのを、男が引き止める。


 来訪者はフードから覗く顔をわずかに振り向かせ、無機質な視線で男を見た。


 早く用件を言えと無言で迫ってくる来訪者に、男はグラスの酒をあおることで応えた。


「慌てなさんな。あんたのことは信頼しているが、正直言って胡散臭い。そりゃ自分でもわかってるよな? こちらに情報をリークして、あんたが得るメリットってのはいったいなんだ?」


「胡散臭いのは理解している。だが、渡す情報が有益だというのは証明したはずだ。もちろんこちらにも目論見メリットがある。問われてもわざわざ説明する気はないがね。ただそれは、そちらのデメリットになることがないことだけは誓っておこう」


 いつもは一言二言しか喋らない相手の、男が初めて聞くほどの長口上だった。


「誓う、と大層にきたか。なに、単なる好奇心だ。こっちにデメリットがなければそりゃ結構なことだ」


 男とて、来訪者がもたらす情報を、全面的に盲信しているわけではない。

 そもそも付き合いもほんの数日で、一週間ほど前に町の酒場で声を掛けられたのが最初のことだ。


 男の立場上、言い寄ってくる輩は良くも悪くも掃いて捨てるほどいる。

 それでも、男が話を聞く気になったのは、相手の提示した情報とその精度だ。


 意図があるのは見え見えだが、その意図自体はいまだに見えてこない。

 情報の種類から、少なくとも陥れようとしているのではないと判断できる。


 利用しようとしてくるのなら、こちらも大いに利用するまでだ。

 それこそ、相手の望みでもあるのだろう。


(上手いこと乗せられているふうで、気に食わなくはあるけどな)


「これ以上、用がないのであれば失礼する」


 男の返事もろくに待たず、告げるや否や、来訪者は闇に溶けるように姿を消した。

 実際には普通に暗がりのドアから出て行っただけなのだが、少なくとも男にはそう見えた。


「……さぁて、明日は領主殿の屋敷に顔を出す必要があるな。また忙しくなりそうだ」


 忌々しげに――しかしどこか楽しげに、男は並々と注がれたグラスの酒を一息に呑み込んでから――ベッド代わりの揺り椅子に身を預けるのだった。

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