否が応でも春は来る

伊瀨PLATE

第1話  嫌な予感ほど当たるものです

 桜は満開になってすぐ、儚く散ってしまうからこそ美しい。という、考え方は理解できそうにない。美しいものは手元に置いて、ずっと美しいままでいて欲しい。


 花は桜木、人は武士。散り際、死に際が潔いことは美しく、人の胸を打つという。

 アホか。少しの間しか咲かないから、花見というイベントにしているだけだ。春夏ずっと咲いてたらずっと見たいわ。期間限定品に弱い日本人の特徴を、上手く利用されているに過ぎない。

 という持論を母に展開したところ、

「あんた、男ができたら束縛するタイプね……。というか、理屈っぽいから男子に敬遠されそう。イベント事はあたま空っぽで素直に『桜キレー』とか『虫こわーい』とか言ってる方がモテるわよ」

 と余計なアドバイスをもらった。さらに、

「はぁ、花の十五歳。高校生になって初めて見る桜に対してなんの感慨にもふけれないような娘に育ったのは、私の責任ね。黙ってても勉強してくれたのは助かったけど、小さいときにもっと絵本とか読んであげればよかったかしら」

 なんて、ため息交じりに育成失敗扱いされた。ひどい言われようだ。


 進学した高校は、最寄り駅から電車で四駅先。そこから徒歩で約十五分かかる公立の普通校。偏差値は県内ではそこそこ。もっと上も目指せると中学の担任教師は太鼓判を押してくれたが、反抗期だったのだろう、その教師の言い方がどこか気に入らず反発し、「この高校の制服が可愛くて憧れてたんです」と言って自分の志望校を通した。

 制服への憧れは嘘である。ごめんね先生。

 そんな特に憧れてもいなかった、よくある紺のブレザーの制服に身を包んで、電車に乗って、到着したのは合格発表以来となる、進学先の高校。

 今日は日曜日。入学式は明日、月曜日である。

 日にちを間違えたわけではない。入学式前日に、おろしたての制服の着慣らしを兼ねて、通学経路の確認に来たのだ。


 女性は脳機能的にどうたらで地図を読むのが苦手な人が多いとテレビで言っていたが、自分もその例に漏れず、方向音痴である。

 まあ通学なんて、同じ制服の人間見つけて付いていけばそれで事足りるのだが、出来れば人に頼りたくはない。ましてや知らない人を最初からアテにするなんて、怖い。不確定要素は怖い。

 だから入学式当日、一人でも平気なように今日の計画を立てた。

 しかし、案外すんなり事が済んでしまった。

 最寄り駅から正面の大通りを真っ直ぐ進むと、進学先の高校名の掲げられた看板が『この先右折500メートル』と指し示してくれていて、迷うことなく目的地に到着した。

 保険のつもりでスマホで地図アプリを起動させていたのだが、ろくに見ることもなく終了。電力の無駄に終わった。


 目的は達成したものの、あまりにも順調すぎたうえ、日曜日で正門も閉まっていて中にも入れないので、時間潰しに校舎の周りを歩いてみる。

 合格者へ送られた校内行事案内の中には、十月に校内マラソンと表記があったのを思い出す。この校舎をいったい何周すればいいのかと早くもげんなりとしつつ、再び正門前に戻ると、先ほど開いていなかった正門が開いている。

 はて、と思い少し門の内側を覗いてみるが、正門が開いている以外に変わりはなく、人の姿も見えない。

 こうなると、最初に見たとき、本当に校門は開いていなかったか? と自らの記憶が怪しくなってくる。

「…………行くか」

 内に入ってみることにした。なに、もし怒られても謝って済むだろう。と軽く考えた。

 さすがに校舎の中にまで入る気は起きず、校庭や、車が二台駐まっている職員駐車場に生徒の駐輪場、グラウンドと順に見て、職員駐車場脇に並ぶ桜の木の元へ足を伸ばす。


 桜は、明日の入学式で新入生を迎える準備は既に万端整っているかのようにほぼ満開。天気予報では今日も明日も晴れ一色。降水確率十パーセント以下。絵に描いたような入学式日和だ。

 実を言えば、新入生が明日、揃って見るべき桜を先取っている優越感がある。

 桜切る馬鹿、梅切らぬ馬鹿という言葉があるからやらないけれど、それこそ枝を切って飾りたいくらいには桜は好きだ。


 だからきっと、桜に見惚れていたんだろう。


 近くに人がいることに気が付かなかった。


 木の幹の反対側に隠れて、スーツ姿の男性がうずくまっていた。二台の車の内、どちらかに乗ってきたのだと思う。

 驚いたが、悲鳴はこらえた。なぜって、その男性がひどく青ざめた顔をしていたから、恐怖より心配が勝った。

「だ、大丈夫ですか」

 どう見ても大丈夫じゃなさそうだが、ついそう声を掛けてしまう。

 社会人らしい黒い短髪に、地味で野暮ったい眼鏡の男性は、こちらの存在に気が付いていたようで、緩慢な動きで顔を上げると、不思議そうな表情になった。

「あれ、やっぱり生徒だ……日曜日にどうしましたか、忘れ物ですか」

「いえ、わたしは少し下見に来ただけで」

「下見? 桜の?」

 アホか――と出かかった言葉を呑み込む。

 相手は平常ではないのだ。優しく普通に訂正する。

「学校の、です。明日入学式なので、道に迷わないようにと」


「……ああ、新入生。なるほど」

 男性はわたしの体を上から下まで見て、パリ付いた制服で納得したらしい。

「この学校の先生ですか? その、若く見えますけど」

「君とちょうど十歳くらい違うよ。二十五歳」

 言いつつ、男性はゆっくり立ち上がる。思ったよりも背が高い。180cm以上はありそうで、つい見上げる。

「経路の確認が済んだなら、もう帰りなさい。今日は全生徒立ち入り禁止。私も帰りますから、もう門も閉めますよ」

 急に教師のような言い方をする男性だが、顔色が戻っていない。

「どうして桜の木の下でうずくまっていたんですか? 体調が優れないのであれば、その状態で運転するのは危険ではないですか?」


「……………………」


 男性は無言で苦笑いを作った。

『あ、やばい。めんどくさい奴に見つかった。うぜえ』と顔に書いてあるようだった。こういう顔は何度か色んな人にされたことがあるのでよくわかった。

 なのでわたしはにっこりと笑った。

「このままでは、わたしは明日以降出来た友達に、今日のことを面白おかしく話してしまいます。怪談になりますかね? 不審者情報として認識されますかね?」

「……君、あんまり友達作るの上手じゃなさそうだよ?」

 失礼なことを言う。しかしまあ、最後の抵抗だったのだろう。ため息を一つ吐くと、観念したように両手を挙げて、

「わかった。情けないから言いたくなかったけど白状する。その代わり、お互い名乗らず、今日のことはなかったことにしよう。俺は今日学校へは来ず、君は校門が閉まっていたので校内には入らずに帰路についた。オーケー?」

 と提案してきた。

「まあ別に、名前もどうせ明日以降にわかるでしょうし。いいですよ」

 了承。一人称が『俺』になっているのは、校務を離れた証左だろう。彼なりの切り替えなのだ。

 わたしの返事を聞いて、彼はヤンキー座りで再びしゃがんだ。

「十歳も年の離れた子に弱みを握られるとは……」

 と呟いた後、彼は語った。わたしも、彼に視線を合わせるようしゃがみ込んで聞いた。


 簡潔に言うと、彼が青い顔をしていた原因は、極度の緊張だった。

 本日十七時から、教師同士の集まりがあるらしい。明日からの新年度頑張りましょうの決起集会のようなノリらしいのだが、新任である彼は、そこでスピーチと一芸を求められているらしい。あらゆるハラスメントが取り沙汰されるこのご時世に、なんて前時代的な……というわたしの感想はともかく、慣習とはそういうものらしい。

 明日の入学式でも壇上で少し話すことになっているらしいのだが、それについても既にダメ出しを食らっていて、『そんなんじゃ舐められる』とか『学生気分が抜けてない』とか、挙げ句の果てには『そんな言葉じゃ今の子に響かない!』とまで言われ、訂正して今日の集会で直した原稿を読み上げろと言われているのだそうで……。


「どう思う?」と聞かれたので、「教師にはなりたくないです」と答えた。

「新入生を迎える桜を眺めていれば、初心に返って新入生のための文言が浮かぶかと思って、来てみたんだけどね、浮かぶのは定型文とさして差のない『桜』を使った挨拶の導入くらい。時間がないと焦って、制服着た生徒に見つかって、もう精神ズタズタだよ。手も冷えちゃって、ほら」

 彼が掲げた左手を掴むと、末端冷え性気味のわたしの手よりなお冷たかった。

「今日、集会行かない方がいいじゃないですか?」

「明日、孤立無援でぶっつけ本番の方が嫌だよ」

「でも、体調が悪いなら仕方がないじゃないですか」

「風邪とか、感染力があるならそうだけど、違うからねぇ」

 これが社会の歯車か、と思った。求められた形に成れなければならず、成れなければ粗悪品として代わりを探される。

 思えば、自分も変わっているとよく言われる人種だ。思ったことをそのまま言ったりすると、驚かれることがままある。家族間ですらある。

 個性を大事にしなさいとか、一人一人がオンリーワンとか、聞き心地の良い言葉は社会には存在しないのだろうと想像してしまう。

 未来には、夢も希望もないのだろうかと。


「そっちこそ」と、不意を突かれた。

「はい?」

「そっちこそ、明日は入学式で、新しい環境だろ? 緊張とかしないの? どんなクラスになるかなーとか、勉強がー部活がーとか、そういうの」

「あー、まあ、人並みに」

「なんだそりゃ」

「不安はもちろんありますけど、なるようになるかなって」

「大物だねえ」

「友達百人作りたいわけでもないし、孤立しない程度になんとかなれば、それでいいかなって」

「達観してるなぁ十五歳……」

「先生は、ある意味生徒全員と友好関係作って保たないといけないから、大変ですよね。お察しします」

「お察しできるんだ……なんか敗北感あるわ……」

 それなら、と彼は微笑み、気取って言う。

「この緊張のほぐしかたも知ってるかい? 博識少女」

「……呼び方は引っかかりますが、知っていますよ。緊張で手先が冷えるのは、頭に血が多く回っているからです」

「へーそうなんだ……。手が冷たい人は心が温かいって言うよな? その理屈で言うと、体温イコール血液量。合ってますか? つまり、心は頭にあるんでしょうか、ねえ先生」

「先生が生徒を先生呼びしないで下さい混乱します。……さあ、心の在処なんて知りませんけど、心臓がある限り胸には常に血が多く集まってますし、温かいですよ。心が胸にあるならば、その人の心は常に温かいでしょうね」

「君の心は?」

「常時末端冷え性気味なので、胸にあるかもしれませんね。触って確かめてみますか?」

「はっはっは」

 楽しい会話だった。子どもぶる彼を、大人ぶったわたしが相手をする。こんなシチュエーションは、恐らく二度とないだろう。


 声に出して笑っていた彼は、その楽しそうな笑顔のままで、

「ねえ、ちょっとその場で背中向いてみて」

 と言ってきた。言われるがまま背中を向くと、左右の肩甲骨のちょうど間あたりに、手を置かれる感触。

「……ほんとだ。あったかい」

 彼はわたしの心臓の位置を、背中から捉えた。

 制服である厚いブレザーは、わたしの体温を彼の手に届けてしまった。

 不意打ちによって、高鳴った心音まではどうか届くなと祈った。


「ありがとう、君のおかげでなんとかなりそうだ。明日はどこかの席で聞いててくれ」

 態勢は変えず、首だけ後ろに向けて窺う彼の顔色は、随分良くなっていた。先ほど笑ったのが効いたのだろう。柔らかい笑顔が、桜の木陰によく似合っていた。

「……ちょっと思い浮かんだんですけど、実は眼鏡を取ると超絶イケメンで、そんな先生がわたしのクラス担任!? みたいな少女漫画的展開はありますか?」

「今、ここで眼鏡取ってやろうか? この世界には夢も希望もないことを教えることになるが」

「新入生相手になんて大人げないんですか……」

「こっちには生活と収入がかかってんだよ」

 ごもっとも。

 わたしの刹那的かつ破滅的な妄想なんぞのために(社会的に)死ねまい。

「……それでは先生さようなら。明日から初めましてと言うことで、よろしくお願いします」

「ああ。キミの名前を呼ぶのが、明日じゃないことを祈るよ」

「ええ。わたしも緊張で参っちゃうような新人さんよりも、落ち着いたベテランの方が安心ですから」

「か、可愛くねえ……。はいはい、さようなら」


 普段なら言わないような辛辣な台詞を残して、わたしは帰路へ。

 初対面の相手に、随分と距離感を詰めてしまったものだ。失敗失敗。

 その場だけの関係ならともかく、明日以降も関わるかも知れない相手にあれはやりすぎた。

 珍しく自分も平常でなかったと反省。ため息とともに独りごちた。

「……いっそ、眼鏡外してもらえばよかったかも」

 あの場で夢も希望も打ち砕いてくれれば良かったのに。

 そうすれば、この止まらぬ妄想に苦しめられることもなかったのに。

 15の春にして、意識的に『恋に恋する乙女モード』を獲得したわたしであった。

 わたしは新しい遊びを覚えたばかりのこどものように、先生との約束を反故にするだろう。快楽・欲望を前に自分から歯止めは掛けられない。

 ああ、なんという地雷女だろうか。我がことながら笑えてくる。


 これ以上無駄にわたしと関わりたくないという、新米先生の祈りが届くことを願うばかりであった。

 

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