神話の国のキャロル
@onichiyo
第1話 戦闘開始
キャロル・アシェム大尉は操縦桿を傾け、攻撃ヘリの機体を敵戦車に向けた。ヘルメットのディスプレイで射撃権が移っていることを確認し、ミサイル発射ボタンを押した。カチリというボタンの感触が指先から腕を伝って脊髄にまで上っていった。
AGM-114ミサイルが白煙を吐きながら飛んでいく。キャロルはパキスタン軍のアル・ザラール戦車が粉々に吹き飛ぶことに何の疑いも持っていなかった。AGM-114はヘルファイアの愛称を持つ。ヘルファイアのヘルはヘリコプターのヘリから来ているのだが、その凄まじい威力から地獄のヘルと解釈されていた。
爆音と衝撃波がキャロルの乗ったAH-64Dアパッチ・ロングボウに届いた。
だがキャロルは違和感を覚えた。
着弾にかかる時間は四秒の筈だった。だが体感ではまだ二秒ほどしかたっていなかった。目を凝らし黒煙の中を窺うと何か青いものが透けて見えていた。
キャロルは自分の感覚を信じていた。ヘルファイアの射線上を何かが塞ぎ、ミサイルを途中で爆破させたのだ。突如、障害物が現れ、敵戦車の破壊を妨害したのだ。
戦場に吹く風が瞬く間に煙を消し去り、その青い障害物の正体を露わにした。
キャロルは大きく息を吸い、ゆっくりと吐き出した。
戦闘で最も重要なのは状況判断能力だ。先入観を持たず、事実のみを把握するのだ。
ヘルファイアは絶対的な命中精度を誇る。
ヘルファイアは確実に発射された
しかしそれは敵の戦車には届かなかった。
なぜなら、ミサイルの射線上に突如、何かが現れたからだ。
ミサイルはその何かに当り、爆発した。
その何かは青い色をしていた。
それは煙の中から姿を現した。
あり得なかった。あり得ないものが現れた。
キャロルは笑みを浮かべた。不合理、不条理、逆境、苦境こそが自分の能力を発揮できる、そして自分の存在を実感できる場所だった。
インド生まれのインド人でありながら、ブロンド、ブルーアイの少女の人生には一度たりとも平穏な時はなかった。この状況もキャロルの前に現れた困難の一つに過ぎないのだ。
キャロルは対戦車攻撃隊の隊長に状況を報告した。
「こちらKL1。敵戦車の撃破に失敗。追撃不可」
「おい、何だあれは? キャロル・アシェム大尉、お前にもあれが見えているのか?」
隊長の声には動揺と恐れがにじんでいた。
しかしキャロルは隊長をあざける気持ちも、不甲斐なく思う気持ちもなかった。
「見えています。攻撃しますか?」
「攻撃? お前、何を言ってるんだ? あれが何か分かっているのか?」
あり得ないものが現れたのなら、見間違いか、あり得ないという思い込みが間違っているのかのどちらかしかない。簡単な話だ。
キャロルは自分の眼の方を信じた。
「見たままですよ、隊長。戦いの神、アスラ神族のラーフですね」
キャロルはアパッチの正面に立つインド神から目を離さずに言った。
ラーフ神が実在して目の前にいた。身長は十二メートル。青い肌。腰巻だけで上半身は裸だった。見知った絵の通りの姿だった。
「そんな訳、無いだろう。俺もお前も頭がどうにかしているんだ。そうか、パキスタン軍の仕業だ。何か幻覚を見させられているんだ。あり得ないだろう、ラーフ神だなんて」
キャロルは一瞬だけ、集団幻覚を見せる秘密兵器の可能性を考えた。ヘルファイアも幻覚か?
キャロルにとっては秘密兵器の方があり得なかった。
「あの四本腕と太い尻尾は間違いありません」
攻撃ヘリを百メートルの距離にまで近づけた。キャロルとラーフ神は正面で対峙した。
強い太陽の光を受け、ラーフ神の肌は青い光を放っているようだった。四本の腕の内、上の二本は手のひらを空に向け、下の二本は胸の前で合掌していた。
キャロルはヘルメットのバイザーを上げた。この信じられない状況はビデオに録画されているのだろうか。世界中に放送されるのだろうか。世界中の人々は神が降臨したことに驚くのだろうか。
いや、良くできたCG画像だとして一時の話題になるだけだろう。
キャロルは改めて巨大なラーフ神の顔を見つめた。その顔には怒りも、敵意も浮かんでいなかった。そこにあったのは憐れみの表情だった。
キャロルが最も苦手とする感情だった。敵意や憎しみ、侮蔑には対抗できるが、なんら争うつもりのない憐憫には、自分が無価値で無力な存在になった気にさせられるだけだった。
キャロルは前部座席の射撃手のマヘシェに視線を向けた。狭い座席で膝を立て、頭を埋め丸まっていた。マヘシェの頭の処理能力を超え、現実逃避を行っているのだろうと判断した。まだ十代のマヘシェが対応できなくても無理はなかった。
「さてと、どうするかな」
ラーフは闘いの神、闇の神族アスラの一人だ。ヘルファイアが効かないのは確認済みだ。そして敵意は持っていない。巨大な神がその気になれば一瞬で、対戦車攻撃部隊は壊滅するだろう。
パキスタン軍にも何の動きも無かった。マヘシェと同じ状態なのだろうと思った。
キャロルはチェーンガンのトリガーに指をかけた。どうせ適切な命令が下ることはない。
キャロルはM230 30mmマシンガンをラーフ神の顔面に打ち込んだ。一分間に六百二十発の弾丸が音速の二倍の速さで飛んでいく。全弾、命中。ラーフ神の顔面をズタズタに切り裂くはずだった。しかしかすり傷一つ、負わせることは出来なかった。
最初から神を倒せるなどと思っていなかった。ただ状況判断を確実にするための情報が欲しかっただけだ。キャロルはアパッチをラーフ神の足元の着陸させた。
エンジンを切り、コクピットから飛び降りてラーフ神に近づいた。ヘルメットを脱ぎ、小脇に抱えた。束ねられたブロンドの髪が背中で揺れていた。
キャロルはラーフ神を見上げた。彼女に選択肢はなかった。逃げるなんてあり得ない。頭を抱えてうずくまることもあり得ない。戦争を続けるしかないのだ。
「ラーフ神、そこに突っ立ってられると邪魔なんだよね。どっかに行ってくれる?」
インド人の多くは非常に信心深かった。ほとんどの家に何かしらのインド神の絵が飾られている。持っているスマートフォンの壁紙をインド神にしているものも多かった。
金運の神で象頭、四本腕のガネーシャや、愛と美の女神のラクシュミー、芸術の神サラスバティ―、そして最高神ヴィシュヌ、破壊と恩恵の神シヴァなどだ。
キャロルはインド人として当然、彼ら神々に対する知識はあったが、信仰したことは一度もなかった。軍人であるキャロルにとっての神はAH-64Dアパッチだった。
ラーフからの返答はなかった。最初から神とコミュニケーションが取れるとは思っていなかった。やるべきことを一つずつこなしていくだけだった。
「何か用があるなら、さっさと済ませてくれない?」
突然、黒い影が日光を遮った。頭上に巨大なラーフの尾が現れたのだ。
キャロルは死を覚悟した。やれること、やるべきことをやろうとしたのだ。神の尻尾に叩き潰されたとしてもそれは仕方がない。物心ついた時から自分がいつか死ぬことは分かっていた。それが今日になっただけだ。
顔を上げ、自分の死を受け入れようとした。しかしラーフの尾はキャロルの頭上を通り過ぎていった。
ラーフは地響きを立てて足を踏み鳴らし体の向きを変えた。
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